35:重い空気とニャコちゃんの癒し効果
獣人達の集落はもとより森の中にある。
ゆえに集落を出て少し歩けばすぐに木々に囲まれ、見送りをしてくれたラスティ達の姿はあっという間に見えなくなってしまった。
こうやって道もあってないような森の中を歩いていると集落に居た時間が嘘のようだ。
集落も自然溢れる場所だったが、敷地内は開けていて道もきちんと整えられていた。家屋が並び、住民が集まるための集会所や倉庫、幼い獣人達の学び舎といった施設もあった。集落の外れには畑もあるらしく、質朴さはあるがあそこは確かに文化を営む者達の居住地だった。
そこに住む獣人達の姿もあってかまるで別世界のように感じたが、集落を出て再び森の中を歩くと、こちらはこちらで別世界のように思える。
それに……、と柚香はふと顔を上げて周囲を見た。
「なんだか……、さっきから変な感じがしない?」
誰に、というわけでもなく呟けば、前を歩くヴィートとルーファスが振り返った。
隣を歩くリュカもこちらを見上げて、最後尾を歩いていたブラッドも「どうした」と尋ねてくる。挙句に柚香の足元を歩いていたニャコちゃんさえも『ウルルルル』と返事をしてくる。
まさか全員が反応するとは思わず、柚香は「はっきりと分かってるわけじゃないんだけどね」と前置きをして話し出した。
「空気が重いっていうか……。なんだか空気が湿気て感じるし、それに息苦しさもあるの」
たとえるならば、急激に気圧が下がった日のような感覚だ。
空気が吸いにくい。呼吸をしているが肺にまで届いていないような感覚。それに晴れているはずなのに湿気を感じ、不快感が肌に纏わりつく。心なしか体が重くなったようにも思える。
だが周囲は変わらず緑に溢れており、空を見上げれば生い茂る木々の隙間から晴天が覗く。不快な空気を漂わせる天候ではない。
それに、集落に居た時にはこんなおかしな空気は感じなかった。
歩き出してしばらくして違和感を覚え、それが次第に濃くなり、いまは不快感になっているのだ。
隣を歩くニャコちゃんも同じなのか、毛繕いをしたり木で爪を研いだり、かと思えばパチパチと弾けたりと落ち着きがない。それでもこの不快感を取り去る事は出来ないようだ。
この不快感はいったい何なのかと柚香が疑問を抱けば、ヴィートが「災厄だ」と答えた。
「住処に近付いているんだ。だから空気が淀んでる」
「空気が……。災厄はそんな事もするの?」
「あぁ。それどころか、放っておけば範囲を広げ、森を超えて人の領域に踏み込み、大陸どころか世界中の空気を淀ませると言われている」
「世界中に……」
「集落の獣人達は災厄の監視役でもある。災厄が目覚めると森の空気が淀み、集落で暮らす獣人達が察知して国中に知らせるようにしているんだ」
そして使命を背負った者達が災厄を眠らせるために住処を目指して旅に出る。
説明するヴィートの話に、柚香は小さく「そうなんだ」と返した。重い空気が喉に纏わりついて上手く声が出ない。
その息苦しさは喉から胸へと伝い、まるで体全体が重さを増したかのようだ。意識して歩かないと俯いて足を擦って歩きそうになる。
この気怠さは空気によるものだけだろうか。心のすみで「自分はそんな事も知らなかった」という疎外感と不甲斐なさが湧き、それがまた気持ちを重くさせる。空気も心も体も、何もかもが重い。
纏わりつく不快感が、息苦しさが、払拭したはずの不安や疑問を呼び起こす……。
「……柚香」
ふいに低い声が背後から聞こえてきた。
振り返ればブラッドが心配そうに見つめてくる。
濃い青色の瞳にじっと見つめられ、柚香は小さく彼の名前を呟き……、そして深く息を吐いた。
「大丈夫、ちょっと空気がおかしいなって思っただけだから」
「休むか?」
「ううん、平気。ブラッドの声を聞いたら気持ちが楽になってきた」
「そ、そうか……」
柚香のはっきりとした言葉にブラッドがたじろぐ。
そんな二人のやりとりに、前を歩くヴィートとルーファスが顔を見合わせた。「これはなんとも」だの「えぇまったくですね」だのと話し合う二人は妙にニヤニヤとしている。
この旅の目的も、ましてや周囲に蔓延る空気すらも忘れてしまったかのような笑みではないか。
二人の物言いたげな瞳に柚香は一瞬疑問を抱くも、すぐさま自分の発言を理解して顔に熱がたまるのを感じた。
ブラッドの声を聞いたら、などと、随分と大胆な発言ではないか。
「ち、違うの、ただ、ブラッドに話しかけて貰ったから気が紛れたって事よ。ほら、何も話すことがないと嫌なことばかり考えちゃう時ってあるでしょ!」
「そうだなぁ、分かるなぁ。なぁルーファス」
「えぇ、そうですね。分かりますね。ねぇ、ヴィート様」
「二人共、そのニヤニヤした顔をやめて! 今はそんな事を話している場合じゃないでしょ! ニャコちゃん、二人をパチッとやってあげ……、ニャコちゃん!?」
足元のニャコちゃんに視線を落とせば、随分と冷ややかな視線で見上げてくるではないか。
そのうえスタスタと早歩きで柚香から離れ、リュカの足元に纏わりつく。これ見よがしな動きだ。
「酷いわニャコちゃんまで……。と、とにかく、今は油断できない状況なんだから、ちゃんと前を見て歩く!」
「これは聖女の命令かな。なぁ、ルーファス」
「そうですね。聖女様の命令ならば従わなきゃいけませんね。ねぇ、ヴィート様」
「聖女の命令だから従って!」
もう! と柚香が声を荒らげれば、こちらを見ながら歩いていたヴィートとルーファスが声を揃えて「仰せのままに聖女様」と前を向いた。なんとわざとらしい事か。妙に息が合っている。
そんな二人のやりとりを楽しそうに見守っていたリュカが、足元にいるニャコちゃんを「ニャコ様」と呼んだ。
「ニャコ様、抱っこして良いですか?」
『クルルル』
許可を求めるリュカに、ニャコちゃんは彼を見上げて目を細めた。
そして次の瞬間にはボデンッと勢いよく横たわる。リュカが表情を明るくさせ、横たわるニャコちゃんのお腹を撫で、頭を撫で、そうしてゆっくりと抱き上げた。
撫でられ抱き上げられと無抵抗なニャコちゃんはまるで『煮るなり焼くなりご自由に』とでも言いたげだ。
もっとも、実際に煮ようと水に入れれば暴れて電気を弾けさせるだろうし、焼きなんてしようものなら炎を吐いて逆にこちらが燃やされるだろうが。
「ニャコ様のことぎゅっとしてると安心できます」
嬉しそうにリュカが話す。
その声には安堵の色が込められており、幼い少年がこの空気に気圧されていたのが分かる。
それを察し一番に表情を歪めたのはヴィートである。王子という本来ならば国民を守り統べる立場ゆえに責任を感じているのか、申し訳なさそうな表情を浮かべている。
「リュカ……」
「あっ……、あの、違うんです! 僕もちょっと変な空気だなって思ってただけで……!」
「すまない、もっと早く気付いてやれば良かったな」
「ヴィートお兄ちゃんが謝らないでください。僕、ニャコ様をぎゅっとしてれば元気になれますから!」
大丈夫だとリュカが断言する。
それどころか、ヴィートとルーファスに近付くと「お二人も」と見上げた。




