06:ドラゴンと聖獣様
ドラゴンは空を数度旋回し、大きく羽を動かしてどこかへと飛び去って行った。
遥か上空に居るというのに、背に生えた羽を動かす音まで聞こえ、それにより木々が揺れる。
「あれって……、ドラゴン?」
「大きさから見るに森の主だろうな。しかし主まで逃げるなんて、災厄の力はそこまでなのか」
「他のドラゴンが飛び立つ気配はありませんね。他はもう逃げていて、主が最後まで残っていたんでしょうか」
「あ、あの、二人共、いまのドラゴンですよね!? あんなものが、なんで……!」
「そうだな、ドラゴンだ。あの種族は攻撃的なタイプが多いから遭遇しなくて良かった」
「逃げた方角は南ですね。別の大陸に移る気なんでしょう。生態系の問題もあるし、解決したら戻って来てくれると良いんですけど」
「ドラゴン……、なのに……」
ドラゴンを見て驚愕する柚香とは違い、ブラッドとルーファスは淡々と話し合っている。
飛び立った時こそ突風に驚いていたがドラゴンそのものは彼等にとっては別段珍しいものではないようだ。馴染みのある生き物なのかもしれない。
日本どころか元居た世界では考えられない状況に、柚香はくらりと眩暈を覚えた。既に自分は『元居た世界』と考え始めており、それはつまり、自身を『異世界から来た存在』と認めるということだ。
(だけど、そんなことがあるわけない……。でも確かにさっきのはドラゴンで……)
混乱する柚香の胸元で、『クルルニャッ!』と高い声があがった。
次いでもぞもぞと腹部が動き……、
ズボッ!!
と襟から勢い良く頭を出したのはもちろんニャコちゃんである。
三角耳をぴょこんと立て、ようやく外の空気を吸えたと言いたげにフンスと一度鼻を強く鳴らす。今の今まで大人しく服の中で抱きかかえられていたが、ついに痺れを切らしてしまったのだろう。
「あ、」
思わず柚香が声をあげる。
それに気付き、ドラゴンの行方を追うように空を見上げていたブラッドとルーファスが柚香へと視線をやり……。
「……なっ!?」
と、揃えたように驚愕の表情で声をあげた。
まるで、この世界には存在しない生き物を見たかのような顔ではないか。さながら先程ドラゴンを見た柚香のように。
「そ、その生き物は……」
ブラッドが尋ねてくる。信じられないと言いたげな怪訝そうな声色だ。
濃い青色の瞳は柚香の首元を、詳しく言うのなら襟から顔を出しているニャコちゃんをじっと見つめている。
「この子はニャコちゃんって言って、私が飼ってる猫です」
「ニャコ……、まさか!」
柚香が答えればブラッドが息を呑んだ。
だが彼が続く言葉を発するより先に、「ニャコランティウス様!」と声があがった。
ルーファスだ。彼は歓喜の声をあげるとぐいと柚香に近付いてきた。もっとも、詳しく言うのであれば柚香ではなく柚香が抱きかかえているニャコちゃんにだ。
なにせ彼の視線は誰が見ても分かるほどにニャコちゃんに釘付けである。
「ニャコ……え?」
「三角耳にピンと張った髭、ふかふかの毛、愛らしくも神がかった文献通りのお姿。そして『ねこ』という別世界での名称。間違いなくニャコランティウス様!」
「あの、この子はニャコちゃんっていうただの猫ですけど……」
「いえ、このお方は聖獣ニャコランティウス様です!!」
「え、えぇ……?」
ルーファスの熱意に気圧され柚香が後ずさる。……が、ルーファスは後ずさった分だけ詰めてくる。
胸元ではしっかりと手を組んでおり、先程柚香が聖女と知った時よりも興奮しているではないか。
そんなルーファスの熱意に対してニャコちゃんはといえば、ピンクの可愛い鼻でふんふんと周囲を嗅ぎ、そして全員の視線が己に向いていると分かると嬉しそうに『ニャッ』と一度鳴いた。
ニャコちゃんは注目されるのが大好きなのだ。
「あぁぁぁ! 今、今の! 聞きましたか! 文献では聖獣ニャコランティウス様は『ニャァ』または『ニャン』をベースにした鳴き方をするんです! まさに文献通り!なんて神聖なお声……!!」
「あの、確かにニャコちゃんは神がかった可愛さと愛らしい鳴き声ですが、聖獣じゃなくて猫です。私にとっては特別な可愛さですが平凡な猫ですよ」
「その『ねこ』こそがこちらの世界でのニャコランティウス様なんです。唯一にして絶大なニャコランティウス様!」
「えぇっと、そうじゃなくて、だから、あの……」
さすがに『話にならない』とは口にはできないが、それでもこれ以上は話が進みそうにないと柚香はブラッドへと助けを求めた。
彼もまた珍しそうにニャコちゃんを見つめているが、その熱意や言動はルーファスに比べれば明らかに落ち着いて見える。彼ならばたぶん会話が出来るだろう。
そう思い救いを求めれば、彼も気付いたのかニャコちゃんに落としていた視線を柚香へと向けた。
「ルーファスは話にならないだろう」
せっかく柚香が濁した言葉をブラッドがあっさりと口にする。
「聖獣マニアなんだと。大陸中を探しても聖獣に関して右にでるものはいないって言われてたな 」
「そ、そうなんですね……。なるほど凄い熱量」
「聖獣に関して一度話し出すと止まらなくなる」
「その『聖獣』なんですけど、ニャコちゃんは聖獣じゃありません。ただの猫です」
柚香がニャコちゃんを服から出し、改めて抱っこをして見下ろす。
視線を受けたニャコちゃんもまた柚香を見上げ、『ンー』と口を閉じたまま返事をすると嬉しそうに目を瞑った。次いでもぞもぞと動き出すのはじっとしていることに飽きたからだろう。
挙げ句に、巧みな動きでするりと腕から抜け出してしまった。猫は元より体が柔らかく、更には液体にもなるので押さえておくのは至難の業なのだ。
だが遠くへ行く気は無いようで柚香の足元にちょこんと座った。――ちなみにニャコちゃんが地面に降りるのと同時にルーファスもしゃがみこんだが、彼に関してはもうニャコちゃんしか見えていないのだろう――
そうして地面に座ったニャコちゃんは数度ふすふすと周囲を嗅ぎだした。
「ニャコちゃん、どうしたの? 今お話ししてるから大人しくしていてね」
「聖獣を連れているということは、やはりお前が聖女で間違いないだろう」
「ブラッドさんまで……。だからニャコちゃんは聖獣でもニャコランなんとかってものでもないんです。ねぇ、ニャコちゃん」
そうでしょ、と足元に座るニャコちゃんに同意を求めた瞬間、座っていたニャコちゃんがスクッと立ち上がり背後へと向き……、
『シャァァァァ!!!』
という威嚇の声と共に勢いよく炎を吐いた。