107.ゴミムシ
髪色が半分黒茶に戻った頃、パドマは、46階層手前の階段までやってきた。おっちゃんたちに存在を聞いて以来、まったく会いたい気持ちになれなかった敵がいるので、ずっと先延ばしにしていたのだが、ストレス発散で走り回っている間に、うっかりたどり着いてしまったのである。
体長は、パドマの足の長さ程度、頭部胸部は黄色に黒紋、上翅は黒地に黄色の外縁と1対の紋を持つ甲虫が、そこにいる。時折り、黄褐色の物も混ざっているが、それほど多くはない。
名をミイデラゴミムシという。異名は、屁っぴり虫だ。ゴミの上に放屁である。最悪な名前を付けやがって、可哀想だろ! と、パドマは思ったものだが、ゴミより臭い屁をする虫だ、と虫を愛するおっちゃんに言われれば、そうなんだ、としか言えなかった。一頃は、カメムシの臭さに閉口していたが、ゴミムシは、そんなのは問題にならないくらいに臭いらしい。そんな物には、一生会えなくて良かった。
だが、臭いだけなら、笑い話である。臭いがうつれば、唄う黄熊亭の給仕の手伝いは休まなければならないだろうが、それ以外の問題は、ちょっと生きてて悲しい気持ちになる程度だ。しかし、ミイデラゴミムシの放屁は、臭いだけではなく熱い。沸騰した湯とどちらが熱いかわからないくらいに熱い。ダンジョン外の指の先くらいの大きさの虫ならまだしも、ダンジョン内の大きな個体にやられれば、火傷は免れない。熱さの火傷+化学火傷だ。失明するのも簡単だ。それから逃れられても、浴びれば肌が茶色く変色するらしい。ダンジョンにばかりこもっていて、陽射しを浴びることの少ないパドマは、肌が白い。たちどころに皆に見つかって、ハネカクシにやられた時のように、並んで説教待ちを始めるおっちゃんたちの姿が、目に浮かぶようである。
大きいだけで面倒なのに、ガスの噴射方向は自由自在で、何十回も連続発射可能と言われては、避ける自信はまったくなかった。
そして、これを相手にした場合、師匠は何があっても助けてはくれない気しかしない。絶対にパドマの代わりに臭くなったり、パドマと共に臭くなったりはしてくれないだろう。
パドマは、一旦、上階に戻って、蜘蛛の頭を持ってきた。そして、それを1番近くの虫にぶつけてみた。この作業も慣れたもので、部屋の半分より手前にいてくれさえすれば、大体1回で当てられるようになった。だから、一撃で放屁を見ることができた。
プッ!! という爆発音と共に、虫のおしりから白い煙が噴射された。遠くから放ったにも関わらず、噴射は正確にパドマの方向を向いていたし、パドマがいない方向へも多少は広がっていた。ゴミムシは、完全に煙に覆われている。接近戦では、死角がなさそうだ。
階段上では何ごともなかったのだが、少し部屋に踏み入れた途端、悪臭が鼻につき、パドマはその臭いへの驚きだけで後ろに転び、階段に戻ってくることができた。なんだか知らないが、涙が止まらない。とんだ爆弾を投げられたものだ。
師匠を見上げ、
「臭いよ」
と言うと、師匠は震え始めた。
師匠の決断は、早かった。パドマの身体を抱きかかえると、入り口目掛けて走り出した。落ちたら、ケガをするようなスピードで走られると、パドマも迂闊に反撃できない。何もできないままにイレの家に連れ去られ、師匠は、庭にパドマを落とすと、1枚服を脱がせ、更に自分も服を脱ぎ、火を点けた。更に、パドマを小脇に抱えると、服を着たまま湯船に放り込み、その上で、井戸から汲み上げた水を入れられた。井戸の水は冷たい。風呂に入るのは構わないが、沸かしてからにして欲しいし、できたら服を脱いでから入りたい。だから、風呂場から出ないなりに湯船から出て待とうとしたら、師匠に捕まって、何度でも湯船に頭から入れられるので、パドマが折れて、師匠の気が済むようにさせた。腰に剣が付いたままなのだが、諦めて湯船に入っていた。
パドマは、湯船に浸かって震えていたのだが、しばらくすると温かくなってきたので、満足する温度になったところで頭を洗って、着替えをした。
身支度を終えて師匠を探したら、師匠は、穴を掘って、先程燃やしていた服を埋めているところだった。きっと燃えなかったのだろう。見るだけでわかる。師匠は、イライラしていた。パドマの着替えから、耐火性能が削られるかもしれない。
パドマは、先程までしていたベルトから、剣や短剣を外して、タオルの上に並べ始めた。鞘を抜いて、目釘を抜いて、柄を取ってと分解して並べていると、着替えた師匠が近付いてきた。どう考えてもおかしいくらい近付いてきたので、恐怖を感じて、
「ずぶ濡れになった。手伝って」
と短剣の切先を突きつけたら、師匠は、座って懐中から薄い紙を取り出し、パドマの武器のメンテナンスを始めた。
その隙に、パドマは、唄う黄熊亭に帰った。
パドマは、兄の帰りを待ち侘びて、ぼんやりベッドに転がっていたら、とうとうその瞬間を見てしまった。パドマのダンジョン登録証のポイント数が、どんどん上がっていっていたのだ。パドマは、今、ダンジョンにもいない上、ただ寝転がっているだけなのに、すごいスピードで数値が変わっていく。あまりに速すぎて、何ポイントずつ加算されているのか、わからないくらいだ。トリバガやサシバや大量発生していた頃のアシナシイモリやガラパゴスフィンチを倒すと、こんな現象が起きるのではないかと思う。崖から落ちて島で暮らしていた時も、風邪をひいて休んでいた時も、ポイントが増えていたので、もう8000万ポイントを超えている。このうち、自分が貯めたと胸を張って言えるのは何ポイントなのか、もう既にわからない。何もしなくても1億ポイントを超えそうだなぁ、と思っているのだが、こんなインチキで手に入れたポイントで景品をもらってもいいのだろうか。
唄う黄熊亭で、パドマがいつも通り給仕のお手伝いをしていると、いつものように師匠が来店したが、いつも通りではなかった。いつもなら、ふわふわと微笑みを浮かべて、まっすぐいつもの席に座るハズなのだ。だが、今日の師匠は、無表情で真っ直ぐパドマのところへ行くと、パドマを抱きかかえてから、いつもの席に座った。
「イ、イレさん、甘辛大根餅っ。あと果実水。ごめん。悪いけど、受け取って」
「あ、うん」
パドマは、師匠を怒る前に、持っていた料理をこぼさないのに必死だった。たまたまイレに持って行くヤツで、ひっくり返すことなく、渡すことはできた。失敗することなく運べて、とりあえず一安心だ。ようやく意味のわからないおっさんをとっちめるのに、心血が注げそうである。
だが、よく見たら、師匠は、震えて泣いていた。自分もハタ目から見たら、こんななのかなウザイなー、と思ってしまったら、怒りにくくなった。
今日は乱暴にされて、ちょっと腹立たしい場面もあったが、最近は師匠に蹴られることもなくなり、優しく甘やかされることが増え、いつぞやはヴァーノンの代用品にして、べたべたしていた。これっぽっちも惚れてはいないが、ちょっと慣れた。故に、少し心に余裕ができている。
「どうしたの?」
と、パドマが尋ねたら、ガッシと抱きつかれた。
「うひぃ」
ちょっとマジでやめて欲しいと考えを改めたのだが、もうこの腕は解けない。食事処で従業員が暴れる訳にはいかない。
「イ、イレさん? もしかしてなんだけどっ、しっしょーさんの妹さんがっ、ゴミムシに食べられて困ったりとか、あった?」
師匠は以前、カエルを見ておかしくなったことがあった。あの時と、ちょっと似ていると思った。今回、パドマは食べられてはいないし、対峙もしていない。ちょっと蜘蛛を投げて、臭いと言っただけなのだが、一体どんな地雷を踏み抜いたのか、まったく想像できなかった。
「ゴミムシ? さあ、聞いたことないな」
師匠に抱きつかれて困っているパドマを見て、イレはニヤニヤしながら酒を飲んでいる。パドマは、それが何より腹が立った。師匠の監督責任はないが、困っている人間がいたら助けろよ! と思うのだが、従業員と客の関係だと、助けを求めてはいけないのだろうか。
「師匠さん、妹を離して頂けませんか?」
ヴァーノンは、助けに来てくれた。何者からもパドマを守ってくれようとする兄の登場に、パドマの表情は明るくなったが、それが誤解を招いた。
「パドマ兄の所為でしょうよ。普段から、パドマといちゃいちゃいちゃいちゃしてるんでしょう? もうパドマは、パドマ兄が構ってくれないと、ああやって、師匠はお兄ちゃんと背格好が似てるから、とか言って、べたべたしてるんだよ。どうするの? パドマ、嬉しそうな顔してるよ。パドマ兄に背格好が似てる男なんて、探さなくてもいっぱいいるよ。同年代の過半数が、大体そんなもんなんじゃないの? あちこちで、皆に抱きついちゃうよ」
パドマも、過去にそんな発言をイレの前でした記憶はあるが、兄には秘密にしていた。何ということを兄にバラしてくれたのか。パドマは、師匠への怒りを忘れて、イレに殺意を覚えた。わずかに動く肘下を師匠の袖の中に潜らせ、武器を探した。
「い、いちゃいちゃなんて、してません。パドマは妹です」
ヴァーノンは、咄嗟に否定をしたが、何を言っても無駄だった。もう周囲の酔っ払いに聞かれてしまった。それをからかわれる未来しか残っていない。ヴァーノンは、酔っ払いに肩を組まれてしまった。次々と酔っ払いに引っ張られて、パドマから離れて行く。何を言われているやら、顔を真っ赤にして怒っているが、しばらくパドマのところへは、帰って来てくれないだろう。パドマは、そう思ったら寂しくなって、師匠に抱きついて言った。
「大好き」
パドマの背中を押さえていた手は、即座に離れた。
「よし」
すぐさま師匠の膝から降りると、パドマは、先程ヴァーノンが持ってきたらしいイレのおかわりの酒を一気に飲み干して、部屋に帰った。
次回、ゴミムシ退治に行く。