191.パットの特技
師匠はそのまま駆け抜けて、イレの家に侵入すると、パドマをぽいっと風呂場に捨てて、出て行った。湯船からは、湯気が出ている。入れば良いということなんだろうな、と思ったので、素直に風呂を借りることにした。カーティス宅にも風呂はあった(湯船はなかったが)ので、それほど飢えてはいなかったが、入るならさっさと入った方がいい。冷めてしまったら、薪代が無駄になる。
風呂から出ると、匂いに誘われてダイニングに行った。ごはん、ごはん、とドアを開けると、沢山の料理と床に伏せた師匠の姿があった。師匠の前に置かれた蝋板には、また『ごめんね』と書かれている。何か悪いことをした自覚があるようだが、師匠である。何について謝っているのかが、パドマにはわからなかった。
「何を謝りたいのかわからないけど、ウチに謝るよりも、蹴った人に謝りに行った方がいいと思うよ。ウチも、無事かどうか見に行きたいから、行こうよ」
パドマは、師匠の袖をぐいぐいと引っ張ってみたが、動かなかった。師匠は、床に座ったままで、蝋板に追加の文字を刻んだ。
『あれは、無事。ルイにも殴られてる。問題ない』
「いやいや、わからないよね。騙されないよ」
『わかる。当たってたら、うちの子になるなら、連れて行く』
「うちの子? うちの子って何?」
『さよなら、ヴァーノン』
「絶対に嫌だ!」
パドマは、走って逃げようとしたところで、師匠に袖をつかまれて、捕獲された。師匠の袖はつかむのに便利だが、自分の袖はびらびらとして、本当に邪魔だと思った。
『うちの子にならなくていい。ごはんを食べよう』
「え? ならなくていいの?」
『60階も下りたくない』
「ああ、なるほど?」
師匠は、走らされるのが嫌なばっかりに、無茶振りを言ってきたのだと、パドマは理解した。パドマが断る内容であれば、何でも良かったのだろう。
今日のごはんも豪華だった。アスパラとアサリとゆで卵のピザ、鶏ももとパプリカのピリ辛煮込み、タケノコとラディッシュのサラダ、野菜スープ。ここまでなら、まぁ、いつもの師匠の食卓である。この先が、おかしい。ショートケーキ、シフォンケーキ、ミルフィーユ、サヴァラン、ムース、タルト、クレープ、シュークリーム、エクレア、トロペジェンヌ、どら焼き、ブリュレ、ババロア、ギモーヴ、ドーナッツ、フィナンシェ、クイニーアマン、フロランタン、ガレットブルトンヌ。それらがすべてイチゴ尽くしで並んでいるのだ。女子力高めの師匠のスイーツパラダイスである。目で見ただけでテンションが上がる可愛らしさだった。
「そうだね。彼のことは、後回しにしよう」
パドマは、蹴り落とされた男のことを忘れることに決めた。生きているかどうかを心配したのだが、死んでいたならもう手遅れである。そして、あの場には、頼れる男たちがいるのだ。生きているなら、彼らがきっと何とかしてくれる。むしろ、師匠をもう一度あの場に連れて行ったら、死者が増えそうな予感しかしない。見に行く方が迷惑で、怒られそうだった。
「いただきます」
自分への言い訳はうまいことまとまったので、席について、食事を開始した。風呂上がりに熱いものなど欲しくないのだが、野菜スープは、野菜の甘味がよく出ていて、美味しかった。胡椒のトリコになっているから、手に取ったのではない。
ピザを手に取って、そう言えば、いつから卵が触れるようになったんだっけ? と思った。パドマが出会った頃、師匠は野菜とミルクくらいしか、さわれなかったのだ。誕生日が先だったか、謝罪が先だったか。今日は、沢山お菓子が並んでいるから、かなりの数の卵を割ったハズである。師匠が卵を嫌がる理由は、恐らく、稀にヒナが出てくるからだと思う。あれはあれで美味しいのだが、予期していない時に見ると、パドマも少し泣きたい気持ちになる。ヒナの生育具合によっては、絵面のパンチ力が、かなり強いのだ。心は乙女な師匠だ、絶対に泣くに違いない。
「そういえば、何を謝ってたの?」
主義に反して、こんなにたくさん卵を割ったのだ。かなりの大罪を犯したことが予想されるのに、師匠はぷいっと右を向いて、聞こえないフリをした。
「許さなくていいなら、別にいいけど」
と言うと、師匠は少し顔を青ざめさせてパドマの方を向いたが、パドマが微笑むと、今度は左にぷいっと顔を逸らした。
師匠は、パドマを探しに行ったら許さないと言われたのに、我慢できずに助けに行ってしまったことを謝っていたのだが、パドマが忘れているようなので、謝るのを辞めることにしたのである。パドマは忘れたのではなく、ヴァーノンに仕事をしてもらいたいだけで、師匠に関してはどうでも良かっただけなのだが。
食後、白蓮華に遊びに行くと、見たことのない子どもが沢山増えていた。ようやく宣伝活動が身を結び、託児施設として軌道に乗ったのだろうか。貴族並の生活ができることが知られて、人を集めてしまったのだろうか。微妙に庶民より身綺麗な孤児たちの他に、チラホラと見たことのある少し薄汚れた庶民派の子どもたちが混ざり、なんでいるんだという豪華な服を着た子どもまで、部屋にいた。デザインは、みんな似たり寄ったりの服を着ているのだが、似たような服だからこそ材質の違いが、よくわかる。あれは絶対に、イギーが普段着ている服よりいい服だ。
驚きすぎて見すぎてしまったか、場違いな服を着た子どもが、パドマを見て、にこりと笑った。青い目をした金髪キラキラ少年である。初見だと思うのに、どこかで見たことがあるような気がする子だった。師匠ばりにキレイな髪をしている人間など希少だ。見たなら、覚えていそうなのだが、記憶にはなかった。自分より年下なら、某兄の殺人ショックで忘れた人ではないと思うのだが。
数日前まで作っていた人形のモチーフには向いていそうだが、白蓮華には似合わない子だった。1人で留守番もできるし、なんなら働きに出ていてもおかしくない年頃の大きな子である。孤児を想定して受け入れ年齢に含めているが、正直、託児なら必要のない年齢だ。パドマは、厄介ごとの予感に、すすすと師匠の後ろに隠れた。
「やっとお目にかかることができました。噂にたがわぬお美しい方ですね」
隠れるのが遅かったか、隠れた師匠の方に食いついたのか、金持ちそうな子どもが寄ってきた。ただ声をかけてきただけなのに、師匠は、大きな子どもの襟首をつかんで、手近なスタッフに渡すと、パドマ2人を引っ張って、兄弟部屋に押し込んだ。クサビのような物を挟んでドアを開けれなくすると、師匠は着替えを始めた。パドマは、パドマを抱えて背中を向けた。
「ああ、もう師匠さんにバレたか」
小パドマのセットでついてきたテッドが、師匠の様子を眺めて言った。
「バレたの?」
「師匠さんが、パット様になってる。さっきのヤツさ、英雄様狙いでここにいるんだ」
「しつこくいるのに、お姉ちゃんが全然来ないから、面白かった」
「え?」
パドマが振り返ると、師匠は着替えを終えて、顔にシャドーを入れていた。師匠は、ただ男の服を着せても、美少女が抜けず、まったく男に見えないのだ。実際は、おっさんなのに。いや、イレがおじいちゃんなら、師匠はその上をいくおじいちゃんなのだが。
着替えも早いが、メイクもあっという間に終えて、パットはパドマの近くにやってきた。いつ用意したのか不明だが、無断でパドマの剣帯にパット様マスコットを下げている。パドマが茶色のマスコットを下げているのに気付いたらしい。茶色のマスコットは、パドマが作ったヴァーノン人形である。出来の違いすぎる人形を隣に下げるのはやめて欲しい。縫製技術の違いもさることながら、パット様マスコットは金銀宝石でキラキラと輝いている。原価がいくらか、聞きたくないマスコットだった。
「パット様とお兄ちゃんが、仲良しになりますように?」
2つ並ぶマスコットを見ると、そのようにも見える。2つ下げる想定をしていなかったので、大分邪魔だ。後で、両方とも小さく作り直してもらった方がいいかもしれない。
だが、そう言われたパットは嫌そうな顔をした。クサビを外してくると、小パドマを片手で姫抱きにし、大パドマの手を取って歩き出す。パドマは、嫌がって逃げようとしたが、テッドに説得されて諦めた。
「あわよくば! とか全く考えてないパット様が、安心だろ。付き合ってくれるうちは、甘えてろよ」
パドマがみんながいる場に戻ると、パットの横に座らされ、強制ティータイムをさせられた。さっき散々師匠のお菓子を食べたところだから、もういらないのに、余ったから持ってきたお菓子がパドマの前に並べられ、お茶を飲むことを強要されている。左隣には、パットが座り、ひざに乗せられたパドマは、つらつらと文字を書かされているし、右隣に座ったテッドは、パットに渡された本を読み出した。本のタイトルは、『農奴の効率的な運用と領地経営』である。パットはテッドをどうしたいのだろうか。
仕方がないので、パドマはパドマに餌付けをして過ごすことにした。金持ちそうな子は、こちらに近付こうしているようだが、それとなくスタッフにガードされていた。「パドマ様、お話したいことが」「パドマ様、明日のご予定は」などという声が聞こえるが、その度にスタッフが話を聞くと別室に連れて行く。スタッフが代わりに話してくれるなら、出番はないだろうと、パドマは放っておいた。
パドマに拒否されたら、テッドに餌付けをし、更にパットにまで餌付けをして過ごしていたら、ギデオンがヤシガニを担いでやってきた。
「反省会会場は、神殿に変更します!」
それを言うだけのために、先行してやってきたらしい。巨人族という種族がいたら、間違いなくギデオンのことじゃないかな、と思うくらい、ギデオンは大きい。単純に背が高いだけでなく、筋肉の張りも半端ではない。ゴリラもびっくりするようなゴリマッチョで、見るからに重そうな身体をしているのに、どうしてだか足が速いので、たまに使いっ走りにされているのを見かける。但し、託せるメッセージは、それほど長くはないし、本人の機転に期待するのは推奨できない。単独で何処に出しても死なない、というのが、最大の長所だ。
ギデオンは、いい終わると、きのこポーズで動かなくなった。パットは、蝋板をパドマに差し出した。フタをめくると、ギデオンへの指示が書いてあった。
「おかえり、ギデオン。悪いんだけど、子どもたちに食べさせてあげたいから、会場を変えないで。ヤシガニを、ここで茹でてもらってくれる?」
「しょーち!」
ギデオンは、ヤシガニを担ぎ直して、調理スタッフと庭に出て行った。持ってきたヤシガニが大きすぎて、厨房ではどうにもならないのだろう。
少ししてから、今日一緒にいた人たちが白蓮華に到着した。ナサニエルも、ガッツポーズの人も、傷は増えていたが、元気そうだった。それが確認できたら、後はパドマには用はない。護衛をしていたつもりの人たちは、白蓮華パーティは順番制だからとお帰り頂いて、綺羅星ペンギンメンバーと何故か増えたグラントと、白蓮華のみんなでヤシガニパーティをすることになった。順番制は、グラントの名簿に載っている人しか順番は回って来ないのだが、説明は割愛した。それはパドマの役割ではない。必要なら、グラントがするのだ。知らないなら、説明をする必要がない人間か、説明をしたのに理解してない人間かのどちらかだ。パドマが付き合う必要はない。
百獣の夕星の納品が困らないのであれば、パドマのツケでヤシガニと肉を増やしていいよ、と言ったところ、パットから大金貨が飛んできた。ベシッと、セスの額に当たり、悲鳴が上がった。相変わらずの失礼な金払いだった。
「ひいっ、また大金貨が出てきた」
突然の高額寄付金に、スタッフ全員で慌てた。またしばらく白蓮華の金持ち生活は、安泰になったようだ。これだけ頻繁に大金貨が降ってくるなら、盗んでトンズラかますより、ここで甘い汁を吸い続ける方が得だと、思ってくれるといいな、と悪人ヅラを見回して、パドマは思った。
だが、金額が金額である。師匠が稼ぐところは見たことがないだけに、イレの財布はどうなっているのか、心配になってしまう。マイブームが大銀貨だから、大金貨は全て師匠にあげてしまったのだろうか。師匠は師匠で大金貨の使い道がないから、大盤振る舞いをしているのだろうか。
茹で上がったヤシガニは、厨房に運ばれて解体され始めた。すると、パットは、懐中からガラガラと大量の板切れを出した。釣書を思い出して、パドマはひぃっと思ったが、書かれていたのは、ヤシガニ料理のレシピだった。それをスタッフに持たせ、厨房に運ばせた。だが、パットの右手がそわそわしている。
「料理したいなら、行ってきたら?」
とパドマが言ったら、蕩けるような微笑みを浮かべ、口をふさいできた。言わなきゃ良かったと後悔した。周囲から、悲鳴があがったが、きゃーきゃー騒いでないで助けてくれよ、とパドマは思った。が、それについても、後悔した。
「おやめ下さい。パドマ様は、嫌がっていらっしゃるではないですか」
師匠がパットに変身した原因ではないかと思われる少年が、スタッフの制止を振り切って、とうとう噛みついてきたのだ。パドマは、嫌がらせをされてるのは君の所為だよ、帰ってくれよ、と心の中でそっと思った。
「決闘を申込みます。私が勝ったら、パドマ様への嫌がらせを即刻おやめ下さい」
年齢相応の正義感なのかもしれないが、相手をよく見てから言え、とパドマは思った。だが、パドマもパットを改めて見たら、強そうだとは思えなかった。パットは、小柄で細身でキレイな顔と服を身につけた15歳前後の少年にしか見えない。パットもキラキラ少年と同系統の坊ちゃんにしか見えない。パットの実力を見知っているから、そんな感想を抱くだけで、見た目だけなら、どうということもないことに気が付いた。おかしなオーラのようなものはあるのだが、周囲のスタッフの方が、大きくて厳つくて強そうに見える。ヤツらがいっぱいいるから、余計にパットが小さく見える。多分、パットの方が標準サイズなのだと思うのに。
「ごめん。気遣ってくれるところを悪いんだけど、助けてくれなくていいよ。ケンカを売るなら、相手を調べてからにしようか」
日頃、勝てない相手にケンカをふっかけまくっているパドマが言った。やめる気は一切ないが、大変さは身に染みているのだ。だから、止めた。でも、正義感にかられた坊ちゃんは、止まらなかった。すべてを金で解決してきた子なのかな、とパドマは思った。
「ご安心ください。腕力で方をつけるような野蛮なことは致しません。これで勝負を致します」
キラキラ少年は、お付きらしい少年から弦楽器を受け取って、パドマに見せた。高音楽器であることを予想させる小さい擦弦楽器だった。弦は6弦付いていた。
キラキラ少年は、遠回しにパドマをディスっていた。キラキラ少年曰く、今ここにいる成人は全員野蛮人である。そうだよ、野蛮人ですよ、と皆が思った。そう言われて傷付く人間はいなかったが、ああこの子バカなんだな、という温い空気はにじみ出た。助けようとしているパドマも、まとめてディスっているのに気づいていない。
そして、急に楽器を持って勝負を挑んでくるなんて、楽器を弾けない人間からしたら、卑怯者と言いたくなる謎の所業だった。トレイア行きの馬車の中で、いろんな楽器演奏をしていたし、その中に似たような楽器もあったから、多分パットは問題なく弾けるだろうことは、パドマは知っている。そして、きっとパットの方が上手だろうな、とも思っている。パットは見た目が少年なだけで、実はおっさんかおじいちゃんなのだ。キラキラ少年が天才児だったとして、練習できる時間のケタが違う。実際に、それで食べていけそうな腕も見たのだから、多分、そうだ。本当に、相手をよく調べてきて欲しい。パットが楽器を扱えるかどうかなど、なかなか調べがつかないかもしれないが。
パットは、ひざの上のパドマをパドマの横に座らせると、立ち上がって、キラキラ少年のもとに行った。そして、キラキラ少年の楽器を奪うと、演奏を始めた。返せと言って、取り返そうと少年が3人飛びかかっても、パットはそれらを蹴飛ばしながら余裕の演奏を見せた。だが、それもすぐに様子が変わった。
曲の始まりは、実に美しい音色だった。パットは、余裕の表情で弾いていたのだが、どんどんパットの指がおかしなことになっていったのだ。小曲を次々と弾いているようで、いくらもしないで曲調が変わるのだが、その度にパットの左手が楽器中を飛び跳ねたり、持っている弓の角度ががくんがくんと変わる。そのスピードが早すぎた。楽器の素養がないパドマすら、吟遊詩人の語り弾きなど話にならない難度だというのが、わかった。単音だった物が2音になり3音になり、挙句に左手指で弦を弾きだした時は、暴れていた少年すらパットに見惚れていた。パットが超絶技巧を見せつけるために適当に弾いているのでないことは、聴けばわかる。完成度の高い曲だった。一緒に合奏する楽器や歌の必要性を感じさせない一丁で満足できる曲と演奏だった。この中では、キラキラ少年が、それを一番に理解した。少年は、同じ曲は弾けそうにないし、騙し討ちで仕掛けた勝負でこの有様では完敗だと、認めざるを得なかった。
一曲弾き終わったパットは、ほうと息を吐くと、少年たちに楽器を返した。その瞬間、拍手と歓声が起きて、パットは師匠のように柔らかく微笑んだ。いつもはまとまりなく好き勝手に遊んでいる子どもたちも、仕事中のスタッフも皆、惜しみなく手を叩いていたのである。
パットは、用は済んだとばかりに、スタスタと元の席に座り、またパドマに文字の指導を始めた。
「キレイな曲だったね」
とパドマが言うと、パットは目を見開いた後、頬を赤く染めた。照れていた。
そんな顔をするなんて! パドマは射殺された気分になった。こうなってしまえば、パドマもパットの顔が好きだと言うのは、認めざるを得なかった。ヴァーノンとお揃いである。だから、仕方がない。性格に難があるのは知っている。惚れたのではない。好きなのは、顔だけだ。そうパドマは自分に言い聞かせて、動揺を沈めようと躍起になった。
パドマが書き物をしていた石板に『一番の特技だから』とパットは文字を書いた。どうやらキラキラ少年は、本当に調べてからケンカを売った方が良かったようだ。剣術よりも料理よりも裁縫よりも得意だとしたら、そうそう勝てる人はいないだろう。
師匠さんが弾いているのは、パガニーニ 24の奇想曲を想定しています。素人だと思っていた人が、いきなりこの曲を弾き出したら、超びびる。あと、普通のバイオリンは4弦です。
次回、師匠の天狗っ鼻が折れる。