159.妻になる
大変なことになった。パドマは、グラントの1日奥様になってしまった。断りたかったのに、怖くて断れなかったのだ。ルイにハメられた。ルイは、どうやってか、この企画をヴァーノン公認にしたのだ。兄に嫁に行けと言われたら、どこへでも嫁に行くと約束したのだ。1日限定の結婚くらい引き受けねばならない。
とはいえ、本当に嫁に行くのとは違う。ただのままごとだ。世間体もあるので、つきっきりで兄は一緒にいるし、恋人の真似事もしない約束だ。だが、最恐グラントの妻だなんて、なんていうことになってしまったのか。
カーティスに用意された紅蓮華のファミリー向け賃貸物件を会場にして、ままごとをすることになった。パドマは、冷や汗が止まらないのだが、勇気を振り絞って、玄関ドアを開けた。
とんでもない緊張感があったのだが、そこには何もなかった。ただ、奥に廊下が繋がるのみだ。なぁんだと思って、パドマはズカズカ前に進んだ。すると、正面のドアが開いた。
「ようこそいらっしゃいました。我が最愛の人」
急に、巨漢のグラントが出てきたのもびっくりしたが、口から出てきた言葉にも驚いて、パドマの動きは止まった。真後ろにヴァーノンも立っているのだが、とてもいたたまれないような困った顔をしている。
「何を言ってるの?」
「最愛の細君を、我が家に招く喜びに浸っております」
「グラントさんは、そういう趣味だったの?」
パドマは静かに移動して、ヴァーノンの後ろに隠れた。完全には隠れず、顔を出してグラントを見ているのは、誠意の現れである。
「、、、大変申し訳御座いません。ルイから、本日のメニューの説明があったものと思い、勝手に始めましたが、何も聞かずにいらしたのでしょうか」
グラントは、困った顔をしていた。先走りすぎたと、反省しているようだ。
「いや、聞いたよ。1日奥様になってこいって。1日奥様も務まらないのに、一生奥様なんて片腹痛いって、言われたの。初級、中級、上級全制覇してみせろって。でも、よく考えたらおかしいよね。ルイの許可なんて必要ないよ」
「パドマが、ちゃんとできるってところをこの目で見て、俺が安心して送り出す気持ちになるために用意された必要な企画だ。これが無理なら、俺も無理だ。忖度してくれる相手で、受け入れられないんだろう?」
ヴァーノンが、ため息を吐いた。パドマが見上げると、思った通り土壇場で逃げるんだな、という顔をした兄がいた。
「いや、受け入れられるよ。お兄ちゃんの指名した相手なら、グラントさんでも、グランドさんでも、クラントさんでも。ええと、愛しのグラントさん、とりあえず部屋に入ろう!」
「かしこまりました。わたしのことは、ダーリンとお呼びください」
「だー? え? グラントさんは、そういう趣味なの?」
「はい。生涯結婚をする予定は御座いませんが、万一そんな日がきましたら、そのように暮らしたいと思います。ふれあいはNGなのですから、そのくらいはしないと、何が夫婦やらわかりませんよね。ハニー?」
言っていることは超くだらないのに、顔は真面目だ。職務に忠実なだけで、本意ではないということをアピールしている。
「くぅっ。遊ばれてる気しかしないよ、だーだーだー、無理だ!」
「その程度もできないくせに、わたしの妻になりたいだなどと言ったのですか? とんだ根性なしですね。申し訳御座いませんが、もうご実家に突き返しても、よろしいでしょうか。こんな妻は、我慢がなりません」
グラントは、にっこりと笑った。パドマは顔を真っ赤にして、ぷるぷると震えた。
「だ、だーりん、今日の夕飯は何を食べたい? この家、食材は何かあるのかな」
「はい。わたしは詳しくないので、足りるかどうかはわかりかねますが、食糧庫には何かあるようでした。ポリッジ、グレービー、ポタージュくらいでしたら、作れますか?」
家事全般できる! と自信を持って語っていたパドマの挙動が止まった。妻業務その1夕飯作りで、既につまづきそうな予感に、背中に汗が伝った。
「ごめん。ポリッジって何?」
ここにきて、初めて自分は料理名にうといかもしれない疑惑が、パドマの中を駆け巡った。小さい頃に食べていた物は、大体何かの丸焼きだった。最近、よく食べている師匠料理は、本人がしゃべらないから料理名が謎の物が多い。イレがいれば判明することもあるが、そんなに真面目に聞いていない。ちゃんとわかるのは、唄う黄熊亭の料理だけだった。一般家庭の料理というか、酒の肴だ。
「、、、一般市民の主食だと思っておりましたが、ハニーは、日頃、どのようなものをお召し上がりになられているのでしょう」
「お兄ちゃんのお弁当と、ダンジョン焼肉と、唄う黄熊亭の酒の肴と、師匠さん料理と、その他外食」
「ヴァーノンさん。お相手は、富裕層に限って下さい」
楽し気にパドマをいたぶって遊んでいたグラントが、急に真顔になった。ヴァーノンも、仕事モードで返答した。
「もとよりそのつもりです。いらない苦労をするくらいなら、家にずっといればいい」
グラントとヴァーノンの間で、細かい規定を決められた。紅蓮華であれば、支店長以上、探索者であれば、40階層以上というような収入の最低ラインの線引きだ。支店長クラス以上で独身となると、結局、イギー一族しかいないな、などという不穏な情報が交わされ、パドマは不安をかき立てられた。
「え? そんな人は、釣り合わないよ。ウチは、親なしの家なしだよ?」
パドマは、まったく話についていけないので、とりあえず否定した。
「本来の身分的には、何の保証もない親なしの家なしだ。だが、もう兄は唄う黄熊亭の後釜に内定しているから、お前も家なしでも親なしでもない。
ついでに言えば、問題は師匠さんだ。なんで俺があの人にあんなことを頼む気になったか、わからないか? あの人は、贅沢な生活をしている。イギーよりも生活費をかけているし、ひょっとすると食費だけなら王侯貴族以上だ。こないだ行った王子の家の客を持て成す料理と質を比べたら、わかるだろう。お前は、毎日毎食それ以上の物を食べているんだ。しかも、食事より高価な菓子を毎日食いたいとか、並の男には、とても養えない。お前が自力で菓子を買って来てくれるからこそ、今の生活が成り立っているんだ」
「え? お菓子って、そんなに高いの? 街を歩いてると、そこら中でホイホイくれる人がいるんだけど。うっかりしてると、持ちきれないようなことになるんだよ? あれ、高価なの?」
師匠談では、誰でもパドマのことを褒めるとヴァーノンは嫁に出そうとするという話だったが、兄談では違ったようだ。食生活が師匠色に染め上げられてしまったため、師匠くらいしか引き取り手がいなくなってしまったと思ったのだろう。そこで、師匠が心ないままにパドマをベタ褒めなんてしたから、ならば是非! となったのかもしれない。以前、魔がさしたと言っていた。食費の心配をしていたのだろうか。
「食事の時間が遅くなってしまいます。申し訳御座いませんが、こちらにある食材で作れそうなものを作ってみてください。その間に、話を詰めましょう。料理中に眠るのは、大変危険です」
「うん、わかった。とりあえず作れそうか、見てみる」
パドマは、食料庫の扉を開けた。
パドマは、目についた食材をごっそり抱えて、釜戸に行った。何を作るか考える間に、火を点ける。種火が点いたくらいで放ったらかしにして、水を入れた鍋を置いた。
火加減を見つつ、粉を練って練って練って寝かせた。
続いて、芋の皮をむき、むきおわったら鍋に入れて、野菜をとにかく切っていく。師匠に比べたら、なんでも不格好になってしまうので、もう大体をみじん切りにしてしまう。野菜が終わったら、肉も叩いて叩きまくって、野菜を混ぜて、型に入れた。
芋の鍋をどけ、別の鍋を置いて、にんじんと玉ねぎを入れて炒める。隣では、ニンニクを炒めた。そして、下には肉の型を仕込む。芋を潰して、肉を焼き、粉を振った魚を焼き、貝を焼き、りんごを焼き、炒めたにんじんをつぶして、アーモンドミルクを投入した。煮る間に、ねかしていた生地を伸ばしてお楽しみを仕込んで、大体完成だ。皿を探して、できたものから盛り付けて、食卓に並べた。食料庫にあったパンといっしょに並べたら、完成だ。作っているところから観察されていたので、呼ばずとも一緒に食べる人もそこにいる。
「ふふふ。どう? ウチだって、やる気を出せば、1人でできるんだから」
結婚に向かないなどという失礼な話を払拭すべく、胸を張って自己主張をしたのだが、グラントは困った顔をしているし、ヴァーノンは目が死んでいる。
「お前は、何品作った?」
ヴァーノンの問いかけに、パドマは慌てて皿の数を数えた。
「えーっと、パンはあったヤツだから、7品? まだできてないけど、実はお楽しみがもう1皿ある」
「グラントさんは、さっき何を作れと言ったか覚えているか? ポリッジとグレービーとポタージュだ。3品だ。多分、それでも夜なら多めだ。なのに、お前ときたら」
「でもでも、唄う黄熊亭なら、みんなに分けてもらって、もっといろいろ食べてるし、それに、ほらポタージュは何だかわかったから、作ったし!」
「折角のご馳走です。冷める前に頂きましょう」
グラントの言葉で、兄妹の小競り合いは一時休止になり、イスに座った。
パドマが作ったのは、里芋のポテトサラダと牡蠣のソテー、鶏のパテ、にんじんのポタージュ、カドのポワレ、アルマジロのチョップステーキだ。あと一品まだ釜戸に隠されている。
「いただーきまーす」
味見はしているので、味には問題はないことは確認済みだ。パドマは、何の心配もなく、食べた。
「どう? どう? いい奥様になれそうじゃない?」
「そうですね。奥様を突き抜けて、料理人ではないかと思われますが、これが妻の手料理なら、驚きますね」
「美味いが、家計が破綻する。また胡椒を使ったな?」
「バレた! でもでも、野菜は全部まとめて炒めた使い回しだから薪代の節約になってるし、肉と貝と魚はダンジョンで拾ってきたら無料だし、それ以外は、たいしてお金はかからないよ」
「なるほど、探索者かつ70階層以上が最低条件ですね。金額云々の前に、食料確保を前提として」
「ああ、もう師匠さん限定にした方が早い。あの人は、多分、貴族に準ずるようないいところの出だ。急に貴族のフリをしろと言われて、本物の貴族にバレずになりきれるのがおかしい。師匠さんの妻か、きのこの神か、その2択でいいんじゃないか?」
「どっちも、い、や、だ!」
「何でだ。決定権は俺にある。師匠さんは、性格以外に不満はないんだろう? きのこも、修正案があるらしいし、あれが一番現実的だ。それ以外の選択肢はいっぱいあるが、結局全部条件が合わない。美味い飯を食って嫌な思いを我慢するのと、美味い飯を食えずに嫌な思いを我慢するなら、どちらがいい? そう思えば、師匠さんが最適だ。どうせ気に入る男なんてこの世にいないんだ。無理なら無理でいい。きのこの神になればいい」
「きぃー!」
パドマは、釜戸に逃げて行った。
「やったー。タルトタタンが、きれいに焼けたよー」
パドマは、話題を変えるべく、釜戸で焼いていたデザートを持ってきた。
「胡椒だけでなく、砂糖まで使うか」
「買ってくるより、作った方が安いんだよ!」
「胡椒が出てきた時点で、今更ですよ。胡椒を買えたら、砂糖も買えます」
「買いたくない」
ヴァーノンは、泣きそうな顔になっていた。もしかしたら、パドマがこのまま唄う黄熊亭に残った場合、胡椒と砂糖の購入を検討しているのかもしれない。
スタートが遅かったため、食後、すぐに寝た。パドマは、ヴァーノンと主寝室で寝て、グラントはその隣の部屋で寝た。
カーティスは、何を考えたのだろうか。主寝室は、やたらとラブリーな部屋に設えられていたので、ヴァーノンは落ち着かなかった。
パドマは、昨日の挽回をすべく、みんなより先に起きて、朝食作りをした。
朝食なら任せて欲しい。パドマは、師匠の朝ごはんが大好きだが、ヴァーノンが食べている朝ごはんも覚えている。似たようなものを作れば、絶賛されるに違いない。
ゆで卵にベイクドビーンズ、鹿肉ソーセージとパリパリベーコン、焼き蓮根と焼きウスヒラタケに焼き鮭、そこまでできたらみんなが起きてくるのを待つ。パンを焼いて、桃ジャムを塗ったら、完成である。
絶対に、今度こそ褒められる。普段、グラントは何を食べてるのか知らない。謎のポリッジじゃなきゃ食べないなどと言われたら、お手上げである。だが、ヴァーノンは絶対に褒めてくれる。絶対だ。パドマはそう思っていたのに、2人とも、部屋を出てくるなり、困った顔をした。不思議だった。
「パドマ、普通は、朝ごはんは食べないんだ」
ヴァーノンは、衝撃的なことを言った。
「食べない?」
「ああ、普通は、昼が正餐で、夜が軽くつまむ程度で終わる。師匠さんは、3食しっかり食べていたな。で、俺は仕事に出ると、夕食まで帰らないから、昼の代わりに朝食べている。朝食べなきゃ、お前も食いっぱぐれるだろう?」
「ウチなんか、ひどいと1日5食くらい食べてる日もあるのに? 2食しか食べないの? あれ? 白蓮華は3食食べてる上に、おかずの品数も多いよ?」
「あそこは、パドマさんと師匠さん仕様の常識で回していますよね。託児施設で、貴族並の食事が提供されているとは、誰も思いもしないでしょう。だから、白蓮華のバーベキューは人気があるのですが、ご存知なかったのですね」
「知らなかったよ!」
「だから、師匠さんに責任を取ってもらえと言っている」
「いいもん。1人で3人前食べるから」
パドマは、すっかりむくれて、パンを焼き始めた。
「食べないとは言ってない。俺の分のパンも焼け」
「わたしの分も、お願い致します」
朝ごはん後、食器を洗って片付けたら、グラントに呼ばれた。
「ハニー、隣に座って頂けますか?」
「は?」
グラントは、ソファに座って、自分の横の座面をペシペシと叩いていた。ヴァーノンは、対面のソファに座っていた。どちらかといえば、パドマはそちらに座りたい。
「念のために断っておきますが、これはわたしの趣味ではありません。今日中にやるミッションをいくつか頼まれておりまして、ヴァーノンさんの許可も得ております。勿論、強制するつもりは御座いません。やらないのであれば、早めに断ることをオススメ致します。その折には、わたしは、『そんなこともできないくせに、結婚するとかイキってたのか』と嘲笑うことになっておりますが、決して本意ではないことも、先にお伝えしておきます」
「夫婦になるのなら、横に並んで座るくらい、するだろう?」
ヴァーノンは、グラントの味方だった。冷ややかな目で、パドマを見ている。状況的にそうなのはわかるが、無条件で味方をしてもらえないのが悔しかった。
「ぐぬう」
パドマは、グラントに近寄りたくないのだが、横に座るくらい旦那ならそりゃああるだろうな、とも納得した。嫁いだ先の家が狭かったりしたら、常々そばにいるだろう。パドマとヴァーノンの部屋には、余計なスペースはほぼない。あんな感じの部屋に夫と2人で過ごすと考えたら、どうだろうか。なんだったら、ベッドは1つしかなくて、一緒に寝るぞと言われるかもしれない。
「無理! むりむりむりむり!」
パドマは、もう音をあげた。
「え? は、早くないですか? もう降参ですか? この後、寄りかかっていただいたり、膝枕したり、腕立て伏せをしたり、風呂に入ったり、いろんなプランがあったのですが」
「風呂? 何考えてんの、お兄ちゃん!」
「お前に服を脱げとは言わない。男の背中を洗わせるだけだ。やましいことなど何もない。むしろ皆が嫌がって逃げたのに、引き受けてくれたことに感謝しているくらいだ。グラントさん、制裁の言葉をお願いします」
「その程度のことができずに、しゃしゃってやがったのか。結婚をナメてんじゃねーよ!!」
グラントは、冷えた目でパドマを見下していた。
「!? さっき言ってたのと、なんか違う!」
パドマは、誰かと結婚する未来を諦めた。相手が師匠しかいないと言われた時点で、その気は完全に失せていたのだが、他の人でも無理なんだな、と心から納得したのだ。だが、こんな企画を考えやがったルイには、モヤモヤしたものを持ち続けている。きっちり落とし前をつけなくてはならない。
次回は、ダンジョン。