33:翌朝、不安と決意
翌朝、柚香は『ふぐふぐ』というニャコちゃんのなんとも言い難い鼻息で起こされた。
小刻みな鼻息が顔に掛かる。頬に、鼻に、耳に。きっと柚香を起こそうと顔を寄せているのだろう。試しにと手で探れば柔らかな毛が触れた。
宥めるように撫でていると、今度は手の平をざりざりと舐めてきた。顔を寄せられるのもくすぐったいが舐められるのもまたくすぐったい。思わず「ニャコちゃんやめてぇ……」と声をあげれば、自分の声のなんと情けないことか。
ちなみに抗議の声をあげてもニャコちゃんは止まらない。
手のひらを舐め、額に肉球を押し当て、柚香の髪をちょいちょいと引っ張って、それでも柚香が起きないと分かると今度は胸の上に乗ってきた。再び顔に寄せて『ふぐふぐ』と鼻息を聞かせる。
加えてゴロゴロと喉も鳴らしているのだ。鼻息と喉の音が合わさるとなかなか煩い。
更に重い。体の上で四つ足で立たれると、その四点にニャコちゃんの体重が集中して、重いを通り越して痛い時すらあるのだ。
「ニャコちゃん、退いて……、それかせめて座ってよ……。まだ目覚まし鳴ってないでしょ、もうちょっと寝よう。それかルーファスのところに……。ん……、目覚まし時計? ルーファス?」
ん? と柚香は微睡む意識ながらに疑問を抱いた。
(目覚まし時計……、そういえば、最近は目覚まし時計の音を聞いていない。いや、待って、ルーファス? 日本人の名前とは思えないけど、どうしてそんな名前が口をついて出たのか……)
寝惚けてはっきりしない意識でなんとか考え、次の瞬間、意識が覚醒するやガバッと勢いよく上半身を起こした。
柚香が突然起き上がったことでバランスを崩したニャコちゃんが、哀れ柚香の上からずり落ちて更にベッドの下へともんどりうって落ちていく。――ニャコちゃんは猫らしく反射神経や運動神経に優れているのだが、気を抜くとたまに机や棚から落ちたりするのだ――
「そうだ、私異世界に来たんだ。久しぶりにベッドで寝たから自分の部屋だと思い込んじゃった。おはようニャコちゃん。……ニャコちゃん?」
ベッドの下で凄い勢いで毛繕いをしているニャコちゃんを覗き込む。
ニャコちゃんが『ンー』と口を閉じたまま鳴いてこちらを睨み、尻尾を大きく揺らしてぱたんぱたんと床を叩きだした。これはかなりご立腹だ。
小さくふわふわな全身から漂う怒りのオーラと恨みがまし気な瞳に、柚香はようやく己のしでかしたことを察した。慌ててニャコちゃんを抱き上げ、謝罪の言葉と共に子供をあやすように揺すり「可愛いニャコちゃん大好きよ」とほめちぎる。
「ニャコちゃんごめんね。私ってば寝惚けちゃった。起こしてくれたのよね、優しいニャコちゃん」
『ンー』
「そうね、お腹空いたもんね。ご飯にしようね。お願いだからそんなに怒らないで、パチパチしないで」
『ンー』
腕の中でパチパチとはじけ出すニャコちゃんをなんとか宥める。愛しいニャコちゃんを抱っこしているのだが、今だけは静電気をたっぷりと蓄えた毛玉を抱きしめている気分だ。
もちろんそんな事を口にしようものなら静電気どころではなくなりそうなので決して言わないが。
そうしてしばらくニャコちゃんを抱っこして揺すっていると、ゴロゴロと喉の音が聞こえ、それとほぼ同時に電気の弾けもなくなった。――ニャコちゃんは最後に一度大きくパチンッとはじけたのだが、おかげで寝癖の残っていた柚香の髪が更に四方八方に広がってしまった―ー
「ニャコちゃん、起きて朝ごはんにしよう」
ベッドから降り、身嗜みを整える。
寝巻とは別に用意されていたラフなワンピースに着替える。昨日まで着ていた服は一晩掛けて乾かしてくれているらしく、朝食後に受け取る予定だ。
麻に似た肌触りのワンピースに袖を通し、寝癖とニャコちゃんの静電気で広がった髪を直す。ドライヤーが無いのが惜しいところだが、幸い、濡れたタオルと手櫛でなんとか髪型を整えることが出来た。
部屋には全身を映す姿見こそ無いが小さな手鏡が用意されており、身嗜みの最後の確認にとそれを覗く。
慣れないアウトドア生活を続けているが、幸い顔には疲労の色は無い。寝袋生活でも目の下に隈は無く、むしろ日中は歩いて夜は早めに寝てと健康的な生活をしているせいか肌艶が良いようにさえ感じられた。
それどころか歩き通しで痩せた気さえする。
「やっぱり運動ね。日本に帰ってもウォーキングを欠かさないようにしなきゃ。通勤の時に一駅歩こうかな」
せっかく生活改善されているのだからこれを機に……、と独り言を口にし、次いで「そっか」と小さく呟いた。
今更な話だが、自分は日本に帰るのだと自覚したのだ。
だがそれは災厄を眠らせてからだ。
だけど、その前に知らなければならない事がある。
「もしかしたら今日にでも災厄の住処に辿り着くかもしれないんだよね。そうしたら、きっとすべてが分かる……」
その時が近付いているのだと考え、柚香の声のトーンが自然と下がる。
改めて考えれば、世界規模の脅威に立ち向かうのは無謀ではないのか。
なにをすればいいのかも聞かされていない。なにが出来るのかも分からない。
それにブラッド達がなにを隠しているのかも分かっていない。
「……ブラッド」
囁くように名前を口にする。
不器用で、素っ気なくて、無口。
高い身長と優れた体躯、男らしさの強い顔付きも合わさって、黙っているだけでも威圧感を感じさせる。話しかけるのも臆してしまうタイプだ。
だが実際は違う。彼の見た目は確かに威圧感を感じさせるが、本当は穏やかな性格だと知っている。
ブラッドだけではない。
ヴィートのことも、ルーファスのことも、リュカのことも。まだ出会って数日だが、その数日はずっと一緒に居た。何度も言葉を交わして互いのことを知り、そして今以上に知りたいと思う。
出会ってまだ日は浅いが、彼等のことを信頼している。
……だけど。
「ブラッドも、皆も、何を隠してるんだろう……」
ポツリと呟いた声は自分のものとは思えないほどに弱々しい。
不安が沸き上がる。落ち着かない胸中が不安に多い潰されそうになり……、
『ウルニャン!』
という力強い声に掻き消された。
ニャコちゃんが前足を柚香の体に引っかけ、ぐいと体を伸ばして顔を寄せてくる。
抱き上げれば小さな可愛い鼻が柚香の鼻に触れた。鼻と鼻を合わせる猫のキスだ。少し冷たく湿ったニャコちゃんの鼻の感触に、柚香は胸に湧いていた不安が緩やかに消えていくのを感じた。
「ありがとう、ニャコちゃん。そうだよね、迷ってたってしょうがないもんね」
感謝の言葉と共にニャコちゃんの体をそっと抱きしめれば、ニャコちゃんも嬉しそうに身を寄せてきた。
小さくて柔らかくて暖かな体。心臓の鼓動や息遣いが触れた肌から伝わってくる。
甘えん坊で赤ちゃんのような子だと思い、自分が居ないとニャコちゃんは生きていけないと考えていた。だがこちらの世界に来てからはニャコちゃんの強さに支えられてばかりだ。
ニャコちゃんの強さは聖獣としての火を吹いたり電気を放つ強さだけではない。どんな状況でも臆さず、そして柚香や周りを気遣ってくれる優しさという名の強さだ。
「ニャコちゃん、どこだろうとずっと一緒だからね」
『ンー』
「大好きよ、私のニャコちゃん」




