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三顧の非礼 最終

 まどろむ蒋幹の意識を呼び起こしたのは一つの声だった。

 辺りは暗闇に包まれ時刻も判然としない。ただ、深夜というのが分かるのみ。明かりを求めて視線を彷徨わせるが暗闇しか見えない。


 だが、そんな闇の中で一筋の光明のような声が蒋幹を喚ぶ。声はどうやら壁越しから聞こえてくる。声の主は屋外にいるらしい。蒋幹はその声に返答すると相手も身の上を明かした。


「久しいな、友よ。願わくば陽のあたる場所で再開を分かち合いたかったが、生憎そういう時勢でもない。いま、こうして君と会うのが私にできる精一杯なのだ。訪ねてくれた友に対する非礼、許してほしい」


 はっきり憶えているわけではないが、その美しい声は周瑜本人と蒋幹は直感した。周瑜が自身の立場も顧みず、自分ごときにわざわざ忍んで会いに来てくれた事実だけで蒋幹は飛び上がりたい気持ちだった。

 が、そこは抑えて蒋幹はすかさず本題を切り出す。この機会を逃せば終生二度と会うことはあるまいと。


 蒋幹は屋外にいるであろう周瑜に自身の立場を明かすと共に、ひたすら抗戦の愚を、恭順の理を説いた。恐らく孫権、周瑜に同じことを説いた人間は数多いたであろうがそんなことはどうでも良かった。そして自身は曹操に命令されたからではなく、友として周瑜に戦争をしてほしくないのだ、と、最後に付け加えた。


 周瑜はその間黙って聞いていた。時折、相槌の返事はするが、自分はこの場所にいるという合図的なものであるのは蒋幹にも察しはついた。

 蒋幹が一気にまくし立てるとしばらくの沈黙。もはや周瑜は立ち去ったのか、そう不安に駆られるほどの長い沈黙だった。あるいは、返答を待ちきれない蒋幹が長く感じただけだったのかもしれない。

 やがて、周瑜が壁越しに語りかけてきた。


「君の立場と、気持ちはよく分かった。全て教えてくれてとても嬉しく思う。やはり君は昔と変わらず、私の友だったのだな」


 この言葉に蒋幹は思わず拳を握りしめた。もしかすると本当に戦争を回避できるかもしれない。そんな一縷の希望を抱いた。


「君の助言は全て正しい。戦争など愚者のすることだし、抗戦にも百害あって一理もない。仮に此度の侵攻を撃退できたところで、結果的にはやはり愚行になるのだろうな」


 やはり周瑜は聡明だった。僅かな言葉の中に百年先にも及ぶ見識が窺えた。これはいけるかもしれない、蒋幹の胸が高鳴る。が、しかし、と、周瑜は言葉を接ぐ。


「自身の危険も顧みない君の忠告、感謝の言葉もない。私には過ぎたる友だ。君の正しさを否定する根拠が私にはない。しかし、しかし、私は君のように聡明にはなれない。私は君が思っているよりずっと卑小で愚かな人間なのだよ。君の友を名乗る資格もない」


 なぜだ、と言いたい気持ちを堪え、蒋幹は周瑜の言葉を待つ。


「ここで曹操に恭順せず、抗う選択は江東の人々に、いや、天下の人々に百年にも及ぶ戦禍を負わせるのだろう。君の指摘は全く正しい。その正しさを知りつつなお、私は曹操と同じ天下を戴くことができない。それほどまでに愚かな人間なのだよ。私は。しかし聞いてほしい。私のもとを訪れてくれた君を友と見込んで打ち明けたい。理解してくれとは言わない」


 蒋幹は周瑜がどこまで本心なのか計りかねた。周瑜が自分を友と呼び、自分ごときに胸の内を明かすなど到底思えなかった。


「私が曹操に降らない、いや、降れないのはひとえに恨みからだ。奴は私の兄弟を、主君を殺した。その復讐のためだけに私は生きている。戦争が愚かなことは分かっている。憎しみは何も生まないのは分かっている。それに多くの人を巻き込むのも許されざることだとも分かっている。やがては江東を滅ぼすこととなり、私もまともな死に方はしないだろう。それでもなお私は曹操を赦すことができない。奴の喉笛に噛み付くためなら私は何でも利用する。刺し違えることができるなら、どんな犠牲も厭わないだろう。許してくれとは言わない。理解してくれとも言えない。私は私個人の復讐のためだけに、愚かな争いを仕掛けるのだ。それで君が私を見限ろうとも私に弁解の余地はない。君の、いや、私は誰の友である資格もない人間なのだから」


 蒋幹は深く絶望した。周瑜の義兄弟、孫策は江東にて何者かの手にかかり落命している。周瑜がここまで言うからにはそれが曹操による暗殺であるという確証があるのだろう。

 それは分かる。それは分かるが、周瑜がそのような私情に駆られて戦争を起こす人というのが蒋幹には信じられなかった。いや、天下の誰もが信じられないだろう。

 しかし天下の人も、曹操も、蒋幹も周瑜の人格を勝手に決めつけていたのではあるまいか。

 呉の大都督という重責を担い、あらゆる才能に秀でた全知全能の人。それゆえ人格も高潔な、人としての愚かさとは全く縁遠いはずだという勝手な憶測を。

 ところがそんなことはなく、周瑜は理性では戦争は愚かな判断と知りながらも、私怨の戦争をも辞さない激情の人でもあった。


 嗚呼、なぜ曹操は斯様な凶行に及んだのか。それさえなければ江東は平和裏に手中に収めることができたであろうに。最早蒋幹には周瑜を説得しうる材料がなくなった。


「懐かしいな、蒋幹。君とは故郷で共に学んだものだが言葉を交わしたことは殆どなかったな。君は常に己の尺度をもって物事を量り、争わず、おもねらず、世を拗ねず、野心も抱かず飄々としていた。そんな君に私は憧れ、心の中で勝手に友などと思っていたのだよ。しかし、こうして私に忠告を授けに来てくれたということは、本当の意味での友だったのだな。しかし残念ながら今の私には君の苦しい立場を救うことができない。それだけは済まなく思う。君が私に争いの愚を説いたように、君にも争いは似合わない。君は私のように愚かな道など歩まず、天下の情勢などにも関わらず、どうかあの頃の君のまま、飄々と生き抜いてほしい」


 そう言い残した後、周瑜の気配は消えた。


 翌日、蒋幹は江東を後にした。しかし曹操が陣を張る烏林へと戻ったものの曹操に会うことは叶わず、蒋幹が携えた呉の兵力情報を渡し、任務の失敗を報告すると解任を言い渡されたのみで、覚悟していた処罰もついになかった。

 元々恫喝だったのか、本気で周瑜を引き抜けるなどと考えてはいなかったか、あるいは徹底抗戦を決めた周瑜への興味を曹操は失ったのかもしれず、蒋幹ごとき小人に責を負わせるつもりもなかったのかもしれない。


 ただ、失敗の報告を聞いた曹操は、「そうか」と言っただけだったと蒋幹は伝え聞いたのみだった。


〜了〜


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