04:傷跡とハンカチ
青年はブラッドと名乗った。
馴染みのない名前の響きに柚香がたどたどしく呼べば、彼もまた慣れぬ様子で柚香の名前を口にする。
「シイバシユズカ……、変わった名前だな」とブラッドに言われたが、柚香だって同じ気持ちだ。
「それで、どうしてこの森に居るのか何も分からないんだな」
「はい……。気付いたらここに居たんです。仕事帰りだったから森に居るわけがないのに……」
「ニホンと言ったか。そんな名前の国はこの大陸はおろか他所の大陸にも存在しないはずだ」
はっきりと断言し、ブラッドがしばし考え込む。
そんな彼と並んで歩きながら、柚香は「もしかして」という考えを抱いていた。
ブラッドが言うには、現在地は大陸の北端にある森。その森のちょうど中間部にあたり、最寄りの村からも歩いて数日の位置にあたるという。
説明されたものの、聞いたことのない単語だらけで理解が追い付かない。国名も大陸名も地名も、一つ一つに疑問符が飛んで一つとして覚えられる気がしないのだ。
「もしかして……、でもそんなこと……」
まさか、という考えを抱きながらも、柚香は一つの考えに至っていた。
(ここは、私が居た世界じゃない……?)
平時であれば、そんな馬鹿なと笑い飛ばしただろう。
いや、今でも心のどこかで「これは盛大なドッキリなのかもしれない」という考えはある。ブラッドはもちろん先程の狼も所謂『仕込み』で、そこかしこにカメラが仕掛けられていて、柚香の動揺ぶりを世間に流しているのかもしれない。
自分はそのターゲットにされたのでは?
だが、ただの一般人にそこまでの盛大な仕掛けをするだろうか。
浮かんだ考えがすぐさま己に寄って否定される。
なにより、今が『ドッキリ』等というものとは別次元の、紛れもなく異常な状況だと感じさせるのが、服の中にいるニャコちゃんだ。
仮にこれが自分を騙すための仕込みだったとしたら、森の中にニャコちゃんを放したりはしないだろう。一般人の家に入り込んで愛猫を連れ出して森に野放しなど、そんなことをすれば大問題だ。
つまり、これは誰かが仕組んだことではなく……。
「……、おい、大丈夫か?」
「えっ……」
呼ばれ、考え込んでいた柚香ははっと我に返った。
ブラッドが顔を覗き込んでくる。濃い青色の瞳にじっと見つめられ、柚香はようやく自分が会話の最中に足を止めて考え込んでいた事に気付いた。
どうやら彼は突然立ち止まった柚香を案じてくれたようで、「どこか痛いのか?」と尋ねてきた。
「ごめんなさい。私、ちょっと考え込んじゃって……」
「そうか。だが野営地まではあと少しだ、考え込むのはそこに着いてからにしてくれ」
話しながらブラッドが再び歩き出す。
柚香は小さく溜息を吐き、再び彼と共に歩き出そうとし……、ふと、彼の左腕に血の筋が垂れていることに気付いて息を呑んだ。
さっき狼に襲われた時の怪我だ。彼は気にする素振りを見せないが、考えてみれば狼に噛みつかれて軽傷なわけがない。
「ブラッドさん、血が……!」
「別に気にするな。牙は避けたから傷も深くはない。放っておけば直ぐに血も止まる」
慌てる柚香を他所に、ブラッドは相変わらず淡々としている。これではどちらが怪我をしているのか分からなくなりそうだ。
かといって柚香もはいそうですかで済ませるわけがない。
道具も何もなく手当こそ出来ないが、せめてハンカチでもあれば血を押さえられるかもしれない。そう考えて片手で服のポケットを探り、目当てのハンカチを取り出した。
習慣で出掛ける際にはハンカチをポケットに入れるようにしていた自分を褒めたい。日本に戻っても続けよう。
「これ使ってください」
「良い布だろ、汚れるぞ」
「そんな、布がどうのなんて言ってられません。これで押さえれば少しくらいは……。見せてください」
早く、と柚香が急かせば、ブラッドが渋々と言った様子で腕を出してきた。
そこにある傷跡を見て柚香は一瞬眉根を寄せてしまう。ブラッドはたいしたことないと話していたが、狼の歯のあとが分かるように皮膚が裂けて血が溢れている。牙を避けたと話してこれなのだから、仮に牙に噛みつかれていたどうなっていたか……。もしも柚香があのまま噛まれていたら、きっと怪我どころではなかっただろう。
目の前の傷跡、そしてもしもの想像に、柚香の背にぞわりと寒気が走った。
だが自分を助けるために負ってくれた怪我だ。目を背けてはいけないと己に言い聞かせ、ブラッドにハンカチを渡した。
ちなみに片手は空けたがもう片方は服の中のニャコちゃんを抱っこしたままだ。――ニャコちゃんは服の中に入れるととりわけ大人しくなり、たまにそのまま眠ったりもする。今も静かなあたり眠っている可能性は高い――
「野営地に行けば手当は出来るんですか?」
「あぁ、道具はあったはずだ」
「それなら着くまでこれで押さえていてください。無いよりはあったほうが良いだろうから」
「……そこまで言うなら借りるぞ」
ブラッドがハンカチで傷跡を拭えば、白いハンカチに血の赤が染まる。
ハンカチで押さえることで傷跡は視界に入らなくなったが、代わりに赤く染まった布が痛々しさを感じさせる。
「痛い、ですか?」
「そりゃな。だがこれぐらいの怪我どうという事はない」
「……守ってくれてありがとうございます」
改めて柚香は彼にお礼を言い、そして傷を押さえるハンカチに触れた。
布越しとはいえ傷に触れるなど普段ならばしなかったはずだ。だが何故か無意識にそうしてしまった。引かれるように、そうすべきだからしたかのように、傷跡を覆うハンカチに手を添え……、
そして次の瞬間、はっとして慌てて手を引いた。
「ごめんなさい! 痛くなかったですか!?」
「いや、平気だ」
「良かった……。それじゃ、行きましょう」
ブラッドの反応を見るに、柚香が触れても痛みはなかったようだ。苦痛を隠している様子はない。
それに安堵して柚香は再び歩き出そうとし……、立ち止まったままのブラッドに疑問を感じて「どうしました?」と尋ねた。
彼は自分の腕をじっと見つめている。言わずもがな、狼に噛まれ、そして柚香のハンカチで押さえている箇所だ。
「もしかして、やっぱり痛かったんですか!? ごめんなさい、私なんで触っちゃったんだろう……!」
「待て、落ち着け。痛みはない。……痛みは、本当に無い」
「大丈夫なんですか?」
柚香が首を傾げて尋ねる。
それに対し、ブラッドは僅かに考えを巡らせ、そして「行くぞ」とあっさりと歩き出してしまった。