51:終幕と終わらない文句
目の前に巨大な生き物が倒れている。
体表を覆うのはどの色もまじりあえない奇怪なまだら模様。倒れた体勢でさえ歪と分かる体の造り。
幾重にも折れてひしゃげた羽は力なく伏せられ、太さも左右の本数もちぐはぐな手足は全て力なく垂れている。とりわけおぞましさを漂わせていた赤い瞳は何もない虚空を見つめ、目の色が次第にくすんでいった。
その姿はまさに『死』だ。
柚香の背がふるりと震えた。だがこれは災厄に対しての恐怖ではなく、目の前に突きつけられた『死』と、自分がその死をもたらしたのだという重みによるものだ。
そうせねばならないと分かっていた。何度同じ場面を繰り返しても止める事は無いだろう。
それでも生き物の死は重い。
「……私、」
小さく呟いた声は震えている。
ちなみに、死の重みを実感する柚香に対して、腕の中のニャコちゃんはポッ!ポッ!と火の玉を吐いて災厄の亡骸にぶつけている。
これは死んだことを確認しているのか、もしくはオーバーキルというものか……。
ひとまずやめさせよう、と柚香がニャコちゃんを宥めようとするも、ニャコちゃんの名を呼ぶより先に背後からぐいと強引に引かれ、出かけた声が「きゃっ!」と高い悲鳴に変わった。
ほぼ同時に、ニャコちゃんがするりと腕の中から抜けて地面に降り立つ。
「ブラッド?」
「……柚香」
背後から抱きしめてきたのはブラッドだ。
彼の逞しい腕が自分を絡めとるように抱きしめてくるのを感じ、柚香の胸に安堵が湧く。低い声で名前を呼ばれてようやく『終わった』と実感が湧いた。
「お前ばかり危険な目に合わせた」
「ブラッド、大丈夫よ」
「……すまない。一緒に帰るなんて言って、そのうえお前を置いていって、結局安全な場所で見てるしか出来なかった」
耳元で告げられる謝罪と後悔の言葉に柚香はどうしたものかと考え、僅かに身を捩り、彼の頬に手を添えて自分もと顔を寄せた。
「大丈夫」と子供に言い聞かせるように告げれば、眉根を寄せて険しい顔をしていたブラッドの表情が僅かに和らぐ。目を細める安堵の表情は勇ましい顔の造りでありながらも愛らしさがある。
そうしてしばらく互いに顔を寄せ、柚香はゆっくりと目を閉じた。
もっとも、ブラッドが不思議そうに「柚香?」と尋ねてくるあたり、何を期待しているのか分からないのだろう。柚香はちらと片目だけ開けて彼を見つめた。
「こういう時はキスをするものなのよ」
「そうなのか?」
「……多分、そうね。きっとそうだわ」
有耶無耶に誤魔化しながらも告げれば、ブラッドも答えるように目を細めた。
そうして唇が触れる……、
直前、
「キスをするのは良いんだが、野営地に戻ってからにしてくれないか? 我慢できないならせめて洞窟を出てからにしてくれ」
「リュカくーん、こっちを見てはいけませんよ。ほらニャコ様を見つめましょうねぇ」
「ぼ、僕、なにも見てません……! ニャコ様を見つめてます、ね、ニャコ様!」
『ップァーン』
と、ヴィート達がぞろぞろと横を歩きながら割って入ってきた。真横を通っていながらも露骨に顔を背けているのがわざとらしい。
柚香がはっとして目を開け、唇が触れる直前だったが体ごと離れた。だというのにブラッドは更にぐいと顔を寄せてくるではないか。慌てて彼の口元に手をやって押さえる。
「なんだ、しないのか?」
「しないの! ああいう邪魔が入ったら普通はしないの!」
「……そうなのか。ならしないでおこう」
納得したのか、ブラッドがあっさりと身を引いて腕を放してきた。
柚香は頬が赤くなるのを感じながら、それでも彼に「行きましょう」と声を掛け洞窟の出口へと向かおうとし……。
ふと、足を止めた。
「どうした、行かないのか?」
「……ちょっと待って」
倒れたまま微動だにしない災厄のもとへと近付く。
出口とは逆方向に向かう柚香に気付いたのかヴィート達も足を止め、ブラッドに至っては案じるように着いてきた。
だが彼の心配は杞憂に終わり、柚香が目の前に立っても災厄が動き出す様子はない。開かれた目は既に濁りきり、羽や手足の端も色褪せている。柚香が見つめている間にも色味は薄まっていき、さながら大木が長い年月をかけて枯れていく様を倍速で見ているかのようだ。
そんな災厄の亡骸に手を伸ばし、既に白色になった目元へと触れた。
爪先にカツンと堅い感触が伝わる。死後硬直ではない、これはもはや石化と言えるだろう。もしかしたらこのまま腐ることなく石と化すのかもしれない。
それなら尚更……。
「……おやすみ」
そう告げて、柚香は災厄の目を手で覆った。
撫でるようにそっと一度触れて手を放せば、濁りきっていた災厄の目が閉じられている。だがやはりその感触は堅く、もとから目を閉じたまま石化したかのようだ。
きっともう二度と目を開けることはないのだろう。
百年と言わず、ずっと眠り続けるのだ。
ようやく、と言えるのかもしれない。
心なしかあれほどおぞましかった災厄の顔も穏やかに見える。
その顔を見つめて柚香は小さく息を吐き、くるりと振り返ると待っていたブラッドを見上げた。
「さ、帰りましょう!」
「あぁ、そうだな」
◆◆◆
災厄の亡骸を洞窟に残し、元来た道を戻る。
あれほど重苦しく纏わりついていた空気は払拭されており、周囲も晴れ晴れと明るい。鬱蒼としていた木々も瑞々しさを取り戻しており、深く息を吸えば自然特有の清々しく涼やかな空気が肺に満ちた。
はっきりと変化が分かる。そして分かると同時に、災厄の影響はそれほどまでだったのかと、今さらながらにいかに脅威だったかを実感してしまう。
この道を洞窟へと向けて歩いていた時、どれほど心細かったか。リュカとニャコちゃんと共に、間に合ってくれと願いながら道を急いでいたのだ。あの時の心境を思い出せば胸が痛くなる。
……痛くなると同時に、押さえていた不満が再び舞い戻ってくる。
「私達がどんな思いだったか、どれだけ不安だったか……。ようやく洞窟に辿り着いたと思ったら皆ボロボロで、ブラッドに至っては災厄に追われてるじゃない。心臓が止まるかと思ったわ。ねぇブラッド、聞いてるの?」
「……聞いてる。悪かったと思ってる」
「そうですよ。僕はずっと一緒に居たかったんです……。僕だって覚悟してたんです。子供だけど、ちゃんと僕は僕の役割を知って、この旅に来たんです……。それなのに……。聞いてますか、ヴィートお兄ちゃん」
「うん、聞いてるよ。ごめんな」
『ウルルルル、ウルルニャ。ンーナン、ニャムニャムニャムニャム』
「はい、そうですね。ニャコ様。大変申し訳ございませんでした」
二人と一匹の文句と、三人の謝罪の声が晴れ渡った森の中に続いた。




