55:幸せのキスを
広間を出て中庭へと向かい、一角に設けられているベンチに腰掛ける。
幸い人はおらず周囲は静まっており、二人きりで話をするにはちょうど良いだろう。
柚香はちらと横目でブラッドを窺い、改めてその姿に目を細めた。
なんて格好良いのだろうか。騎士の制服が彼の勇ましさをより引き立てている。
だがその姿が眩しく見えるのはただ見目の良さだけではない。彼が騎士になると決めたということが嬉しく、柚香の視界を眩くさせるのだ。
騎士としての人生を歩むという、これからの未来を考えての決断。責任のある大変な仕事だろうが、それでも輝かしいことだ。
監獄で生きて監獄で死ぬだけと話していたブラッドが自らその決断をしたことが嬉しい。……もっとも究極の二択を迫られたうえでなのだが、これぐらいの荒療治も良いだろう。
「ブラッドはこれから騎士を名乗るのね。私も出来ることを見つけないと」
「柚香も?」
「あのね、さっきブラッドが来る前に話してたんだけど……」
先程、彼が来る前の会話を伝える。
ルーファスが探し出してくれた貴重な文献、それに記されていた聖獣の年の取り方。その話を聞いてこちらの世界で生きていくとはっきりと決めたこと。あの話が殆ど決まりかけていた柚香の人生の背中を押してくれた。
それらを柚香が話せば、ブラッドの表情が次第に和らいでいった。
といっても相変わらず男らしさが強くて険しく、初見の人ならば威圧感を感じかねない顔付きだ。それでも柚香には彼の表情が和らいだと分かる。嬉しそうな表情。目を細め、「そうか」と返してくる低い声は胸に染みこんでくる。
「柚香はこっちの世界で生きていくんだな」
「そうすることにしたの。……それで、」
言いかけ、柚香は気恥ずかしさを覚えてふいと視線を他所へと向けた。
もう迷いはない。
こちらで生きていくと決めた。
(……出来れば、貴方と)
胸の中に想いが湧く。
それを告げようと柚香が顔を上げてブラッドを見上げれば……、
彼は不自然に手を浮かせ、なんとも言えない表情を浮かべていた。
眉間に皺を寄せ、随分ともどかしそうだ。
これは以前にも見た表情である。
「ブラッド、またどうして良いのか分からないの?」
「いや、今回は抱きしめたいとはっきりと分かってる。……分かってはいるが、今が抱きしめて良い時なのかが分からない」
「難儀なものね」
「まったくだ」
手を中途半端に浮かばせ渋い表情ながらに話すブラッドに、柚香は思わず小さく笑ってしまった。
抱きしめたいけれど抱きしめて良いのかが分からない。それを勇ましい騎士の格好をしながら訴えてくるブラッドの姿は、格好良くありつつもどことなく面白い。……そしてなにより愛おしい。
柚香は小さく笑みを浮かべたまま、自ら彼の腕に中に入るようにそっと寄り添った。
それを受けて『今が抱きしめて良い時』と理解したのだろう、ブラッドの腕がそっと柚香を抱きしめてくる。
そうして体を包むと、今度は次第に体に回す腕に力を入れてくるのが分かった。
見た目は男らしく勇ましく、むしろ威圧感すら漂わせているというのに、こちらの反応を窺いつつ徐々に強く抱きしめてくる動作のなんと愛おしい事か。
「この世界で生きるんだな」
「えぇ、ニャコちゃんと一緒に生きるの。……それと、もし貴方が望んでくれるなら」
「俺とも一緒に生きてくれ」
柚香が言い切る前にブラッドが告げてくる。
彼の言葉に柚香の胸が暖かさで満ちていく。なんて幸せなのだろうか。
「もちろん、ブラッドと一緒に生きていくわ」
そっと体を放して真正面から彼の瞳を見つめて返事をすれば、その言葉を聞いたブラッドが嬉しそうに微笑んだ。自然と柚香の表情も和らぐ。
なんて穏やかで胸を焦がす時間だろうか。この甘い空気に心が蕩けていく。
そんな空気を感じつつ、どちらともなく身を寄せ合う。
この流れは……、と柚香は高鳴っていた胸に期待が湧くのを感じ、ゆっくりと目を閉じようとし……。
そして、眉根を寄せてなんとも言えない表情を浮かべたブラッドに、閉じかける寸前だった目をぱちりと開けた。
なんてもどかしげな表情だろうか。先程と同じ顔だ。何を言いたいのかなど今さら問うまでもない。
「ブラッド、今はキスをして良い時よ」
「そ、そうか」
先手を打って柚香が教えれば、ブラッドが少し気恥ずかしそうに返してきた。わざとらしい咳払いは誤魔化しだろうか。
この反応も愛おしい。だがこれには柚香は微笑むだけでは堪えきれず、思わず笑いだしてしまった。
「笑うな」とブラッドが不満そうに訴えてくるが、それがまた笑いを誘う。先程までのもどかしげな表情が一転して不服そうに睨んでくるが、今の彼がどれだけ睨んでも柚香が気圧されるわけがない。
むしろ眼光が鋭く威圧感があればあるほどギャップを感じさせ、柚香の笑みが強まるだけだ。
もっとも、さすがにこれ以上笑っては彼を怒らせてしまうと考え、柚香は小さく息を吐くと己を落ち着かせた。
次いでブラッドを見上げる。彼も場を改める意思を感じ取ったのか、不満そうな表情を次第に落ち着かせた。
「笑っちゃってごめんなさい」
「……泣かれるよりはマシだ。それに、キスはして良いんだろう」
直球すぎるブラッドの言葉に、落ち着きを取り戻しかけていた柚香の胸が再び高鳴る。
先程までは抱きしめて良いのかも分からずにいたのに、かと思えばこの直接的で大胆な発言だ。そのうえ柚香の腕を掴んで己へと引き寄せてくる。
些か強引なのはそれほどキスをしたかったからか、それとも笑われたことへの照れ隠しだろうか。
だがその強引さにも更に胸を高鳴らせ、柚香は彼の青い瞳をじっと見上げた。
そうしてキスを誘うようにゆっくりと目を閉じる。
(見つめ合って、目を閉じる。なんだかニャコちゃんの愛情表現みたい)
そんな事を思い、目を瞑ったままその時を待った。
頬に手が添えられる。何も見えなくなった視界の中で、それでもブラッドが顔を寄せてくるのが分かる。
そうして彼の唇が柚香の唇に触れようとし……、
『ンルルルルル』
という聞きなれた声と共に、柚香の膝にドシンッと何かが乗ってきた。
いや、何かではない。この声と重みは間違いなくニャコちゃんだ。
触れる寸前だった唇を離し柚香がぱちりと目を開ければ、膝の上にはやはりニャコちゃんの姿。柚香が目を開けて自分を見ていると気付くとゴツンと顔に額をぶつけてきた。
「ニャコちゃん、どうしたの」
『ウルルルル、ンー』
ニャコちゃん自身はキスの邪魔をした等という自覚は無いだろう。
柚香を追いかけてきたのか、もしくはたまたま中庭に遊びにきて柚香達を見つけて嬉しくて近付いてきたか。
額をこすりつけてくるニャコちゃんに尋ねても当然だが返事はない。ゴロゴロと喉を鳴らしながらご機嫌で擦り寄ってくるだけだ。
そうしてニャコちゃんはしばらく額を擦り付け、最後に柚香の鼻に自分の鼻を寄せた。
ぺたりと鼻同士が触れる。
これは鼻でキスをしているのだ。小さなニャコちゃんの鼻の感触はくすぐったく、なによりも愛おしい。
一度離れたニャコちゃんに今度は柚香から顔を寄せ、もう一度鼻を触れ合わせる。目の前に迫ったニャコちゃんの顔を見れば嬉しそうに目を閉じている。
「ニャコちゃん、大好きよ。ずっと一緒だからね。」
『ンー』
柚香の言葉に、ニャコちゃんも嬉しそうに返してくれた。
喉を撫でればゴロゴロと振動が伝わり、ニャコちゃんが心地よさそうに香箱座りをして目を閉じる。
そのうえ、柚香の手よりも大きな手がぬっと現れたかと思えばニャコちゃんの頭を撫で始めた。言わずもがなブラッドの手だ。彼の大きな手がニャコちゃんの小さな頭を包むように撫でる。
柚香には喉を撫でられ、ブラッドには頭を撫でられ、ニャコちゃんはご満悦だ。うっとりと目を閉じてこのまま眠りそうな程である。その愛らしさに柚香は堪らず目を細めた。
だが次の瞬間、伸びてきた手が頬に触れてぱちりと目を丸くさせた。
頬に添えられた手が上を向くように促してくる。
それに誘われるように顔を向ければ、眼前にブラッドの青い瞳が迫っており……、
膝の上にはニャコちゃんの暖かさと重み、手にはニャコちゃんのふわふわの感触とゴロゴロという喉の振動。
そして唇には柔らかな感触が……。
柚香は心が満たされるのを感じ、ゆっくりと目を閉じた。
…end…
『異世界でもうちの猫ちゃんは最高です!』
これにて完結となります。最後までお付き合い頂きありがとうございました!
猫が可愛くて猫を愛でる作品を2022年2月22日に、という思いで書き始めたこの作品、いかがでしたでしょうか?
最後までニャコちゃんは猫らしく、そして読んでくださった方の一番可愛いと思う猫を想像してほしくて、柄や長毛短毛などの描写をあえてせずに書いてみました。
本編は完結となりますが、その後のお話やニャコちゃんをお風呂に入れるお話等の短編も書けたらアップしていこうと思います。
その際にはまたお付き合い頂けると嬉しいです。
感想・ブクマ・評価等々ありがとうございました!




