53:こちらの世界でニャコちゃんと
柚香の疑問に対してルーファスはなぜだか得意げに頷き、手元にあった本のページを一枚捲った。
どうやらそこに何か書いてあるらしく視線を落とす。改めて読み直しているのだろうか、銀縁眼鏡の位置を片手で軽く直し、切れ長の瞳で文字を追う姿はいかにも知的な印象を与える。
……王子が座る椅子の肘掛けに座っていなければだが。
もっとも、ルーファスのこの態度を無礼と感じているのは広間の隅に控える重鎮や騎士達だけだ。
彼等は苦虫を噛み潰したような表情をしているが、肘掛けを片方占拠された当人であるヴィートが気にしている様子は一切無いので何も言えないのだろう。むしろヴィートは気にしないどころか一緒になって本を覗き込んでいる。
「確かに文献には過去の聖女達も同じように話していたと記述がありました。それで僕はうっすらとですが覚えがあったんです。でも何か他にも記述があったはず……と思って、戻ってきたから文献を漁ってみたんです」
それで探し当てたのが、今彼の手元にある文献なのだという。
この話に柚香はもちろんリュカも興味深そうにルーファスと彼の手元の本に視線をやった。
本は分厚く表紙にはなにやら難解そうな文字が記されている。遠目からでも、ましてや表紙の文字を読めなくとも重々しい印象を受ける。
そんな本に書かれている、ニャコちゃんについての重大な事実……。
自然と興味は募り、この文献がいかに貴重かを語り出すルーファスがまるでこちらを焦らしているかのように思えてくる。彼はただ単に脱線してしまっているだけなのだが。
だからこそ、話が僅かな区切りを見せた隙を狙って柚香は彼を呼んだ。――そうでもしないと話が進まないと判断したからだ。ヴィートがまるで「ナイスタイミング」とでも言いたげに目配せをしてきた――
「ねぇルーファス、その本がどれだけ貴重なのかは分かったから、肝心の重大な事実っていうのをそろそろ教えてくれない?」
「あ、そうでしたね! その肝心の重要な事実なんですが、柚香様の居た世界とこちらの世界ではニャコ様の年齢の数え方、むしろ年の取り方そのものが変わるんです!」
「年の取り方が変わる?」
「はい。確かにニャコ様は元の世界では『ねこ』ですが、こちらの世界では聖獣です。聖獣は大地から力を得て生きるもの。なので他の動物と違い、人間と同じペースで年を取るんです」
「人間と同じペースで……、それってつまり!」
「えぇ、つまり一年で一歳年を取り、文献によると寿命も人間とおなじ」
「残るわ。こっちの世界に残る。私ニャコちゃんとこっちの世界で生きていく」
「食い気味に決断しましたね」
未練はない、と柚香が言い切れば、ルーファスが手にしていた本をパタンと閉じた。
「決まりですね!」とあっけらかんと嬉しそうに返してくるあたり、大方こうなることを予想していたのだろう。もしかしたら、あの本にはかつての聖女達も同じような決断をしたと書いてあるのかもしれない。
「もちろん柚香様の元居た世界と連絡が取れるように研究は続けます。ご本人を別世界にお送りするより連絡を取るだけの方が簡単はなず。きっとすぐに方法が見つかりますよ」
「拝啓、お父様お母様、柚香はニャコちゃんと共に新たな世界で生きていきます。どうか心配しないでください。……これだと少しかたすぎるかな、やっぱり畏まった文面より自分の気持ちを伝えないと。でもフランク過ぎて冗談だと思われないかしら」
「既に文言を考えていらっしゃる……! な、なるべく早く連絡が取れるようにしますね!」
頑張ります! と気合いを入れ直すルーファスに柚香は頷いて返した。
どのような連絡の取り方になるのか、いつそれが叶うのか、現状まだ目途も立っていない。
理想を言えば実際に顔を合わせて会話をし、更に頻繁にやりとりが出来るのならこれ以上のことは無い。だがさすがにそれは難しいだろうか。
月に一度、いや、半年に一度。なにかの節目に顔を合わせて元気でいるかを確認出来れば有難い。もし顔を合わせることは困難だというのなら手紙のやりとりだけでも構わない。
自分とニャコちゃんは無事だ、安定した生活を送れている。こちらの世界で仲間と共に幸せに暮らせている。そう元居た世界の家族や友人達に伝えられれば良いのだ。
なんにせよ、これでもう柚香の心は完全にこちらの世界で生きていくことに決まった。
元よりこちらの世界にと考え始めていたところに見事な後押しである。こうなっては戻れと言われてもしがみついて拒否をするかもしれない。
「それなら、柚香お姉ちゃんとニャコ様とずっと一緒に居られるんですか!?」
「えぇ、そうよ。あらためてよろしくね、リュカ」
「はい!」
弾んだ声で返事をし、リュカが抱き着いてくる。嬉しそうな表情で瞳を輝かせており、それほどまでに喜んでくれているのかと考えると嬉しくなってくる。
柚香はそんなリュカの頭を優しく撫でながら、次いで広間の扉へと視線をやった。
もちろん、この広間にブラッドの姿が無いからだ。
自分達が呼ばれたのなら彼も呼ばれているのだろうと思っていたが、話の最中にも来る様子はなかった。
こちらの世界に残ると決意した。
だからすぐにでもそのことを伝えたいのに……。
「ねぇヴィート、今日ブラッドは……」
呼んでいないのかと柚香が問おうとするも、言い終わらぬうちにバタンッ!と勢いよく扉が開かれた。
現れたのは今まさに話題に出そうとしていたブラッドだ。
それも、どういうわけかこの国の騎士隊の制服を着ている。
濃紺に銀の飾りが華やかでありつつ威厳を感じさせる制服。それを纏う彼の凛々しい姿に柚香は「素敵」と一瞬で見惚れてしまった。自分の胸が高鳴るのが分かった。
そんな己の鼓動をなんとか律し、こちらに歩み寄ってくるブラッドを改めて見上げる。相変わらず男らしく勇ましい顔付き、それに騎士隊の制服のなんと似合うことか。彼の纏う威圧感を高貴なものに変えている。
「おはようブラッド、その服どうしたの」
「朝起きたらこれしかなかった」
「その服だけ?」
「あぁ、これだけだ」
眉間に皺を寄せて怪訝そうな表情でブラッドが話す。
曰く、朝起きると衣類が下着以外すべて無くなっており、テーブルの上に騎士隊の制服一式だけが残されていたのだという。それも律儀に着方の説明書きを添えて。
「それって……、誰かに盗まれたってこと!?」
「あぁ、盗まれたな。夜明けぐらいに、どこぞの神官様が『ちょっとお邪魔します』と問答無用で俺の部屋に入ってきて、なにか漁って出ていった。その後に一度寝て、起きたら服がこれしか無かった」
「どこぞの神官……」
もしかして……、と柚香がルーファスを見つめる。もしかしても何もない、彼しかいない。
ちなみにルーファスはご満悦に笑っており「後でちゃんと返しますよ」と言ってのけた。これは自白だ。あまりの堂々とした彼の態度にブラッドが眼光鋭く睨みつけも、ルーファスが怯むことはない。
そんなやりとりの中、座っていたヴィートが徐に立ち上がってブラッドの名を呼んだ。




