05:聖女様の癒やしの力
ブラッドの言う通り、少し歩くと開けた場所に出て、そこにはテントが二つ並んでいた。
テントの前には椅子代わりなのか太めの丸太が二本。その前には枯れ木が組まれて火が灯されており、いかにもキャンプと言った光景だ。
そこには一人の青年が座って火の番をしており、ブラッドが「戻ったぞ」と声を掛けるとパッとこちらを向いた。
「ブラッドさんお疲れさまです。あれ、そちらの女性は?」
青年が話しながらこちらに近付き、柚香に不思議そうな視線を向けてくる。
年は二十代半ばぐらいか。背はブラッドより幾らか低いが、それでも柚香より頭一つ近く高い。紫色の長い髪を一つに縛り、同色の瞳と銀縁眼鏡、細身の体形と合わさってどことなく知的な雰囲気を纏っている。ブラッド同様、彼もまた日本人とは思えない容姿だ。
そんな青年の問いに、柚香は臆しつつも「私は……」と答えた。不安を抑えるため服の中のニャコちゃんをぎゅっと抱きしめる。
「私は、あの……、椎橋柚香と申します」
「これはご丁寧にありがとうございます。僕はルーファス、以後お見知りおきを」
「こ、こちらこそ……」
ルーファスと名乗った青年の挨拶は畏まった文言ではあるが、口調は声色は穏やかだ。笑うと人懐こさすら感じさせる。
聞けば『神官』という職についているという。その仕事がどんなものかは分からないが、響きやイメージから考えるに最初に抱いた知的な印象は見当違いではなさそうだ。
「さっき、狼に襲われかけたところをブラッドさんに助けてもらったんです。私一人でどうしたら良いのか分からなくて、それで連れてきてもらったんです」
手短に一連のことを話せば、ルーファスが不思議そうに首を傾げた。
「一人でこの森に居たんですか? なんでまたこんな奥深くまで」
「……それが、分からないんです」
「分からない?」
柚香の答えを聞き、ルーファスがオウム返しで尋ねてくる。『分からないと言われたこちらの方が分からない』と言いたげだ。
だが柚香自身、自分の置かれている状況を理解出来ていないのだ。第三者に説明など無理である。
どうしたものかと考えていると、ブラッドが口を開いた。
「こいつは……」
彼の視線が一度柚香へと向けられる。
柚香もまた彼を見つめて返した。真剣な表情だ。迷っている様子は無く、彼の中で既に考えは纏まっているのだと分かる。
いったい自分をどう説明するのか……。記憶喪失とでも話すのだろうか。
そう考え、柚香はブラッドを見つめたまま彼の続く言葉を待った。
「こいつは、異世界からきた聖女だ」
彼の言葉に、柚香は目を丸くさせた。
「聖、女……?」
自分の口から間の抜けた声が漏れるのを理解しながら、それでもブラッドを見上げる。
先程彼ははっきりと『聖女』と口にした。今もその言葉を撤回する様子は無く、真剣な表情をしている。ふざけているとは思えず、ましてや柚香やルーファスを騙そうとしているとも思えない。
「ブラッドさん、聖女って……。そんな、私ただ森を迷っていただけですよ」
冗談とは思えない雰囲気ゆえに笑い飛ばすことが出来ず、かといってこんな突拍子もない話を真剣に口にするのも躊躇われる。
それでもと否定するが、ブラッドはいまだ真剣な表情で、それどころか柚香を見つめるとはっきりと「聖女だ」と断言してきた。やはり声色にも表情にも、冗談めいた色は無い。
そのうえ彼は見せつけるように左腕を前に出してきた。
狼に噛まれた腕だ。既に柚香のハンカチは取り払われており、そこには痛々しい傷が……、
無い。
傷跡が無い。
血を拭ったあとが残っているだけだ。
柚香は思わず「えっ!?」と声をあげ、ブラッドと彼の腕を交互に見た。
彼が狼に噛まれてからそう長い時間は経っていない。二十分程度だろうか。傷が浅く血が止まるぐらいなら理解できるが、傷跡が綺麗さっぱりなくなっているのはおかしい。
なんで、と柚香は小さく呟いた。驚きのあまり自分の声が掠れている。
だが誰より驚くべきブラッドは落ち着いた様子だ。改めるように自分の腕へと視線を落とし、そして残っていた血の跡をグイとハンカチで拭った。
露わになった肌に、やはり傷跡はない。
「助ける時に狼に噛まれた。確かに傷があったが、こいつに触れられた瞬間に消えた」
「わ、私が……?」
「あぁ、お前が触った瞬間に痛みが無くなった。おかしいと思って見たらこれだ」
ブラッドが自分の片腕を擦る。まるで『ここに傷跡があった』と訴えるように。
この話に、柚香は言葉を失い目を丸くさせるしかない。混乱や疑問が矢継ぎ早に頭の中に浮かぶ。
わけが分からない。ブラッドの傷が綺麗さっぱり無くなったのも、ましてやその原因が自分にあると言われても、理解など出来るわけがない。
「そんなこと言われても……。私、なにもしてないわ。ただハンカチを貸して触っただけで……。傷を治すことなんて出来ない……」
「以前にルーファスが『聖女には癒しの力がある』と話していた。俺の傷が治ったのはその力のおかげ、つまりお前は聖女ということだ」
ブラッドの説明に、やはり柚香は理解が追い付かず「違う」と掠れた声を出した。
彼の言う『癒しの力』なんて聞いたことがない。
だが彼の腕にあった傷が消えたのは事実。かといってそれをしたのが自分だと言われても、更にはそこから『聖女』だと繋げられても、混乱が混乱を招くだけだ。
じっと見つめてくるブラッドの青い瞳に、柚香は混乱で呼吸が浅くなるのを感じながらもふるふると首を横に振った。
「なにを言ってるんですか、私、聖女なんて知らない。ルーファスさん、彼はいったい何を……」
「聖女様! まさかお会いできるなんて思ってもいませんでした!! あぁ、なんて光栄なんだ!!」
「え、えぇ……!?」
ブラッドでは話にならないとルーファスに助けを求めたつもりだが、彼もまた柚香を聖女と呼んできた。
むしろルーファスの方が熱意が籠っており、紫色の瞳がこれでもかと輝いている。胸元で手を組み、このままでは祈り出しそうなほどだ。とうてい彼も話になるとは思えない。
おかしなことを言い出す二人に柚香はどうして良いのか分からず、いっそ逃げ出すべきかと考え……、
次の瞬間、ゴォッ!! と、周囲全てを薙ぎ払うかのような勢いで吹き抜けた風に煽られた。
「きゃっ……!」
思わず小さく悲鳴をあげる。
不意打ちの突風にバランスを崩しかけるも、寸前でブラッドが腕を掴んで抱き寄せるように支えてくれた。
倒れかけた体が彼の胸元にぶつかる。
「大丈夫か?」
「は、はい。今のは……」
「あれが飛び立ったんだ」
あれ、と話しながらブラッドが空を見上げる。
それにつられ、柚香もまた彼の腕の中で空を見上げ……、そして息を呑んだ。
「なに、あれ……嘘でしょ……」
僅かに開けた木々の隙間、晴天の空が広がるそこを一匹の生き物が飛んでいる。
爬虫類のようでいて、とうてい爬虫類とは思えない大きさ。木々よりも遥か高い場所にいるのに、それでも地上に立つ柚香からもその巨大さが分かる。
爬虫類のような見目でありながら、けして爬虫類ではない。そもそも爬虫類は飛ばないし背に羽なんて生えていない。
悠然と飛ぶその姿は、映画や漫画で幾度と見たことがある。
ドラゴンだ。