32:みんなで帰る
「わ、私、そろそろ戻らないと! リュカを一人で残してきちゃったから心配だわ!」
慌てて柚香が立ち上がるが、もちろんこれは誤魔化しだ。
リュカを案じる気持ちが無いわけではないが、反面、彼がなにかヘマをしているとは思えない。
「任せてください」と断言してくれた彼の瞳は確固たる決意が宿っており信頼できる。それにリュカは控えめな性格ではあるが芯のしっかりした子だ。
ブラッドも同じ考えなのだろう、リュカを案じて戻らなくてはと訴える柚香に「落ち着け」と諭してきた。
「リュカなら大丈夫だろう。あいつは機転が利く」
「そうね。でももう一つの小屋ではルーファスが一人で残ってるの」
「それは……、確かに戻った方が良さそうだな」
リュカの時とは一転し、なるべく急いだほうが良いとブラッドが急かしてくる。
もちろんこれは冗談だ。柚香が思わず笑いながら「失礼よ」と話せば、ブラッドが笑みを強めて「そっちが先に言ったんだ」と言い返してきた。
いつの間にやら重苦しい空気は消え失せ、普段通りの居心地よい空気が周囲に広がっている。
そうなるともう少しこの場に居たくなるが、今はひとまずと己に言い聞かせた。リュカは頼りになるが――もちろんルーファスも頼りになる――、いつ獣人達が小屋の中まで確認するかは分からない。早く戻るに越した事はないだろう。
「ブラッドはどうする? 上手くすれば小屋に入れるかもしれない」
「いや、俺はここで良い。獣人達も敷地から追い出しはしたが、野営の設備は渡してきたし飯も置いていった」
「そう……。でも気を付けてね」
「あぁ、そっちもな」
ブラッドの返事を聞き、次いで柚香は周囲を見回した。
きっと近くでニャコちゃんとヴィートが待っているはずだ。だが夜の森の暗さと生い茂る木々に邪魔され、ニャコちゃん達の姿は見つけられない。
「居ないな。危ないから俺が探しに行く」
「多分ニャコちゃんには声が届くはずだから大丈夫。……ニャコちゃん、ニャコちゃん」
誰も居ない森の中。草木どころかほぼ夜の闇と化した先に声を掛ける。
数秒待つと『ウルニャーン』と可愛い声が聞こえ、ガサガサと草を分ける音が聞こえてきた。
ニャコちゃんと、その後にヴィートが続いて現れる。ニャコちゃんは柚香に呼ばれたことが嬉しいのか、それとも夜の散歩を気に入ったのか、尻尾を真っすぐに立てて軽やかな足取りでこちらへと近付いてきた。
そのまま柚香の足にごちんと額をぶつけ、ウルウルと話しながら足に体を擦りつけてくる。随分とご機嫌だ。
「ニャコちゃん、ヴィート、ありがとう。そろそろ小屋へ戻りましょう」
「もう大丈夫なのか?」
何を、とは言わず、それでも気遣うような表情でヴィートが尋ねてくる。
彼の言葉は柚香に向かってはいるものの、ちらと一瞬ブラッドへと視線を向けるあたり、彼への問いでもあるのだろう。
柚香はこれに対し「ありがとう」と感謝の言葉で応じ、そしてブラッドはゆっくりと一度頷いた。
「ニャコちゃんもありがとう。夜の散歩はどうだった?」
纏わりつくように足に体を擦り寄せてくるニャコちゃんを抱き上げれば、『プルル』という声が返ってきた。目を爛々と輝かせており、夜の散歩を十分に堪能したことが分かる。
だが「何をしてたの?」と問えば、ヴィートが待ったを掛けてきた。分かりやすくにやりと口角を上げている。
「気を利かせて密談できるように二人きりにしたんだ、俺達の方だけ詮索されるのは割にあわないよな。なぁ、ニャコ様。俺達だって二人きりの……、一人と一匹きりの時間を堪能してたんだ」
『ウルルンニャ』
「み、密談って、別に密談なんて言われるような話はしてないわ。ブラッドの生まれの事を聞いて、それで、何とかしようって話してただけ!」
「なんだ? それだけか? キスの一つもしてない? おいブラッド、こんな絶好の機会に何やってるんだ」
呆れた、と言いたげにヴィートがブラッドをせっつく。――ちなみに柚香はヴィートの言い分に、「キスなんて……」と小さく呟いた。顔の熱が再び舞い戻ってきてしまう―ー
ヴィートの表情も言動もとうてい王子という身分の者とは思えない。少し下世話で、ブラッドに対して意地悪気な笑みを浮かべ、それでいてこんな話を出来る事がどことなく嬉しそうだ。
もっとも、問われたブラッドはどう答えれば良いのか分からないのか怪訝な表情をしている。
「何をやってるんだ、と言われても。そもそも俺は何もしてない」
「だからそれを……。まぁ良いか、今はそんな場合じゃないし、帰ってからに期待だな」
わざとらしく『やれやれ』とでも言いたげな態度でヴィートが大袈裟に肩を竦め、そうして「行こうか」と柚香を促して歩き出した。
そんなヴィートを、ブラッドが呼び止めた。
ヴィートが立ち止まりブラッドを振り返る。自然と柚香もニャコちゃんを抱っこしたまま彼へと視線を向けた。
「ヴィート、お前の言う通りなにもかも帰ってからだ。だから全て終えて帰ろう、ヴィート、柚香」
ブラッドの言葉も表情も穏やかで、彼の心からの言葉だと分かる。
ヴィートが嬉しそうに目を細め、「あぁ、帰ろう」と彼に返す。柚香も穏やかに微笑み頷いて返し……、
『ウルルルニャ!!』
と、腕の中であがった抗議の声に慌てて視線を落とした。
言わずもがなニャコちゃんである。柚香に抱っこされたまま、それでも耳をペタリと立てて不満そうにしている。柚香の腰にぽすんぽすんと何かが当たるが、これはきっと不服を訴える尻尾だろう。
話の内容を理解しているのか、もしくは理解とまではいかずとも自分の名前だけ呼ばれなかったことに気付いたのか。なんにせよこの訴えは『どうしてニャコちゃんのことは無視するの!』というものである。
察したブラッドがしまったと言いたげな表情を浮かべた。
「もちろんニャコ様もだ。俺達みんなで帰るんだから、当然ニャコ様も一緒だろう」
「ニャコちゃん、ブラッドは不器用なの、許してあげて」
『ンルルルル』
ブラッドの言い分に柚香がフォローを加えれば、納得したのかニャコちゃんが返事をした。フーンと長い鼻息はまるで『まったくしょうがない』と言っているかのようだ。
柚香の腰を叩いていた尻尾も今は静まり、ひょいと登ってきたかと思えばニャコちゃんのお腹にぽすんと乗った。「優しいのね」とニャコちゃんの額にキスをしてやれば更に機嫌を良くして目を瞑る。
「それじゃあおやすみ、ブラッド」
改めて彼に声を掛ければ、ニャコちゃんの機嫌が直ったことを察し僅かに安堵していたブラッドが「おやすみ」と返して穏やかに笑った。




