三顧の非礼 五
三顧の礼。
劉備玄徳が諸葛孔明を配下に加えた際にこんな美談が喧伝された。真偽はさておき、そこまで礼を尽くされるとそれに応えたくもなるのが人情というものだろう。まさか自身が周瑜にそれとほぼ同じことをするとは蒋幹も思わなかった。劉備とはかなり事情が異なるのだが。
三度目の正直とばかりに周瑜との面会を申し出たものの、やはり会ってくれる可能性は皆無に等しい。それも当然。相手は孫権軍をほぼ掌握する水軍大都督。その行動と発言は天下に影響を及ぼす。それに引き換え自分はただの人なのである。幼少の頃の学友という接点がなければ会おうという気にすらなからなかっただろうし、曹操に無理くり召し出されることもなかったであろう。その程度の儚い繋がりなのである。旧友と言うことすら憚られる。
蒋幹は記憶に残る周瑜の面影を想った。その姿は眩いばかりであった。才気に溢れ、覇気に満ち、誰もが彼に心酔した。その将来には栄光が約束されていると思った。事実、彼は若くして呉軍の重責を担っている。そんな未来は誰にも容易く想像できた。周瑜とはそれほどの、神の如き光を放つ人物だった。
そこまでの差を見せつけられると蒋幹は妬むよりむしろ清々しかった。まともに口を利くことさえ畏れ多くてできなかったが、蒋幹は何より周瑜の人柄に感銘を受けた。才を誇ることなく、奢らず、昂らず、賢者の教えを謙虚に守り、歴史に学び、誰に対しても別け隔てのない人格も備えていた。このような生まれながらの人格者がいるものなのかと蒋幹は驚き、尊敬もしていた。ために対等に口を利くことさえ怖くてできなかった。
周瑜は誰に対しても分け隔てなどしない。きっと自分にも友のように振る舞ってくれるのだろう。それが蒋幹は恐ろしかった。周瑜のような英傑と交わるうち、いつしか自分は彼と対等などと思い上がり、現実を錯誤してしまうのではあるまいか、と。それが蒋幹は恐ろしかった。だから周瑜との関わりを持たないよう努めた。
それがなんの因果かいま、蒋幹は周瑜に会うべく三度の礼を尽くしている。いや、礼と言うのもおこがましい。卑小なる自分は卑小なる目的と密命を以って周瑜に会おうとしている。きっと周瑜はそれすらも全て見通しているのだろう。それはあの手紙の内容からも推し量れる。それでも蒋幹はなんとしても周瑜に会いたかった。
自分のような小人を儀礼とはいえ、旧友と言ってくれたのである。それならば旧友としての節を全うするのが人の道ではないかと。
周瑜を動かせると思えるほど自惚れてもいない。しかし彼ほどの傑物に戦争など似合わない。周瑜にはそんな愚者の選択などしてほしくはない。周瑜の才能は争いではなく、治世のためにこそ発揮されるべきだと。この気持ちだけでも友として周瑜に伝えたい、その一心だった。
しかし現実は残酷だった。使者の返信を待つ間にも呉郡では過激な主戦論が目立ち始め、いよいよ戦争かと思わずにはいられないような空気が蔓延しつつあった。時が経つほど取り返しのつかない事態になるのではあるまいか、そう思わずにはいられなかった。
蒋幹は一刻も早く周瑜に会いたかった。