112.チーズの怨み再
イレは、夜半に目を覚ました。下階で物音がしたので、起きてしまったのだ。物取りに侵入されたか、また師匠がイタズラを画策しているのか。どちらだったとしても、呑気に寝ていない方がいい。物取りに少々何かを持って行かれても困りはしないが、物取りは部屋を荒らすので片付けが面倒だし、師匠は、何をするかわかったものではない。イレは、静かに起きて、家鳴りがしないように気をつけながら、気配を殺して下階に向かった。
ダイニングの扉の隙間から、暗い明かりが漏れていた。侵入者は、気配を消していない。何が目的でそこにいるかは知らないが、女のすすり泣きが聞こえる。イレは、恐ろしいほどに女との縁はない。生まれてから何年経ったか明確に覚えていないが、フラれた回数は星の数でも、女を泣かせる立場になったことがない。リアルな女でも縁がないが、幽霊を含めても心当たりがない。自分ではなく、家に取り憑いた霊だろうか。そんなことを思いつつ、扉の隙間から中を伺うと、見覚えのある女の子の姿があった。
イレは気配を消すのをやめ、ダイニングのイスに座って、テーブルに突っ伏して泣いている少女に声を掛けた。
「こんな時間に、一人暮らしの男の家に遊びに来ちゃダメだよ」
パドマは、むくりと顔を上げると、だくだくと涙がこぼれ落ちた。
「チーズがないの。まだひとくちも食べてなかったんだよ。なのに、どこを探しても、出てこないの。いっぱいあったのに。頑張って作ったのに」
パドマは、昼間寝過ぎて夜起きて、ふとチーズのことを思い出し、イレの家目掛けて走って来たのだ。だが、作ったチーズが見つけられなかった。時間が大分経っている。誰かが片付けてくれたのかもと、食糧庫を中心にあちこち探してみたのだが、欠片も見つけられなかった。チーズ作りに使った鍋や皿は、元通りに洗って片付けられているのは見つけた。夢の中の出来事だったのかと思うくらい、何も見つけられなかった。
「あー、あれは、パドマ宛だったんだ」
昨日、テーブルに師匠の手跡だと思われる「ごめんね」と書かれた蝋板とともに、一口分のチーズが置かれていた。何を謝られているのかわからなかったが、謝られる心当たりが数えられないくらいにあるイレは、はいはいと思って、それを食べた。お詫びの品だと思ったからだ。食べたら、許しを与えることになると思ったからだ。何を今更と思っていたが、よく考えたら師匠がイレに謝罪することなど考えられない。
「またイレさんが食べたの?」
イレは、またと言われる意味がわからなかったが、パドマの視線が怖かったので、大急ぎで否定した。
「いや、師匠だよ。知らずに『ごめんね』って書かれた蝋板を片付けちゃった罪はあるけど。一口だけ食べちゃったけど。、、、ごめんっ。ごめんなさいっ」
パドマの瞳に怖気付いて言い訳してみたが、やっぱり怖くて、イレは完全降伏した。昔から、女には勝てない。師匠をひと指で殺せそうな実力者の姉に、物心がつく前からイジメられていたイレは、怒った女は、超どころでは済まされないほど大の苦手だった。だから、小さいパドマでも怖い。むしろ小さいからこそ、当時の姉を彷彿とさせる。
「やっぱり食べたんじゃんー!」
またパドマは、伏して泣き出した。
イレは、なんとか機嫌を直してもらおうと、朝になったらチーズを買いに行こうだの、チーズの材料を買ってこようだのと言ってみたが、ことごとく失敗して、怒られるだけだった。ヤギの乳はヤギの子のための乳で、パドマのための物じゃない。金の力で奪おうなんて、最低だ。だから、ヤギにもフラれるんだ、と説教までされて、イレもKOされた。
一晩泣いて、目を腫らし、目を開けられなくなったパドマは、目を出さない青の覆面帽子をかぶった。そのまま外に出て、街を歩く。朝食も、帽子を取らずに、帽子の隙間に差し入れたサンドイッチを、もそもそと無言で食べるだけだった。進化したパドマは、どこでも目がいらないらしい、とイレは震える思いだった。
パドマは、この街で1、2を争うほどの有名人である。顔が見えずとも、服装から、パドマだと認識できる。だから、街ですれ違う人に次々と挨拶をされたりするのだが、パドマはいつものように返答しながら歩いていく。声をかけられずとも、人がくれば顔はそちらをむいて、軽く礼をすることもあった。人によって挨拶の種類を分けていた。声を聞かずとも、その相手が誰なのかわかっているような様子だった。進む道も、ダンジョンのように整ってはいない。くねくねと曲がる道も、道にはみ出た植栽も、急に飛び出してきて抱きついてくる子どもも、見えているかのように、いつも通りにあしらって、ダンジョンセンター前についてしまった。
パドマは、そのままダンジョンに入場した。そして、走り出す。敵が現れればすり抜け、人に話しかけられれば無視して、ずんずん進んで行った。いざとなれば、敵を倒すなり盾代わりになろうとイレはついて行ったし、他にも同様のことを考えたのだろう男もついてきたが、その助けを一切借りずにパドマは、48階層にやってきた。
48階層には、ハンミョウとツチハンミョウがいる。
黒や灰色の地味な虫が多いが、中には、金属光沢を持つ美しいものも混ざっていた。赤青緑に光る警戒色を持つナミハンミョウは毒を持たないが、頭が赤いマメハンミョウは、ハネカクシと同様に体液に触れることはできない。切らずとも外に分泌されているところは、ヤドクガエルに近いかもしれない。中でも1番危険なのは、オオエンマハンミョウである。見た目は、ちょっとアゴの小さめなクワガタのような、どこにでもいそうな虫だった。だが、虫であるにも関わらず、好戦的を通り越す凶暴さで、自分と比べられないほど大きな相手でも、気にせず食らいついてきて倒してしまう。バッタほどではないものの、長い足を持ち、素早く動くこともできる。
いろんなタイプの虫が混在しているのだから、見もしないで戦うのは、おすすめできない。ここまでの動きを見ていたら、パドマならいけるかなとか、護衛もいるみたいだから、なんとかなるのかな、と思うと、イレには判断ができなかった。今日は、師匠がいないので、自分がなんとかしないといけないと思っているのに、どうしたらいいか、わからなかった。パドマに一晩怒られて、パドマを止める勇気が出ないのだが、オオエンマハンミョウ以外のハンミョウも肉食で、顔のサイズから比較すると、かなり立派なアゴを持ち、戦うのは危険が伴う。ダンジョンの虫は大きい。小さい物は、猫くらいの大きさだが、大きい物は、パドマとどちらが大きいか、いい勝負だと思う。パドマの細腕1本どころか、胴すらボロボロに食いちぎりそうに見える。止めたいが、怖い。女の子だからなどと言ったら、めちゃくちゃ怒られるのは、言わずともわかっている。
イレが躊躇していたから、パドマは男から分けられた水を一口あおると、そのまま階段を降りて行った。初見の相手を一目も見ていないのに、気にしないらしい。
「パドマ、やっぱり危ないよ。行くなら、せめて覆面を取りなさい!」
イレは、パドマを止める覚悟を決めて、前に踏み出そうとしたら、ナイフが飛んできた。ナイフには気付かなかったが、何か悪い予感がして、横に飛んだから避けられた。避けたから、階段に転がったナイフから、ナイフが飛んできたのだと理解した。いつものパドマの赤いナイフではなかった。糸は付いていないし、どこにでもありそうな、なんてことのない安物のナイフだった。パドマを止めると護衛からも邪魔が入るのかと思ったが、イレに顔を向けているのは、パドマだけだった。
パドマは、覆面をしていて目が見えないのだから、イレを見ることはできない。ハンミョウと戦闘中だから、イレを見る理由もない。なのに、今まさにハンミョウを斬り捨てているパドマは、イレを見ている気がしてならなかった。怖い。
あらかた部屋を一掃すると、パドマは撤収命令を出して、階段に戻ってきた。部屋には、オオエンマハンミョウが残っている。師匠特製の剣でも刃が通らなかったからだ。
「ルイ。あれ、普段はどうしてる?」
「基本は無視して通過しますが、ギデオンの得物は戦鎚ですので、叩き潰せばなんとか。済みません。次回は持参します」
「いらない。倒してもらうんじゃなくて、自力で殺りたいんだ。戦鎚を扱う筋力を付けるのは、容易じゃないな」
重さを理由に槍も扱えないパドマが、自在に戦鎚を振り回すことはできない。斧で薪を割ることはできるが、斧で戦うことはできないのだ。振り回したら、重さにつられて振り回されて、振り切ったら何があっても止められないからだ。百歩譲って味方がいないなら、扱いきれなくなった時点で手を離してしまう選択もなきにしもあらずだが、一振り目と振りかぶったところですっぽ抜けるような武器では、使い物にならない。
「走って、ちょっとスッキリしたし、今日のところはこの辺で勘弁してやるか。50階近く階段上るだけで嫌んなっちゃうよね。帰ろ。
そうだ。地上に戻ったらデートだから。イレさんは、今日はウチに付き合って帰ること」
イレは言われるまでもなく、師匠がいないのだから、ダンジョンを出るまではついて行こうと思っていた。護衛がいるならいらないかなぁ、とチラリと思わないでもないが、ペンギンの子たちは、人間的に信頼していい子たちなのかが、イレにはわからなかったので、ついて行くのが無難だろうと思っていた。が、パドマは、デートと発言した。
「デート?! 生まれて初めて誘われた! あれ? デートと見せかけて、怖いお兄さんがうじゃうじゃ出てくるヤツじゃないよね?」
うじゃうじゃ出てくる方は体験済みで、これから出てこなくても既にうじゃうじゃいる男に睨まれていることに気付いた。多分、袋叩きにされても返り討ちにできるが、心はズタボロになること請け合いだ。欲しければいくらでもお金をあげるのに、わざわざ襲うほど恨まれることをした記憶がない。
「ちょっとお礼参りに付き合って欲しいだけ。ウチのお兄ちゃんは、2人しかいないし、怖くないよ。超優しいし、めちゃくちゃかっこいいよね」
なんとも言えない返答をして、パドマは上階に足を向けた。
パドマは、歩き疲れる度に狩りをして、護衛の背中に獲物を乗せて運ばせながら、ダンジョンセンターに帰還した。
ああ、疲れたー、と言いながら剣を振り回すパドマは意味がわからないのだが、パドマを背負って帰るのは最終手段を除いてできないのだから、イレは見守るしかできなかった。
ダンジョンを出たパドマが向かった先は、チーズ屋だった。店頭にハードタイプのホールチーズが装飾品のように、これでもかというほど棚に並べられている。客の注文に合わせて、切り売りしてくれるお店だ。
「英雄様、いらっしゃいませ。ようこそおいでくださいました。さあ、どうぞ、こちらへ」
英雄様は、偉大だった。本人は、覆面をしたままでまったく顔が見えないし、後ろには子どもが泣くような面構えの男が並んでいる。どうしたって強盗のようにしか見えないのに、歓迎されていた。お使いやボランティアで街のあちこちに発生している間に、街民も強面たちに慣れてしまったのだ。
「ごめん。今日は注文だけしに来たの。お店にある全種類のチーズが欲しい。唄う黄熊亭と、白蓮華とヒゲおじさんちに届けて欲しい。後ろに突っ立ってる暇人を使っていいから。あ、支払いは、全部、ヒゲおじさん持ちで」
「おじさんって呼ばない約束したよね」
数年ぶりにパドマにヒゲおじさんと呼ばれたが、イレは、8歳の子に呼ばれる以上のダメージを受けた。
「ヒゲおじさんとした約束で、一番大切な約束は何?」
「約束? うちに泊まるなら、お兄ちゃんを連れてくること?」
「お兄ちゃんを幸せにするために、誠心誠意努力する、だ。この鳥頭!」
「誠心誠意? なんで? パドマ兄は嫁にしないよ?」
「ヒゲおじさんなんかに、お兄ちゃんを取られてたまるか」
「え? そんな言われ方されると、嫁にした方がいい気がしてきちゃうかも。あれ? パドマ兄って、どんなだったっけ? いや、これっぽっちも嫁っぽくはないよね。危ないあぶない。騙されるところだった」
漫才のような会話が繰り広げられるのを、店員も部下も静かに見守っていた。英雄様は、まだ子どもだからいいとして、このヒゲまみれのおっさんは、何を言ってるんだろうな、と。
「申し訳ありません、英雄様。ご注文は大変有り難いのですが、当店で扱う商品は、100種を超えます。フレッシュタイプのものもありますので、消費にも保管にも困りませんか? よろしければ、少量ずつ分納したいと思いますが、如何でしょうか」
「そっか、ウチは構わないけど、みんなには迷惑がかかるかもしれないね。教えてくれて、ありがとう。じゃあ、それでお願いするね。お金は、先にどどーんっと払わせるから」
「あ、お財布の出番だね。100種類かける3軒で、300個のチーズ? え? チーズって、1個いくら? って言うか、お兄さん、チーズなんて食べないけど。2軒で良くない?」
「大事なお約束その2、ヒゲおじさんは、自宅に置いてあるチーズは、食べてはいけない」
「え? 自分ちなのに?」
「娘のチーズを食べたら、お父さんは追放刑になるんだよ」
「そうなんだ。知らなかった。いくらかわからないけど、これで足りる? 今、持ち合わせが、これしかないんだけど」
イレは、おずおずと、大金貨を1枚カウンターに置いた。
「!!!!!」
イレの行動に、一堂、驚愕して凍りついた。大金貨など、一等地の売買にしか使い道のないと思われる普段見る機会のない幻の通貨である。イギーの実家にならゴロゴロ転がっているかもしれないが、誰もこんな冴えないおっさんが持っているとは思わない、そんな都市伝説級のお宝である。
「え? ごめんね。足りなかったね。追加は、明日でいいかな?」
「大変申し訳ありません。お釣りがご用意できませんので、細かいお金での精算をお願いしてもよろしいでしょうか。あの、できたら大銀貨以下でお願いいたします」
「え? 大銀貨? 大銀貨は持ってないな。小金貨じゃダメ?」
やたらとお金を持っていることを知っていたパドマも驚いたが、よく考えたら金銀と等価の胡椒を湯水のように使っても、何も思わない男だった。大金貨を無駄遣いできる資金力を持っていても、不思議ではなかったのかもしれない。後ろに立っている男たちの目の色が変わった気がするのが心配なのだが、唄う黄熊亭で飲む日は、早めに店から帰した方がいいだろうか。
ひとまず手付けに、中銀貨を3枚払って、パドマは、セル・シュール・シェールとラクレットをもらって、帰ることにした。パドマは、ホールチーズなど買ったことがない。幸せだった。
パドマは覆面中なので、表情が伺えない。足取りがふわふわとして、浮かれているような気がして、心配になったルイが、パドマに問いかけた。
「次は、どちらに行かれますか?」
「ん? イレさんち!」
護衛全員が、総毛だった。ボスをデートで男の家に行かせてはならない。
「折角のチーズです。ヴァーノンさんと召し上がられてはいかがでしょうか」
「お兄ちゃんに見つかると嫌な顔をされるから、わざわざイレさんちに届けてもらうんだよ。こっそり1人で食べるんだー」
ふふふー、とパドマはすっかり浮かれている。恐らくボスは、チーズのことしか頭にないのだろうが、下心もなく大金貨を支払う男はいない。
「白蓮華で食べましょう。必要な食材は、全て紅蓮華持ちで買えます。お嬢様が喜ばれますよ」
お嬢様とは、小さい方のパドマだ。実妹なのだが、妹とは公表しないことに決めた。そっくりの子を見つけたから、パドマが妹のように可愛がっている設定だ。パドマちゃんと呼ぶ人間もいるが、遠慮して呼びにくい者は、お嬢様等々と呼んでいる。テッドは、実際はよくわからないが弟扱いで、営業戦略企画部長と呼ばれている。
「そっか。そうだね。別に、これは年一チーズじゃないもんね。じゃがいもを蒸して、みんなで食べようか。そういう訳だから、イレさん、バイバイ。支払いよろしくねー」
「ああ、うん」
特に下心を持たない男は、ダンジョンに戻って行った。大銀貨って、何をしたら手に入れられるんだっけ? と考えながら。
パドマが、突拍子もなくデートをすると発言して以来、こんなヒゲ男を認めてたまるかと、取り巻きは全員ささくれだっていたのだが、パドマの言葉に少し落ち着きを取り戻した。
「イレさんってね、激モテないの。デートってね、人に何か奢ってあげることだと思い込んでるの。散財させられて、デートしたぞ! って喜んでるの。可哀想だから、そっとしておいてあげようね。真実を教えたら、師匠さんに怒られる気がするの」
と、白蓮華に向かう途中で、パドマが内緒だよ、と教えてくれたのだ。
次回、夜の街に消えていった師匠が戻ってきます。また家出しそうだけど。