38:最後の夜を
森の奥へと進めば空気はより重くなり、周囲の雰囲気も変わっていく。
まだ日が出ている時間帯のはずなのに暗く、陰鬱とした空気が纏わりつく。
以前にルーファスが『過去の記録では旅の途中で仲違いする者達も居たらしい』と話していたが、きっとこの空気に当てられ、不快感が募り、それが苛立ちに変わり仲間内で攻撃しあっていたのだろう。
だが今の柚香の胸中は落ち着いていた。――あの後しばらく顔が熱く鼓動は早まっていたが、それは別物である――
ニャコちゃんのおかげだと感謝を告げれば、隣を歩いていたニャコちゃんが『ウルルニャッ』と一鳴きした。
「今日はここで休もう」
そうヴィートが足を止めて告げてきたのはニャコちゃんの返事を聞いてしばらく。
場所は狭いが多少は開けており、地面の草も足首程度の高さしかない。不格好にはなるがテントを張ることは出来るだろう。
次いで彼はふと遠くを見つめ、翡翠色の目を細めた。
「……これが最後の休憩になるだろうから、ゆっくり休もう」
「ヴィートお兄ちゃん……」
「リュカ、ルーファスと一緒に獣よけを仕掛けてくれ」
話すヴィートの声はどことなく覇気がなく、感化されたのかリュカも不安そうだ。
だがヴィートはそれでも冷静を取り繕おうとし、ブラッドには周辺の安全確認を、そして柚香にはテントを張るのを手伝ってくれと告げてすぐさま作業に入ってしまった。
そんな彼の姿が痛々しく、柚香は窺うように彼の名を呼んだ。
「ヴィート、これは『行きの最後の休憩』でしょ」
確かにこれは最後の休憩だ。
だが往路の最後の休憩である。明日には帰路の休憩を取るのだ。
そう柚香が話せば、ヴィートは僅かに目を見開き、次いでふっと軽く息を吐くと共に表情を和らげた。
「そうだな。行きの、最後の休憩だ」
「次にテントを張るのは帰りね」
「そう考えると、まだこのテントには頑張ってもらわないとな。だいぶくたびれてきてるから帰りは直しながら使った方が良いかもしれない。聖女の力でテントも直せると良いんだが、それが出来たら聖女あらため何でも屋だな」
ヴィートが冗談交じりに告げて笑った。
彼らしい笑みだ。爽やかで、そしてあどけない悪戯っぽさもある。
彼の表情が普段通りのものに戻ったのを見て、柚香は安堵と共に笑って返した。
次いで視線を向けたのは、焚火の準備をするルーファスとリュカ。
そして組んだ細枝の前にちょこんと座るのはニャコちゃんだ。準備が出来たとルーファスに声を掛けられると『ンナム』と返事をし、次の瞬間にはボッ!と火を吹いた。
「さすがニャコ様、見事な炎です! ニャコ様の炎は普通に火をつけるよりも激しく燃えますね!」
「ニャコ様の火は暖かくて、心までポカポカしてきます」
「きっとニャコ様の火はただ体を温めるだけでなく、心の中まで温めてくれるんですね。さすがニャコ様! 帰ったらニャコ様のご活躍を文献に纏めないと。協力してくださいね、リュカ君!」
「はい! 僕もニャコ様のことをいっぱい書きます!」
ニャコちゃんが灯した炎を前にして、ルーファスとリュカが盛り上がる。
褒められていると分かっているのだろう、ニャコちゃんはリュカの手にごつんごつんと勢いよく頭をぶつけて撫でてくれと訴えている。
普段通りのやりとりだ。
これには柚香も笑みを零し、ヴィートも楽しそうに笑っている。
見回りから戻ってきたブラッドも賑やかな光景に苦笑を浮かべ、その表情もまた柔らかい。
そんな普段通りのやりとりを続け、夕食を取り、他愛もない会話を交わす。
日は落ちすっかりと暗くなり、森の鬱蒼とした雰囲気がより濃くなる。災厄の目と鼻の先のこの場所には月の光すらも届かず、明かりはランタンと焚火だけだ。
……いや、明かりはランタンと焚火と、光るニャコちゃんである。そしてニャコちゃんで十分だ。
「ニャコちゃん、今夜はいつもより光量が強いのね」
『ウルルルルン』
「そうね。今夜は暗いからニャコちゃんが光ってくれると助かるわ。……あ、でも七色はやめて、目がちかちかする!」
褒められた嬉しさから七色に光り出すゲーミングニャコちゃんを宥める。
落ち着いたのかニャコちゃんはオレンジ色の光に戻り、ルーファスが手帳を取り出して書き始めるといそいそと彼の近くへと寄っていった。
「ニャコ様ありがとうございます。この手帳にはニャコ様の事をいっぱい書いているんですよ。貴重な資料です。これをニャコ様の明かりを頼りに書いていると知ったら、きっと後世の神官達は羨ましがりますね」
『ンニャ』
「あ、でも七色は僕もやめて頂きたいです!」
またも七色に光り出すニャコちゃんを今度はルーファスが宥める。
そんな中、ふわ、と小さな欠伸が聞こえた。
リュカだ。眠そうに目を瞬かせ、それだけでは足りないと目を擦りだした。そんな彼の肩をルーファスがそっと擦る。
「リュカ君、もう休みましょうか」
「……はい。おやすみなさい、柚香お姉ちゃん、ニャコ様」
近付いてきたニャコちゃんを一度ぎゅっと抱きしめ、リュカが立ち上がる。
覚束ない足取りだ。ルーファスがそんなリュカを支え、「ではお先に」と軽く頭を下げて片方のテントへと向かう。二人の姿はまるで兄弟で微笑ましい。
……だが去り際、ルーファスはヴィートとブラッドへと視線を向けると「お願いしますね」と一声かけていった。
火の番の事だろうか。
そう疑問を抱きながらルーファスとリュカを見送れば、彼等がテントに入ったのとほぼ同時にヴィートが呼んできた。
「柚香、まだ少し話をしたいんだが」
「話? 別に大丈夫だけど」
「……それなら、この旅の真相について聞いてほしい」
彼の言葉に、柚香は小さく息を呑んだ。
ヴィートの翡翠色の瞳が今は炎の明かりを受けて少し赤味を帯びて見える。嘘偽りなく話すと決めた、そんな決意が瞳から窺える。なんて真摯で、そして重い視線なのだろうか。
ようやくだ、ついにきたのだ。
全てを知る時が。
この旅の真相が明かされる。
そう考えると柚香の中に緊張が生まれ、心臓が縮こまるような焦燥感さえ覚えた。
無意識に胸元に手をやり服を掴む。それでも胸に湧く不安は押さえきれず、今まで何度も考えてはそのたびに「考えないようにしよう」と自分に言い聞かせて掻き消していた想像が蘇る。
嫌な想像ばかり繰り返していた。考えては掻き消し、それより更に嫌なことを想像し……。
だがそれも今夜で終わりだ。
「分かった。……聞くから、全て話して」
自分の声が上擦っているのが分かる。
「柚香」と名前を呼んでくるのはブラッドだ。彼はこちらを気遣うような、それでいて真相を打ち明けることが怖いと言いたげな表情をしている。男らしく勇ましい彼らしからぬ表情だ。
胸中が複雑なのは柚香だけではない。話をすると決意をしたヴィートも、その場に付き合うと決めたブラッドだって複雑な感情を抱えている。もちろん、彼等に話を託すと決めたルーファスだって、今頃テントの中で落ち着かずにいるだろう。
みんな不安なのだ。
だからといって先延ばしには出来ない。
「大丈夫。私の意思は変わらない。それに、ようやく話してくれるって少し嬉しく思ってるの」
「柚香……。ありがとう」
柚香の言葉を聞き、ヴィートの声に落ち着きの色が戻る。
そうして彼は一度ブラッドと顔を見合わせると、「この旅は……」と話し出した。




