第5話 『情愛』
「つい話し込んでしまいました。メリア殿もなにかお訊ねになりたいことがあれば、お答えしますよ」
私の境遇にあえて触れず、扉の向こうでエストール様が気を回してくださいました。
ここでは遠慮こそが美徳だったかもしれません。しかしこのとき、私はエストール様のお申し出に甘えることにしたのです。
「外の状況について、ではなくとも構いませんか」
「もちろんです」
「変な質問になるかと思いますが」
「お気になさらず。誰にも、王にだって口外しません」
『王家の懐刀』に連なるエストール様がおっしゃられると軽口には聞こえません。いえ、本当に軽口ではないのでしょうけれど……。
「エストール様から見て、パトリック殿下はどのような御方だったのかお教え願いたいのです」
「……パトリック、ですか?」
面食らったかのようなその反応は、私も想定していましたが。
「率直な、忌憚のないところをお聞かせ願えればと」
「本当に知りたい?」
「はい、是非に」
強く念押ししますと、本意ではないエストール様も折れてくださいました。
「粗暴なヤツ、というのが第一印象でした。世界の頂点が自分だと疑ってもいないというか。その性質が王の器に相応しいものかどうか、俺は最後の最後まで保留したままでしたが」
少し言いづらそうなのは、私の前だからこそ限界までお言葉を選別されたからだと思います。
「エストール様と仲はおよろしかったんですか?」
「……ええと」
「すみません。ふだんはあまり近寄るな、と私は命じられていたもので」
ご学友であり将来の臣下でもあるエストール様やマキャベリ様との仲も、よく知らないままだったのです。
「俺とは放蕩息子同士、気が合う部分もありましたよ。あまり健全な方向ではなかったですが……粗暴さは、よく言えば豪胆さですから、細かいことを気にしない気質は俺としてはやりやすかったです」
相性自体はそう悪いものではなかったという事実に、元婚約者として少々複雑な気持ちを抱きます。常日頃から理解に務めようとしても、私には遂になせないことでしたから。
「ビジネスパートナーとしてなら、悪くはないということでしょうか?」
「ですね。俺とは違う意味でマキャベリもやりやすかったと思います。なにせ太鼓持ちさえしていれば上機嫌ですから」
マキャベリ様の、誕生パーティでの去り際のセリフが脳裏によぎります。
なるほど、あれはそのような意味でしたか……。
「パトリック殿下とは、いつもどのようなことを?」
「それは少し、ご令嬢には刺激が強すぎるかと」
「ではローズマリーさんとは? いつ、どのような機会にお知り合いに」
「……そこまで」
冷たく平坦なそのお声は私の前に壁を作り、無邪気にはしゃいで走り続けようとするのを止める役割を果たしました。
「あ……すみません」
「いえ」
暴走状態から我に返ったのを、エストール様も察されたのでしょう。
「これ以上、知らない方がいい」
「そう、ですね」
反省する私をどう思われたのか、エストール様は努めて明るいお声を出されました。
「申し訳ない。差し出がましいことをしました。けれどメリア殿には知ってもらいたかった。失って、取り戻せないものを見続けてもいいことなんてひとつもありません。悲しみを、ただいたずらに増幅させるだけだって」
それは正しい所見かと思います。
過去に囚われたまま、人はきっとしあわせになんてなれないのでしょう。
けれど私は、本当にしあわせになっていい女なのでしょうか?
「まだ、気に病まれてる?」
「えっ?」
驚きの声は、図星を突かれたと思ったから。
その印象は正鵠を射ていました。エストール様は続けて――。
「そんな必要ありませんよ。あなたがやらなければ、俺がやっていた」
「しかし、私がパトリック殿下を陥れた事実は……」
「その認識が誤りです。メリア殿はなにも悪いことをしていない」
本心から慰めてくださっているのはわかります。
けれど私にとって、あの婚約破棄はあまりにも罪深い所業だったのです。
罪にはいつだって、相応の罰が下されるべきです。
しかしあの場で私がしたことは、果たして罪に釣り合っていたでしょうか。
パトリック殿下とローズマリーさんとは公然の仲でした。婚約者である私を蔑ろにして、堂々と2人は付き合っていた。しかしそれと、パトリック殿下の出自については本来関係がないのです。
私は、パトリック殿下ご自身のものではない罪を引き合いに出して、殿下を断罪してしまった……。
「卑怯な、手段でした」
「違います。やむを得なかった。あの場で告発しなければ、パトリックはあなたのご実家まで毒牙にかけていたでしょう」
風の噂に、そのような話を聞いたことがあります。エストール様が直に口になさったのを鑑みるに、憶測ではなく事実だったのでしょう。
「あなたはこれまでよく耐えました」
「私はそのように思えません。もっと他に良い方法が……」
「俺とパトリックが決闘して、殺してでも婚約破棄を止めた方がよかったですか」
衝撃的なお言葉に、息を呑んで口を噤みます。
声に出されたエストール様も同様だったようです。
やがて申し訳なさそうに――。
「すみません、強い言葉を使って。けれどわかってもらいたいんです。止めようがなかった。マキャベリもローズマリー嬢もパトリックの思い付きを煽り立て、大衆の面前でメリア殿に恥を掻かせようと目論んでいた。止めるなら、それこそ剣を血に染めるくらいしか手立てが残っていなかったんです」
このとき、私は深く恥じ入りました。
無二の恩人とも言えるエストール様に、私はなんということを話させてしまったのでしょう。これほどまでに尽くしてくださった御方を疑うような言い方をしてしまうなんて……。
「も……申し訳ありません!」
扉の向こうで顔も見えないのに、私は思わず頭を垂れました。
しばらくなんの反応もなかったのは、お怒りのためかと思いました。
事実はそうでなく、エストール様は納得の声音でこう申されたのです。
「まだ、お心がおありなのですね」
見透かされて心臓が一際高く跳ね、私の返答は――。
「……はい」
しばらく待って、エストール様の方からもう一度。
「俺には、わからないんです。パトリックはあなたのことを疎ましがっていた。いや、虐げていたと言ってもいい。遠ざけて冷遇し、不義理の限りを尽くし、公然と新しい恋人まで作っていた。なのにどうして、あなたはパトリックの貞淑な婚約者のままでいようとなさったんですか」
……言って、伝わるものでしょうか?
いえ、きっとこの発想自体が失礼に当たりましょう。理解されなくとも、口に出して伝えるべきなのです。何故ならエストール様はそれだけのことを私にしてくださっていたのですから。
私は、ふ、と相好を崩して常日頃から思っていたことを口にしました。
「情愛というのは、きっと合理的ではないんです」
「失礼ながら、どういった意味なのでしょうか」
真剣に聞こうとしてくださっているエストール様に、たどたどしいながらも自分の言葉で伝えようと思いました。
「相応の好意を受けた相手に、返せるようには作られていないということです。たしかにパトリック殿下は私に冷たかったかもしれません。けれどそれと、私の心の在り方とは別なんです。だから、たとえ私のことを見てくれなくても、私はずっと殿下をお慕いしていたんです」
私とパトリック殿下のお付き合いは長く、お互いが小さな頃に始まりました。
親同士が婚約を結んだのは、初対面からすぐのことです。ヴィオール王家とラセーヌ公爵家の繋がりが増せば、王国はより強固になる。適所にパズルのピースを嵌め込むような政略結婚はしかし、ヴィオール王国にとって最善の一手でした。
「俗にいう、恋ということになるでしょうか」
「しかし、パトリックはあなたになにも」
「してくれたことがあったんです。遠い昔話になってしまいますが」
私は首を捻って、窓の隙間を見ます。
ちょうどこんな天気の日でした。雪が降って、地に積もって、一面が銀世界になったかのような冬の日に、パトリック殿下は私に贈り物をくれたんです。
年に数度、幼いパトリック殿下は家臣団に警護されて我がラセーヌ領へ足を運んでいました。その際のプレゼント交換の慣習は、互いの仲を深めるために親同士が提案したもの。しかし当人たちにとっては、物珍しく楽しい行為だったのです。
ある来訪のとき、殿下は私へのプレゼントを準備するのを忘れてしまいました。邸で私がプレゼントの入った箱を差し出すのを見て気まずく思われた殿下は、「プレゼントはこれから用意する!」と豪語され、外に飛び出していったのです。
「お前らは来るな! ちゃんと僕だけの手で用意するからな!」
殿下は語勢強く家臣団に命じました。相当の行路を旅し、もう日も沈む頃合いだったので、私はそんな殿下の姿にハラハラしておりました。
遂に日が落ち、風が強くなって吹雪き始めます。心配になった私がお父様に殿下を迎えにいくようお願いしようとしたときに、その声が聞こえたのです。
「メリア! やっとできたよ! 今から見に来て!!」
髪に雪を積もらせ、赤鼻に鼻水を凍らせて私の手を引く殿下に連れていかれた先に、これまで見たことがないほど大きなゆきだるまが鎮座していました。
暗闇に雪が舞う空とともにそれを見上げ、驚きとともに殿下のお顔を眼に入れた私に、殿下はへへっといたずらっぽく笑ってこう言ってくれたのです。
「遅くまで待たせてゴメンな。これが今回の、僕のプレゼントだ」
「これ、私のために……?」
肌を刺す寒さの中、ひとりでずっと作業していた殿下のことが心配で、けどそれ以上に殿下がプレゼントを用意してくれたことがうれしくて、私は殿下のお顔をじっと凝視してしまいました。
殿下は笑顔を引っ込められ、見られて気恥ずかしくなったのか頬を真っ赤に染めて答えられました。
「うん、一応。メリアのこと考えながら作ったから」
「あの、ありがとうございます」
「いーよお礼なんか。ホントはプレゼント忘れてただけだし」
「それでもうれしいです」
「そっか……それより寒くなってきたしさ、そろそろ帰ろ?」
もう一度、殿下は私の手を引いてラセーヌ邸へと駆け戻りました。
この来訪で元気な殿下の姿を見られたのは、結局この日だけでした。
身体を冷やしたためでしょう、その日から三日三晩パトリック殿下は高熱にうなされ、熱が引いて体調が戻る頃には、滞在期間のほぼすべてを使い切ってしまっていたのです。
「あなたは、そのときの残像を」
「子どもの頃のことなのに、愚かな女だと思われますか」
「…………」
エストール様の沈黙は、きっと肯定なのでしょう。
美しい思い出は、現実の私たちと天と地の開きがありましたから。
思えばエストール様には、随分と長くお話をさせてしまいました。
部屋にこもる私に、外の世界の動向について丁寧に語ってくださった。
だからこそ、これ以上お気を遣わせるのは失礼というものでありましょう。
他でもない、言い出した側にいる私が本題へと切り込まねばなりません。
「……エストール様」
姿勢を正してお客人の名を呼び、万感の想いでその言葉を口にしたのです。
「どうか私に、なんなりとお命じになってくださいませ」




