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3 秘された姫

 時計の針がたてる、わずかな音に覚醒をおぼえて、ハッと顔をあげると、ずいぶんと視界がせばまっていた。

 忘我の状態にあったらしい。そもそも私の腕時計はデジタルだから錯覚である。


 鬱蒼とした森で、樹木と樹木のあいまはもう暗闇であり、目がかすむような気がしてまぶたをおさえたところ、靄の存在に気づいた。周囲が覆われているようだ。

 まるで濁った水のなかでもがくように、両手を左右にふってみる。靄だらけだ。


 私はとりあえず、深呼吸する。

 だいたいにおいて、冷静でなければ危機は脱しない。

 危機――?

 自分で考えて嗤ってしまう。なぜ、靄ぐらいで……。

 

 ふいに、目前に、子どもの笑顔が現れた気がして――ぎょっとする。

 背筋が冷え、耳のうしろを汗がつたった。

 

 ぎゅっと目を閉じて、開けると――朱色のような橙色のような地に、いくつかの赤黒い斑点がある大きめの花弁がゆれていた。


 ユリか……。

 

 花茎は80センチくらいありそうだ。10センチ未満ぐらいの花弁が複数ついてゆれている。

 正面からみると、6枚ある花弁のならびと、おしべとめしべの配置が、なにかの顔のようにみえなくもなかった。


 私は落ち着いて、息をもらした。まさに疑心暗鬼というやつだ。


(鬼がでたな……)


 そんなふうにしてみると、まわりはユリだらけだった。

 みな一様にして、私に注目しているような気がするからふしぎだ。


 一瞬とまどったものの、ユリのものだろう特有の甘い香りに、しばらくすると、なんともいえない良い気分になってきた。


 そして、自分でも驚いたが、夕方近い森の暗がりで、私はあろうことか脱衣したくなってきた。

 なまぬるい湿気のなか、甘い匂いにつつまれて裸になるというのもありではないか――そんな背徳感に鼓動が高鳴ってくる。

 のどがごくりと鳴る。

 妄想に似た疚しさがそれを助長した……。


 そして気づけば、私は全裸になって、呆然とユリのなかにたたずんでいた。

 まるで夢をみているように、うっとりしていたにちがいない――。


 そのときのことだった。

 私は、立ちならぶユリの一群の奥のほうに――その麗しきひとをみつけたのである。


 ひと目惚れ――まさにそれだろう。

 欲望は論理よりも速く、強いことを私は知っている。

 惚れているのがどういう意味かと問われれば、論理を要するが、それはさておき、私はそのひとの容貌に、一瞬にして捕らわれてしまったのである。

 そのときの感覚もまた、思いだした、に近かった。私は忘れていたなにかを、思いだしかけたのである。


 私は言葉をうしなって、その対象をみつめた。

 そして、その対象もまた、黙ったまま私をみつめていた。


 花といえば花、草といえば草、人といえば人……みればみるほど、そんな様子だった。

 植物人……そんなわけのわからない単語が脳裏に浮かぶ。


 可憐で美しい女性が立っている――身体は深緑色に覆われ、いうなれば茎にたとえられるぐらい細い。

 手は細長い葉のようで、足は大きめの折りかさなる葉のような形状で、地面から生えているようだ。

 そして、顔はうつむいた女性のものだが、頭髪が優雅な朱色の花弁になっている……。


 女性の顔は、なんとも上品で、ややうつむき加減に私をみている目も、非難や懐疑や畏怖からはほど遠い。

 なんという魅力的な立ち姿!

 私は感動のあまり、全身がしびれるのを感じる――。


 引き寄せられるように、その麗しきひとのまえまで、私は歩いた。

 ぬるい風がふわりと流れ、そのひとの顔がほんのりとほほえんだ気がして、私は喜びにうちふるえながら、その手をとる。


 そのひとの手はつやつやした緑色の細い葉だった。

 近寄ってみれば、身体のあちこちから、いくつも若葉がでている。


 しかし、私はそんなことはもう、おかまいなしだった。

 つぎの瞬間、私は出逢えた奇蹟に、涙を流すほどの(あるいは流していたかもしれない)絶頂を味わいながら、そのひとに抱きついていた。ざざっと足音のようなものが聞こえ、青っぽい草の匂いが鼻をついたものの、私はそっと目を閉じる。

 すると、そのひともまた、私を抱きしめてくれたような気がした――。


 ――気づくと、もう夜だった。

 ふと目醒めると、私は山道に横になっていた。老婆と別れた立て看板のところらしい。


 呆然としていると、遠くから梟の声が聞こえて、上空をみれば秋の細かい銀粒の星空がひろがっていた。

 ぼんやりと散りばめられた星くずを眺めて、あれは夢だったのか……と思い悩みはじめたことで、私はようやく自分が全裸であることに気づき、あわてて立ちあがった。

 すると、衣服と荷物は、すぐわきに落ちていたので安心した。靴も靴下もある。


 私はいまさら、きょろきょろと周囲をうかがいながら、あわただしく着衣して、荷物を背負い、猫の目のような月あかりを頼りに帰途についた。

 思い返せば、だんだん恥ずかしくなってきて、逃げるようにレンタカーまで駆けてくる。


 クルマで走行しだして、O高原から離れるにしたがって、私はようやく冷静になり、のどの乾きと空腹をおぼえた。慌てたせいもあってか、足にいくらか血のにじむ傷もあった。なにより、全身がむず痒くなるほど疲労していた。

 私は思いがけぬ冒険に、ため息をついた。


 ただ、どう考えても、私にはあの体験が、夢やまぼろしとは思えなかった。


 翌日、気になったのでО高原について調べてみると、老婆の話していた民間伝承が検索できた。

 О高原は、さかのぼること平安時代、禁を犯して契ろうとした人間の男と鬼の女が、双方に疎まれ、不遇の死を遂げたところであり、鎌倉時代になっておとずれた高僧が不憫に思い弔ったところ、コオニユリ――私がみた花だ、の群生地になったということらしい。


 コオニユリを二人の子と見做し、以降、人々も悔い改め、大事にしてきたそうだ。その割に、近年、開発にともなって国立の自然科学研究所の私有地になったそうだが、それは地主の一族が営んだスキー場が経営破綻したせいもあるそうなので、致しかたないところだろう。


 関連した時事として、これも老婆の発言どおり、付近で登山者二人が行方不明になって消防や警察に捜索されたというニュースも載っていたが、続報はなかった。

 

 それでも、私は文面をみて、心を躍らせた。

 コオニユリのことを、里の人たちは鬼姫と呼んだりしていたらしい。

 鬼姫――まさに鬼であった。しかしながら、姫でもある。

 これは、まさに私のための存在ではないか!

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