42:決戦前夜に……
火の音だけが静かに続く中、強く抱きしめられたまま静かな時間を過ごす。
高鳴っていた鼓動も次第に緩やかになり、その代わりに蕩けるような心地良さが胸に満ちていく。
だがそんな時間も長くは続かず、抱きしめてくるブラッドの腕の力がゆっくりと緩んでいくことに気付き、柚香はこの時間が終わりなのだと察した。もう少しと願いながら、それでも、もう遅い時間なのだからと己を律する。
それと同時に、この時間の終わりに自分の気持ちを伝えようと決意をした。
「何をすべきか分からない」と迷いながらも訴えてくれたブラッドに、自分も気持ちを返さなくては。
「ブラッド、私ね……」
貴方のことが。
と、そう告げようとした柚香はまたもや言葉を止めた。
ブラッドの真剣でいて熱意のこもった瞳を見たからだ。
射抜かんばかりに鋭く、熱を感じそうなほどに真剣で、そしてどことなくもどかしげでもある。
瞳も、表情も、ゆっくりと腕を放してもそれでも柚香の腕を掴んでくる彼の大きな手も、まだ終わりではないと訴えてくる。
「ブラッド……」
「柚香の言うとおり抱きしめた。……だけど、それでも苦しい、まだ足りない」
分からないながらも、それでもその先を。低い声が乞うように訴えてくる。
より熱をもった彼の声に、柚香は自分の思考が溶けるのを感じた。
小さく息をのみ「それなら」と細い声で話しかける。
「そういう時は……、キスをするのよ」
「キス?」
「……そう、キス。キスって知ってる?」
「馬鹿にするな。それぐらいは監獄育ちでも知ってる」
「何をしていいのか分からなかったくせに」
ブラッドの言葉に反論する。だがその声は随分と上擦っており、自分の声なのかと疑ってしまうほどに熱っぽい。
この状況に浮かされているのだ。そんな場合ではないと分かっていても胸に灯る熱の心地良さに抗えない
災厄の住処はもう目の前で、明日には災厄と対峙する。誇張でもなくまさに命を賭けた戦いだ。
それなのに今こんな会話を交わしているなんて……。
(私、こんな場面でキスをするタイプだったんだ……)
まさか自分にそんな一面があるなんて、そう考えながら、柚香はゆっくりと目を瞑った。
自分の腕を掴むブラッドの手に僅かに力が入ったのが伝わる。それと同時に彼の体が、顔が、近付いてくるのが目を瞑った視界でも感覚で分かった。
緊張で体が震えそうになる。「そういう時はキスをするよ」と彼に話しはしたものの、柚香だって異性とのキスは初めてなのだ。どんな感覚がするのかしら……、とふと疑問を抱いた瞬間、まるで答えを示すかのように唇が塞がれた。
ほんの数秒。
それでもその数秒は、火の音も、風の音も葉擦れの音も、なにもかもが消えた気がした。
重なっていた唇がゆっくりと離れていく。
放すまいと腕を掴んでいたブラッドの手もそれと一緒に力を弱め、柚香はそっと目を開けた。
青い瞳が自分を見つめてくる。先程までと同じ熱をもち、それでいて細められた目には嬉しそうな色合いもある。
「……落ち着いた?」
恥ずかしさから茶化すような言葉が口から出てしまう。
それに対してブラッドは細めていた目を僅かに丸くさせ、だが茶化されたと理解するや再び細めた。今度はどこか皮肉気味で「言ったな」と言いたげな目だ。
「あぁ、おかげさまで」
「それなら良かった。……私、もうそろそろ寝ようかな」
恥ずかしさは刻一刻と募っていく。これ以上は耐えきれないと、柚香はこの話どころかこの場そのものを終わりにしてしまおうと立ち上がった。
明日のために寝ておかないと。ニャコちゃんももう眠いだろうし。そろそろ交代でしょう? と、言い訳が次から次へと口から出てくる。それほど恥ずかしさで必死なのだ。
そうして最後に「おやすみ」と告げて立ち去ろうとし、だがその直前「柚香」と名前を呼ばれた。
振り返れば、ブラッドがじっとこちらを見つめている。
「一緒に帰ろう」
彼の言葉に、穏やかな表情に、柚香の胸に愛おしさが湧き、その思いのままに頷いて返した。
テントに戻ってしばらくすると、『ウルルルル』と鳴きながらニャコちゃんがテントへと入ってきた。
そのままいそいそと寝袋へと入り込み、柚香が続くのを待つ。
だが柚香が隣に横になると何かに気付いたようで、すんすんと体のあちこちを嗅ぎだした。
体に残る外の香りが気になるのか。
それとも、彼の香りが移っていたのか……。
そう考えると頬が赤くなるのを感じ、柚香は慌ててニャコちゃんの頭を撫でた。
柚香を嗅いでいたニャコちゃんも撫でられると心地よさそうに目を閉じ、体を撫でれば溶けるように伸びていく。このまま撫で続ければすぐに寝るだろう。
「ニャコちゃん、明日は忙しくなるだろうからもう寝よう」
既に眠たそうなニャコちゃんに話しかけて腕を差し出す。ぽすんとニャコちゃんの頭が腕に乗れば、ごろごろと喉の音が耳の真横から聞こえてきた。
喉の音と息遣い。呼吸にあわせてゆっくりと上下する体。触れれば柔らかくて暖かい。
ニャコちゃんの小さな体すべてが命を訴えてくる。
(何があっても私がニャコちゃんを守らなきゃ。皆で帰って、それで……)
「ねぇニャコちゃん、私がこっちの世界に残っても一緒に居てくれる?」
そう尋ねるも、既にニャコちゃんは夢の中で返答はない。
だが心地よさそうに閉じられた目が、笑っているように見えるふっくらとしたひげ袋が、聞こえてくる喉の音が、まるで「もちろん」と答えてくれているようで、柚香はニャコちゃんの額にキスをして自分もまた眠りについた。
◆◆◆
翌朝、ようやく日が登り始め薄っすらと周囲が明るみだす早い時間。
柚香は小さく聞こえてくる声に眠っていた意識を取り戻した。
ニャコちゃんの鼾や寝言ではない。まるで声を殺しながら静かに涙するような、聞いているだけで切なくなるか細い声……。
「ん……、なに?」
微睡む意識ながらに寝袋から出る。
気付けば隣で眠っていたニャコちゃんの姿がない。「ニャコちゃん?」と声を掛けても返事はなく、荷物の影から『ウルルル』と鳴きながら出てくることもない。先に起きてテントを出たなら一度柚香を起こすはずなのに。
それが妙に不安を掻き立てる。以前ならば「またルーファスを起こして朝ご飯でも食べてるのかしら」とでも思っただろうが、今朝に限ってはなぜか違うと分かる。
「ニャコちゃん? どこに行ったの?」
周囲を伺いながら声をかけ、手早く衣類を着替えてテントから出る。
そうして焚き火へと視線をやり……、
そこにポツンと座るリュカに、彼に抱きしめられたニャコちゃんに、
そして「……柚香お姉ちゃん」とか細く呼んでくるリュカの声と、涙で濡れた彼の頬に。
柚香は、自分達が置いていかれた事を理解した。




