37:聖獣様よりも……
目の前でルーファスがニャコちゃんのお腹に顔を埋めて吸っている。
今までニャコちゃんを吸う事はあっても第三者が猫を吸っているのを見た事が無かったが、なかなかシュールな光景ではないか。
なるほど、かつてこの世界に来た聖女が『人目につかない場所で行う』と説明した気持ちが分かる。
(まぁどれだけシュールでも吸うのをやめる気は無いけど)
そんなことを柚香が考えていると、ニャコちゃんを吸っていたルーファスがゆっくりと顔をあげた。
「……ふはっ」
と、一息吐く。
その瞳は先程以上に輝いており、まさに恍惚という表現がよく似合う。感動しているのは一目瞭然だ。
興味があったのだろうヴィートが彼に近付き「どうだった?」と尋ね、リュカもまた「ニャコ様のこと吸えましたか?」と感想を求めている。
彼等の問いかけに対して、ニャコちゃんを吸ったばかりのルーファスはと言えば、
「……至高」
そう一言ポツリと呟くだけだ。
表情はいまだ恍惚としており、きっと感動のあまり言葉が出てこないのだろう。
(分かる)
と柚香は思わず心の中で呟いて深く頷いた。
「ルーファスお兄ちゃん、次、僕! 僕もニャコ様を吸ってみたいです! ニャコ様を抱っこするの変わってください!」
「あのルーファスがたった一言だと……!? それほど凄いのか。何事も経験というし、俺も一度吸ってみるか」
ルーファスの反応を見てより強く興味を抱いたようで、リュカどころかヴィートまでもが続こうとしている。
ニャコちゃんは相変わらずご満悦な表情をしており、リュカからルーファスに手渡されても動じていない。ふかふかのお腹を晒して歓迎ムードで、リュカがそっと顔を埋めてもそれを見守っている。
なんと懐の広い猫なのだろう。柔らかさ、可愛らしさ、更にこの包容力。確かに聖獣と呼ばれるに値する。
「ニャコちゃんも歓迎してるし、やっぱりブラッドもニャコちゃんを吸ってみたら?」
ねぇ、と柚香が横を向いて同意を求めれば、一連のやりとりを黙って眺めていたブラッドが眉根を寄せた。
「どうしてそう俺に吸わせようとするんだ」
「だって、災厄のせいで空気が重いでしょ。でもニャコちゃんを吸ったら不安や不快感が消えて、気分が晴れやかになったの。だから貴方もニャコちゃんを吸った方が良いかなと思って」
「いや、俺は十分だ。特に気分も悪くない」
「ニャコちゃんを撫でてもいないのに?」
「あぁ、俺は……」
言いかけ、ブラッドが言葉を止めた。
目の前をじっと見つめる。つられて柚香も視線をやれば、今はヴィートがニャコちゃんのお腹に顔を埋めている。
ヴィートは見目がよく、爽やかなまさに美丈夫と言った容姿をしている。そしてニャコちゃんを抱っこするルーファスも負けず劣らず整った見目をしており、並べば麗しい主従だ。
そんな二人が猫を吸わせて吸ってとしている様はシュールを通り越して滑稽の域である。……そもそも、猫を吸う話をしだしたのは柚香自身なのだが。
「ヴィートもルーファスも、こっちは見てないな」
「そうね、リュカも交えてニャコちゃんを吸う感想を話してるわ。それなら私も混ざらなきゃ」
ニャコちゃん吸いについての語り合いならば混ざらないわけにはいかない。むしろ自分抜きでいったい何を語れるというのか。
そう考えて柚香が彼等のもとへと向かおうと歩き出すも、ぐいと腕を掴まれた。
もちろんブラッドだ。彼は柚香を引き留めるように腕を掴んでいるが、かといって何をするわけでもない。柚香が「どうしたの?」と尋ねてもむぐと口ごもるだけだ。
何か言いたげで、それでいて何も言わない。
適した言葉が浮かばないのかもどかしそうな表情だ。
らしくないその表情に、柚香はどうしたのかと首を傾げて彼を見上げ……、そしてはたと思いついて「あっ!」と声をあげた。
「さてはニャコちゃんを吸ってみたくなったのね!」
「……だから違う」
「そんなにむきになって隠さないで。吸いたくなったけど今更言い出せないんでしょ。良いわ、私が後でニャコちゃんを抱っこするから、その時にヴィートとルーファスに見られないように吸って」
「だから俺は別に吸いたくないって言ってるだろ。……俺は」
言いかけ、ブラッドが言葉を詰まらせる。
彼の視線がふいと他所に向けられた。どう話すべきかを考えているのだろうか。
そうして僅かの間なにやら言い淀み、ヴィート達がニャコちゃんについての語り合いに夢中になっていることを改めて確認すると、ようやく口を開いた。
「俺は……、お前が居るから平気だ」
「え……?」
「お前が居てくれるから、別に空気も重く感じないし不快感もない」
だから平気だというブラッドの話に、柚香は数度瞬きを繰り返し……、「そうなの」と上擦った声で答えた。
顔に熱がこもっていく。きっと自分の頬は赤くなっているだろう。
だというのに、ブラッドは告げたことで満足したのか「行くぞ」とさっさと歩き出してしまった。
ニャコちゃんの感想を語り合っていたヴィート達も、ブラッドに促されると再び歩き出す。
ルーファスに抱っこされていたニャコちゃんだけは『ンニャッ』と高い声をあげて彼の腕からぴょんと飛び降り、一行の進みに逆らうようにして柚香のもとへと近付いてきた。
ひとしきり吸わせたことを誇っているのか、それとも歩き出さない柚香を促しているのか。
ウルウルと鳴きながら足に纏わりつき、挙げ句に後ろ足で立って柚香の手を前足でちょいちょいと触ってきた。
『ウルルル』
「そ、そうね、ニャコちゃん。歩かなきゃ……」
『ンプ』
「顔が赤い? 様子がおかしい? ……全部ブラッドのせいよ」
自分の頬を両手で押さえ、柚香がニャコちゃんの声に返す。
ニャコちゃんのおかげで不快感や空気の重さは払拭された。……だけど今度は心臓が早鐘を打って落ち着かない。顔が熱い。これはこれで胸が苦しい。
『ンー、ンルル』
左右の足の間を縫うようにして纏わりついて歩くニャコちゃんを抱っこして、柚香は深く息を吸って己を落ち着かせると、ブラッド達を追うように歩き出した。




