三顧の非礼 二
蒋幹は揚州の人である。士大夫の家系に生まれ幼少の頃から秀才の誉れ高くやがては中央の官吏として登用されるべく教育された。蒋幹自身、子供の頃はそれが自身の歩むべき人生なのだと志していた時期もあった。が、同輩にとんでもない英傑がいた。それが周瑜だった。
とにかく周瑜の才能は抜きん出ていた。官学、文学、軍学等、学問に於いては並ぶ者なし、弁舌は爽やかで下手な縦横家よりも人の心を掴んで離さぬこと著しく、剣を持てば一軍の将にも伍する腕前。音楽、舞踊の才能にまで恵まれ、さらに花のごとき美丈夫でもあった。
これほどの天才を目の当たりにすれば大抵の凡人は対抗心を燃やす、嫉妬心を抱く、媚びへつらうものだが蒋幹は斯様な凡俗でもなかった。周瑜の巨大さを素直に認められる蒋幹もまた確かな才覚の持ち主と言えるのだが、そこまで自惚れられるほど蒋幹は自信家でもなかった。
結果として蒋幹は周瑜の巨大さを目の当たりにして自身の小ささを認めると共に見切りをつけ、野の人として一生を終えると決意するのはさほど難しくもなかった。
もし蒋幹に愚鈍になれるほどの邪さでもあればそこそこの名を上げることもできたであろうが、そこまでできるほど蒋幹は強欲の人でもなかった。
あるいは、周瑜という完全無欠な人物に少しでも近付きたいと、我欲を努めて切り離したのかもしれなかった。
ところが、隠棲を決め込んだ蒋幹を突如召し出す者があった。官渡の戦いで勝利を収め、荊州に攻め入っては劉備玄徳を蹴散らし、ほぼ天下の趨勢を決めた当代随一の英雄、曹操孟徳である。
その曹操が次に狙いを定めたのが江東、呉郡だった。
江東には孫堅が地盤を築き、その息子、孫策が一大勢力にのし上げ、そして今は孫策の弟、孫権が呉の同盟勢力の盟主として統治している。これを支配下に収めればもう曹操の覇業は成ったも同じ。兵力差は曹操7に対して孫権3といったところ。孫権は曹操に降るであろうというのが大勢の見方でもあった。
しかし曹操の再三の勧告を受けても呉は恭順の姿勢を見せず、それどころか劉備の軍師、諸葛孔明を帷幕に招き徹底抗戦の構えを見せているという。ここにきて曹操は計算外の事態に直面してしまった。
天下の情勢を見ても孫権は曹操に降るのが上策なのである。降ったところで身分は保証されるし上手くすれば後の統治をそのまま任せられる公算は高い。曹操はそういうことを認められる人物なのである。翻って抗戦などしても得られるものなど殆ど無い。せいぜい大勢力に抵抗したという自尊心程度。
奇跡的に初手の侵攻を退けたところで天下の趨勢は変わらない。いたずらに戦火の拡大を招くだけで利が何もない。抵抗は愚者の選択なのである。その程度は誰の目にも明らかなのに、賢明と言われる孫権も、そしてあの周瑜も抗戦の旗幟を見せ、降伏を唱える数多の重臣も困惑しているという。いったい呉に何が起きているのか? というのが天下の耳目の関心事と言えた。
そこで召し出されたのが蒋幹だったのである。




