第1話 『無辜の令嬢の返礼』
「――私との婚約を破棄する、とは?」
一幕は、よくある物語のようでした。
真実の愛に目覚めた王子が美女を傍らに、かねてよりの婚約者に婚約破棄を突きつける。それは星の数ほどもある恋愛物語で繰り返されてきたお馴染みのシーンであって、現実に起こるものとは到底思えなかったのです。
「貴様にはほとほと愛想が尽きた。退屈な女め」
以前に見かけた方とは違う、新しい女性の肩を抱き寄せて、ヴィオール王国第一王太子パトリック殿下は口元に愉快げな笑みを湛えられました。
「親の決めた婚約だから言わずにおいた。だが成人ともなれば話は別だ。俺は俺の意思で貴様との婚約を破棄し、この男爵令嬢ローズマリーと婚約を結び直す」
宣言に呼応して、おおっ、と周囲の方々が一際大きな声を上げます。
そうでしょうとも、ここはパトリック殿下の誕生パーティの場で、招待されたのはみな殿下に近しいご友人の方ばかりでしょうから。
想定していた光景でした。けれど現実感がありません。
あらゆる要素が巧妙に配置されすぎて、創作的すぎる。
「……どうお返事をしたら、よろしいのでしょうか」
この一幕の主演女優として、あるいは敵役としての戸惑いが、私にそんな呑気な言葉を使わせました。
呆れたように観衆が笑い、殿下もまた苦笑されます。
「返事? そんなものはいらないさ。今後一切、俺の眼の前に現れてくれなければいいだけだ」
そんなこともわからないのか、と嘲りの態度を隠されていませんが――。
「もしも、断ったら」
「なんだと?」
「私がお断りしたら、パトリック殿下はどうなさいますか」
観衆ともどもの一瞬の静寂は、私の正気を疑われたからでしょう。しかしそれも刹那。再びどなたかが笑い始め、空気の緩みとともにみな笑い始めます。
「クク……婚約破棄が相当こたえたと見える。だが教えてやらんこともない。貴様は俺に逆らえない。ゆえに、返答の必要もない」
ぶおん、と片腕を振るジェスチャーは、私に次の言葉を予見させるに必要十分なものでした。
「わかったなら、即刻出ていけ!」
パトリック殿下のお言葉に続き、観衆の方々も私に向かって出ていけコールを始めました。
彼らの眼には、一様に期待の色がある。ふだんの私なら、寡黙な公爵令嬢メリア・フォン・ラセーヌなら、泣いて実家に逃げ帰ると信じているのでしょう。
「お断りさせていただきます」
だからこれは、意想外の一言だったはずです。
案の定、繰り返されるコールが弱まり、ざわめきが生まれます。
祝勝ムードに水を差され、パトリック殿下が歯噛みされました。
「どうしたメリア。今宵の貴様は、やけに生意気じゃあないか」
「殿下にお伝えしなければならないことがありますので」
「そんなことは聞いていない! ……ああ、そうか、仕置きが必要なんだな」
引き攣れのような嗜虐的な笑みを湛え、いったんローズマリーさんの肩から手を離し、パトリック殿下が私に向かって歩みだされたその瞬間だったと思います。
「――動くな」
踏みだされた足が、半歩ほどで止まる。首筋に、まるで100年前からその場にあったが如く自然に、抜身の刃が突きつけられていたからです。
「エストール、貴様……」
「おしゃべりはいい。それ以上動くな」
抜剣の音すら聞こえない神業。ですが注意深い人ならば気づくことができたでしょう。黒髪黒眼、王家の懐刀と呼ばれるガスガルド家嫡男、エストール・フォン・ガスガルド様が、先程の私への嘲笑に加担していなかったことに。
あらゆる事象から興味を失くされたかの如きアンニュイな瞳は、ふだん軽佻浮薄に振る舞われているエストール様とは程遠いものでした。
一連の行動を臣下の座興と取られたのでしょう、パトリック殿下は凍った表情を努めて浮かべた笑顔で溶かされました。
「これはなんの冗談だ?」
「答える義務はないな」
「なんだと……いや、そうか。お前もローズマリーを狙っていたんだな?」
「エストール! 剣を下げろ!」
殿下が当て外れの納得に辿り着いたところで、殿下の隣に立っていた人物が回り込んでエストール様を非難されました。ヴィオール王国が誇る宰相閣下がご子息、マキャベリ・フォン・ハインツフォール様です。
豊かな緑髪を纏めて馬の尾にされているマキャベリ様は、碩学の徒にお似合いの眼鏡の奥から、事態を冷静に俯瞰されておりました。
「このような祝いの場での狼藉、謀反と取られてもおかしくないのだぞ!」
「しゃしゃるなマキャベリ、俺を追い落とす手間が省けただろ」
内心を見透かされて表情を変えるより、剣を構えたまま逆の手によるエストール様の動きの方が早かった。
懐から抜きだした一枚の書面をマキャベリ様の面前に差しだして、冷たい声音のまま言い添えられます。
「読め、こいつの運命が書いてある」
「これは……バカな、そんな」
学内きっての忠臣であり、王国の誇る頭脳でもあるマキャベリ様が驚愕の表情を貼りつけたまま、殿下のお傍から距離を取る。
その異常事態は、波紋のようにこの場に集った全員に波及していきました。
「マキャベリ、どうした。そんな紙切れ一枚で……」
「敬称もなく私の名を呼ばないでいただきたい」
マキャベリ様の毅然とした拒絶が、場に漂い始めた空気を膨張させます。その影響を色濃く受けたのがローズマリーさんだったのは不思議ではありませんでした。怯えた表情で、今しがた家臣に梯子を外されたパトリック殿下の表情を下方から窺っています。
その不安を除くのは、同じ女である私の務めでありましょう。
「――ずっと、疑問だったのです」
パトリック殿下に正対しながら、集ったすべての方々へと。
「創作で婚約破棄を突きつけられた令嬢は、何故いつも粛々とそれを受けざるを得ないのか。たしかに物語上の都合ではあります。私もずっとそう思ってきました。しかしあるとき、明確な理由があることに気づいたのです」
一同は誰も、なにも言いません。エストール様にマキャベリ様、それにパトリック殿下でさえ私の一挙一動に眼を凝らしている。
望む望まざるにかかわらず、本意不本意にかかわらず、この場の主演女優である、この私に。
「立場が、弱いのです。彼女たちはいつだって立場が弱い。婚約破棄を突きつける側に立つ殿方より家格が下で、周囲から孤立し、女という性を併せ持つ。これらの要素が、彼女たちに婚約破棄という艱難辛苦を有無を言わせず飲ませているのだと理解するに至ったのです」
回りくどい物言いは、きっとあなたもお嫌いでしょう。
わかっていました。次に文句を付けるのはパトリック殿下だと。
「……なにが言いたい。俺の婚約破棄に異議を申し立てると?」
首を振って、無用な心配を取り除きます。
「この婚約は破談となるでしょう」
「ならば受けろ! そして即刻この場から立ち去れ! 貴様のその辛気臭い顔を見るだけで不快なのだ!!」
恫喝染みた遣り口は、か弱き女の口を塞ぐに迫力十分だとお思いでしょう。
そしてふだんの私ならば、ご要望通り黙りこくるしかなかったことでしょう。
そのご判断は正しい。
だってこの先に大義がなければ、私はそうしていたでしょうから。
「お受けできません。何故ならあなたは、王太子殿下などではないからです」
静寂。そして引き攣れのような笑い。
笑っておいでだったのはこの場でパトリック殿下だけでした。
「クク……なにを言いだすかと思えば! 俺は20年間王太子として育てられ、王である父上と王妃である母上に愛情を注がれてきたんだぞ! そんな俺がニセモノであるはずが……」
尻切れのお言葉は、周囲の状況を鑑みられたから。
剣を突きつけたまま無言で憐れみの表情を浮かべられるエストール様も、頭痛を忍ばれるよう不快げに眉根を寄せられたマキャベリ様も、後ろに控えるご友人の方々も誰も、パトリック殿下に追従されなかったのです。
「そんな、嘘でしょ……?」
逃げるように殿下から距離を取ったローズマリーさんの眼には、軽蔑と嫌悪の色が浮かんでいました。そんな眼を、見たくはなかった……。
「マキャベリ!!」
「敬称を付けろと忠告したでしょう。まったく、私のしてきたことは徒労ですか……」
興味が失せた、と言わんばかりに踵を返して去ってゆくマキャベリ様。
「エストール!! これはどういうことだ!!」
「すぐに終わるから最後まで見てな」
けんもほろろなエストール様の口ぶりから、なにを言っても無駄だと感じとられたのでしょう。
「ローズマリー!! 君だけは……!!」
「気安く呼ばないでください。王太子でないなら、誰があんたなんかと」
まるで知らない殿方に肌を許していたかのように、自らの身体を抱きしめてぶるりと震えるローズマリーさん。
三者三様の反応と、背後に控える無言の観衆から、誰も自分に味方する者はいないと悟られたのでしょう。パトリック殿下はもう一度私と正対されると、凝集して塊のようになった憎悪をぶつけてこられます。
「謀略だ! こんなものは……メリア、貴様が誑かしたんだろう!!」
当然、位相のズレた認知ならば正さねばなりません。
「あなたは、不義の子なのです」
「なんだと!?」
「母君であられる王妃マルグリット様が下町の鍛冶職人ブランドンとの間に授かった庶子、それこそがあなたの正体です。王位継承権を持たないどころか、半分は貴族の血すら引いていないのですよ」
裏付けは取ってありました。でなければマキャベリ様が大人しくこの場から逐電するはずがない。
この状況を作り出してしまった時点で、私に婚約破棄を突きつけた時点で、パトリック殿下に逃げ場などなかったのです。
「王太子ではない……俺が……!?」
傷心のパトリック殿下は足元すら定かではありませんでした。このような状況でさえなければ、私からあなたに差し上げる慰めもあったことでしょう。
しかしすべては遅きに失した。だから――。
「返礼が、必要なんです」
貞淑な令嬢らしくスカートの前で結んだ両手を離して、私は狼狽するパトリック殿下のお顔を真っ直ぐに見据えました。
「婚約破棄を与える側と受ける側、両者の力関係が逆転したならば、無辜の令嬢にだって主張すべきことがあるはずです。もしその婚約に虚偽の内容が含まれていたのなら、そこに明確な裏切りがあったとしたなら、なおさらに――」
それはまるで海が割れるような光景でした。
殿下と私を結んだ直線上から観衆がさっと退き、道を譲るよう左右に散っていったのです。
背後で起こった並ならぬ様子に、殿下は青褪めたお顔で何事か起きる予兆を感じ取られたようでした。
「……よせ、やめろ」
そのお言葉の意味は薄い。事実が衆知のものとなってしまったのですから。
私は躊躇することなく自由にした右手を挙げ、その指先でしっかりとパトリック殿下のお顔を指差し、真っ向正面からこう申し上げました。
「私こと公爵令嬢メリア・フォン・ラセーヌは、不義の落とし子パトリックとの婚約をここに破棄させていただきます!!」
きっとこれがかつての婚約者に送る、無辜の令嬢からの返礼だったのです。
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ヴィオール王国最大の国難は去った。
政略結婚した王の子ではなく、愛する男との子を王位に据えようとした王妃マルグリットの陰謀は崩れ去り、今やすべての真実が明るみとなった。
偽りの王子は廃嫡に、裏切りの王妃は離縁とされ、追ってその所業に相応しい沙汰が下されることになるだろう。
未曽有の危機を喝破したパトリックの元婚約者メリアと、その協力者である辺境伯令息エストールの評判はうなぎ上りとなった。
特に学園内で目立たない存在だったメリアの評判上昇は著しく、一部生徒からは『救国の聖女』と呼ばれ、崇拝対象にすらなっている。
しかしこの大事件の翌日からこちら、彼女の姿を直に見た者はいなかった。
そして一月の時間が流れる――。
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