44:進む者が残す者
リュカが震える声で応じれば、ヴィートが小さく息を吐いた。
「ありがとう。あと、これを渡しておく」
ヴィートが上着の内ポケットから小さな封筒を取り出した。
真っ白な封筒だ。名前も何も書かれていない。
「獣人達はこの事を知らないから、彼等のもとには戻らずに森を抜けた方が良い。そして森を抜けたら、この封筒の中に書かれている人のもとを訪ねてくれ。きっと力になってくれるはずだ」
「……はい」
「頼んだぞ。……それと」
話しながら、ヴィートが胸元に着けていたブローチを外した。
紫色の宝石が輝く仕立ての良いブローチ。それをリュカに手渡す。
「これは王家の刻印も何もされていないから売っても足がつかないはず。それに良い値になるだろうから、金が必要になったらこれを売ると良い」
ブローチを渡し、最後にリュカの手をぎゅっと握り、ヴィートが彼の小さな手を放す。
それに続いたのはルーファスだ。「僕も」と上着のポケットから手帳を取り出す。
「これは僕が聖獣様について書き留めていた手帳です。ニャコ様に出会ってからは主にニャコ様についてですね。リュカ君にはどうかこの手帳の続きをお願いします。あ、でもこれは売ってもお金にはなりませんよ」
冗談めかしてルーファスが笑う。
もっとも、今のリュカにはそれに対して笑って返す余裕はなく、ブローチと託された手帳を強く抱きしめた。コクリと深く頷けば目元に溜まっていた涙がこぼれる。
そうして自然と全員の視線が向かうのはブラッドだ。もっとも彼は参ったと言いたげに頭を掻いているだけで、何かを託そうとする様子はない。挙げ句、見せつけるようにパッと手を開いた。
「悪いな、リュカ。俺は何もない」
「……ブラッドお兄ちゃん」
「そもそも俺は監獄から何一つ持ち出してないんだ。渡せるようなものはないし……、これは俺が持っていきたいからな」
そう告げて、ブラッドがナイフの柄に触れた。
白いハンカチが巻かれている。以前に柚香が彼の手当のために渡したものだ。それを見つめるブラッドの表情は穏やかで、声に出さずとも愛しんでいるのが分かる。
次いで彼は何も渡せない代わりにとリュカの頭に手を置いてそっと撫でた。大きく節の太い男らしい手だ。だがリュカの頭を撫でる動きは優しく、その動きでリュカの目に溜まった涙がまた溢れる。
それが我慢の限界を招いたのか、リュカはついには俯いてしまい、大粒の涙を零してしゃっくりをあげだした。
そんなリュカの震える肩に、再びヴィートがしっかりと手を置いた。
しゃがむことで目線を合わせ、真っすぐに彼を見据える。
「参ったな、随分と湿っぽくなってしまった。あぁ、リュカ聞いてくれ。俺達は何も死にに行くわけじゃない」
「でも……」
「確かに無茶な話だ。それは俺達も分かっている。だけど俺達は災厄を倒して帰ってくるつもりだ。だからリュカ達もここで俺達が帰ってくるのを待っていてくれ」
ここで一日を待ちながら過ごし、誰も戻ってこなかった場合は明日の朝に荷物を纏めて森の出口を目指して出発する。
つまり諦めるということだ。戻らないという事が何を意味するかを察し、リュカの顔がさっと青ざめる。
「柚香達が起きてきたらきっと取り乱すだろうから、彼女への説明を頼むな」
「……はい」
リュカの返事は弱々しく震えている。
それでも応じる健気さにヴィートは柔らかく微笑み、彼の頬を優しく撫でた。零れる涙を指で拭うが、次から次へと涙が頬を伝っていく。
「戻ってくるつもりだからお別れは言わない。留守を頼むよ」
「はい……」
コクリと深くリュカが頷けば、続いてルーファスがリュカの前にしゃがみこんだ。「行ってきますね」と告げて震えるリュカの小さな体を抱きしめる。
最後にブラッドが再びリュカの頭を撫でた。「柚香達を頼む」という彼の言葉に、リュカはもう声を出すことが出来ず、ただしきりに頷いて返す。
どうしたって別れの空気が漂う中、ヴィートが「さて」と話題を変えるようにしてブラッドとルーファスへと向き直った。
「二人共、ここに残っても良いんだぞ」
「……どういう意味だ?」
ヴィートの突然の提案に眉根を寄せたのはブラッドである。
だがヴィートはさして気にする様子もなく話を続けた。
「無理に着いてくる必要はない。リュカ達と一緒にここで残って待っていてくれるのも俺は有難いと思っている」
「なにが言いたい」
「もちろん災厄を倒して戻ってきた際には共に戦った事にする。悪い話じゃないだろ」
「興味ないな。それよりこんな所で無駄話してる暇は無いだろ。……柚香達が起きる」
ブラッドが出発を急かす。
柚香の名前を口にしようとした時の一瞬の間に、察したヴィートが僅かに目を細めた。
「ブラッド、残っていいんだぞ。……残って柚香と一緒に」
「それ以上言うな」
「……そうか」
ブラッドの覚悟を感じ取り、辛そうな色を隠し切れずにいたヴィートが深く息を吐いた。
次いで彼の視線が向くのはルーファスだ。もっともルーファスはヴィートに言われるより先に、あっさりと「僕は一緒に行きますよ」と先手を打つように宣言した。
「『本気で行くのか?』『やめにしても良いんだぞ』『今なら戻れる』……、今まで何度も言われ続けて、もう聞きあきましたよ。そのたびに言ってますけど、ヴィート様にお声を掛けた時から僕の意思は変わりません。僕はヴィート様と災厄を倒して、神官であり英雄になるんです」
「……お前は凄いな。それなら、行こうか」
ヴィートが頷き、ゆっくりと道の先へと視線をやった。
まだ薄暗い夜明けの空、それも密集する木々の中で見通しは悪い。視界の先には草木が生い茂っており、更には災厄の住処が近いだけあって空気も淀んでいる。数メートル先すらも朧気で碌に見えない。
だがヴィートの目はしっかりと目的地を見据えている。ここからでは見えない、だが確かにある、災厄の住処。そしてそこに居る災厄を……。
そうして、三人は誰からともなくゆっくりと歩き出した。




