36:聖獣の力を得るための神聖な行為
「ヴィートお兄ちゃんもルーファスお兄ちゃんも、ニャコ様を撫でてみてください」
「ニャコ様を?」
「はい。ニャコ様、ふかふかしていて暖かくて、触っていると心まで温かくなるんですよ」
だからと話すリュカに、ヴィートとルーファスが再び顔を見合わせた。もちろん今度はニヤニヤと意地の悪い笑みではなく穏やかな表情だ。
そうして順にニャコちゃんの頭を撫でる。ニャコちゃんもご満悦で彼等の手に自ら鼻先を押し付けていた。
「なるほど、確かにニャコ様は柔らかくて触れていると気分が晴れてくるな」
「さすがニャコ様ですね。この少しひんやりとした鼻の感触も堪りません。柔らかな毛で覆われた体、なのに鼻はひんやりしっとりとしている。なんて神秘的なんでしょう。それに文献に数多く記されていた肉球の素晴らしさといったら!」
「僕、ニャコ様のこのゴロゴロっていう音を聞いてると落ち着いてきます。ニャコ様のお声も好きですが、このゴロゴロも好きです」
ヴィート達がニャコちゃんについて語り合う。
自分の事を皆が注目し更に褒めているのを察し、ニャコちゃんは更にご機嫌だ。ルーファスとリュカに肉球を撫でられても手を引くことなく、それどころかきゅっと手を丸くめて彼等の指を掴んだ。
災厄の住処は目前で、進むごとに空気が重くなっていく。
それでも賑やかなこのやりとりに柚香は安堵し、隣に立っていたブラッドを見上げた。
彼もまた柔らかな表情で目の前の光景を見つめている。色濃い瞳を細め、微かにだが口角を上げている。不器用な彼が見せる安堵の表情だ。
「ブラッドも、ニャコちゃんを撫でてきたら?」
「俺も?」
「そうよ。なんていったってニャコちゃんの癒し効果は抜群だもの。今はご機嫌だからきっと吸っても文句を言わないわよ」
「……吸う? 聖獣を吸うってどういうことだ?」
怪訝な表情でブラッドが尋ねてくる。
それに対して、柚香よりも先にルーファスが答えた。
「聖獣様を吸う! 以前に読んだ文献に書いてありました!」
「そんなことまで文献に!?」
「はい。確か、聖獣様の柔らかな体毛に顔を深く埋め、大きく呼吸をするとありました。それを行うことで聖獣様の体に満ちているエネルギーを吸収できるそうです」
「うっ、改めて解説されるとなんとも言えない気分になる……!」
「そういえば、聖獣様を吸うのは神聖な行為であり、人目につかない場所で行う儀式とも書かれていました。選ばれた者にのみ許される尊い行為なんですね!」
「なにを話してるの、過去の聖女達……!」
どうやら過去の聖女達も猫を吸っていたらしい。
確かに猫はふんわりしていて吸いたくなる。猫吸いは猫飼いあるあるだ。それに猫だけではなく、世には犬を吸う人もいるし兎や他の動物を吸う人もいるはずだ。
こちらの世界に来る聖獣は猫と犬が多いらしいが、過去には他の動物も来ていた記録があるという。むしろ別の世界の、柚香も想定しないような動物がきていた可能性だってある。きっとそれらも聖女達は吸っていたのだろう。
聖女と聖獣の降臨は百年に一度の災厄の目覚めに連動しており、それも毎回必ずというわけではなく何百年に一度の事だという。となれば、以前の聖女達がこちらの世界に残っていても既に寿命を迎えているだろう。
だが文献が残っているのならどんな聖獣が来ていたのかを知ることは出来る。
帰る術が見つかるまでそれを辿るのも悪くない。もちろんブラッドの自由を得て、世間の彼に対する認識を改めさせてからだが。
そう考えれば、柚香の胸に希望が湧いた。
やりたい事が見つかれば、無事に旅を終えて帰る意欲に繋がるのだ。
(ブラッドの自由を得るために動くなら、ヴィートも協力してくれるはず。帰る術はルーファスが探すって言ってるからきっとリュカもそれを手伝ってくれる)
旅を終えても彼等と変わらず過ごせる。
そんな期待が柚香の胸に湧き、リュカに抱っこされたままのニャコちゃんを見つめた。もちろん何をするにもニャコちゃんと一緒だ。これは当然とも言える。
「ニャコちゃんを吸う話から希望に変わって、またニャコちゃんに戻る。ニャコちゃんはやっぱり凄いわ」
「よく分からないが、聖獣様を吸う効果か? それほど凄いんだな」
「もちろんよ。見てて!」
期待や決意を胸に、柚香がリュカへと近付く。
彼の前にしゃがむと腕の中にいるニャコちゃんを一度撫で、そっと顔を近づけ……、
モフゥ、と、そのお腹に顔を埋めた。
頬を、額を、瞑った目元を、ふわふわの毛が覆う。
ゴロゴロという喉の音と心音、そして緩やかな呼吸による体の動きが肌を通じて直に伝わってくる。暖かさと音と振動に誘われ、このまま溶けてしまいそうだ。
そんなニャコちゃんの暖かさと柔らかさを堪能し、柚香はゆっくりと顔をあげた。今自分の顔がすっきりと晴れやかになっているのが鏡を見ずとも分かる。
「ほら、こうやるのよ!」
「そうか」
「さぁ、ブラッドもどうぞ」
「いや、俺は遠慮しておく」
「そう? せっかくニャコちゃんがご機嫌で吸わせてくれてるのに」
勿体ない、と柚香が呟いた。
今のニャコちゃんは随分と機嫌なようで、柚香がお腹に顔を埋めてもゴロゴロと喉を鳴らしていた。今も『さぁ次の人どうぞ』と言わんばかりに待ち構えている。
だがいつもこうやって吸わせてくれるわけではない。機嫌が良いと思って顔を近付けるも起き上がって移動してしまう時もあるし、途中でうねり出したり、前足後ろ足全てで突っ張って拒否してくる時もある。
吸わせてくれはするが、顔を離すやこれ見よがしにお腹を毛繕いしだすことだってあるのだ。猫は気まぐれなので仕方ない。毛繕いはちょっと傷付くのでやめてほしいところだが。
だから今はまたとないチャンスなのだと柚香が話すも、ブラッドは相変わらず冷静に「結構だ」と遠慮の姿勢を貫いた。
「そう、それなら誰かほかに……」
「はい! 僕、ニャコ様を吸ってみたいです!!」
柚香の言葉に食い気味で名乗り出たのは言わずもがなルーファスだ。
瞳をこれでもかと輝かせ、「吸わせてください!」と拝み倒してきそうな勢いである。
柚香は彼に一度頷いて返し、ニャコちゃんの様子を窺った。ニャコちゃんも吸われることに異論は無いようで、ルーファスを見ると『ニャッ』と高い声をあげた。これはきっと『吸いなさい』と言っているのだろう。
「憧れの聖獣様を吸える……。文献には吸う儀式に関しては書かれていましたが、実際に吸ってみたという記述はどこにもなかったんです。きっとどの神官も吸う事を許されなかったんでしょう。それを僕が体験できるなんて……!!」
『ウルルルルニャ』
「はい、ニャコ様! では失礼して……」
ニャコちゃんを抱っこするリュカの前に跪き、ルーファスがゆっくりと顔を寄せる。
遠目から見れば幼い少年に頭を垂れているように見えるだろうか。まさか少年の腕に抱かれている猫に顔を埋めようとしているとは誰も思うまい。
そうしてルーファスがニャコちゃんのお腹に顔を埋めた。
(……傍目にはこんな風に映ってるんだ)
と、目の前の光景に柚香は心の中で呟いた。




