27:お湯の抱擁
周囲の景色を眺め、柚香はゆっくりと息を吐くと目を細めた。
美しい景色だ。人の手は最低限にしか入っておらず、それが自然のありのままの調和を保っている。
小屋や施設を見るに、きっと獣人達は自然を壊さず、自分達も森の中の生き物の一つとして暮らしているのだろう。
(こんな状況じゃなかったらきっと感動していたのに……)
惜しい気持ちが胸に湧き、深く溜息を吐いた。
どれだけ美しい景色を前にしても、暖かいお湯に浸かっても、柚香の気持ちは一つとして晴れない。
頭の中は不安と疑問がいっぱいだ。……そして、ブラッドの姿や声が思い出されてはまるで流れるお湯に溶けるように消えていく。
(罪を犯したわけじゃない、監獄で生まれたって言ってた。だから時折物騒な事を言ったり『聖女様に心配されるような人間じゃない』って言ってたのかしら……)
時折、ブラッドは『脅しに使う』だの『収監』だのと物騒な話を平然と口にしていた。
それはもしかして彼の周囲には囚人しか居なかったからだろうか。今までの生活の流れで物騒な話題を出し、だがそれが普通ではないことに気付いて誤魔化していたのか。
だとすれば納得がいく。……納得がいくが、だからといって気分が晴れるわけではない。
どうしたら、と考え、柚香は再び溜息を吐いた。
思い出すのはブラッドと過ごした時間。
沈黙も苦にならず、彼の隣に座って火を眺めている時間は穏やかで心地良かった。そして不思議と、ブラッドもこの時間を心地良く感じてくれていると、そんな感覚を肌で感じていた。
素っ気ない態度、だけど本当は優しく、さり気なく気遣ってくれる。時折見せる穏やかな笑みは柚香の胸を暖かくさせ、低く落ち着いた声は聴いていると安堵する。
「ブラッドが囚人だったことがショックだったのか、それを隠されていたことがショックだったのか、一人で勝手に彼を理解してる気になっていたことがショックだったのか……。なんだか自分の気持ちすら分からなくなってきちゃった。ねぇニャコちゃん、私、どうしたいのかな。……なんて、ニャコちゃんも聞かれても分からないよね」
いくらニャコちゃん相手とはいえ、相談すべき事ではない。
そう柚香は迷いに迷う己を自虐的に笑い……、次いで目の前の光景にぎょっと目を見張った。
お湯が浮いている。
いや、形を作って浮き上がっている、と言った方が正しいのか。
お湯の一部が突出し、ゆらゆらと揺れているのだ。だが固形とは言い難く液状らしさは残している。
たとえるならば、スライムや、水から現れる水生のモンスターと言ったところか。手のようなものがゆるりと伸びたかと思えば引っ込み、ゆらゆらと動いては透明な中でお湯が循環しているのが分かる。
危険な生き物が潜んでいたのか、と一瞬にして危機感が湧いて体が強張る。
ただでさえ碌に戦えない身で、そのうえ今は裸という無防備な状況。暖かいお湯に浸かっているというのに体がふるりと震える。
だがそんな柚香の不安を払うように『ナァン』とニャコちゃんが高く鳴いた。
見ればこの不可思議な光景を前にしてもニャコちゃんは香箱座りを続けている。落ち着いた様子で、それどころか柚香が視線をやるとゆっくりと目を閉じた。
「ニャ……、ニャコちゃん?」
貴方なの? と、顔は浮き上がる液体に向けたまま横目でニャコちゃんの様子を窺う。ニャコちゃんもまた柚香を見つめ、むふぅと深い鼻息で返してきた。
得意げな表情。もとよりふっくらとしたひげ袋がより膨らんで見える。これは自分の功績を褒めてくれと訴えている時の顔だ。
投げたネズミの玩具を持ってきたり、猫じゃらしを華麗にキャッチした時、こうやって誇らしげに見つめてくる。
ということは、今目の前で浮かび上がりゆらゆらと揺れているお湯はニャコちゃんが操っている……、と考えて間違いないだろう。
思い返せば、以前にルーファスが聖獣は火や電撃に限らず水も操ると言っていた。
なるほど、これが水なのか……。
「口から天然猫水を吐き出すわけじゃないのね。でもどうして今……。ニャコちゃん、何がしたいの?」
目の前でゆらゆらと揺れるお湯に尋ねる。
形をもったお湯は喋れないのか返事はせず、だがゆらりと柚香に近付くと体を包むように触れてきた。
硬さはない。だが何もないというわけではなく、柔らかいながらも『何かが触れている』という感触は確かにある。
そしてなにより温かい。
温まった布団より心地良い感覚に柚香は一瞬ほぅと安堵し目を細め、次いでそっと腕を伸ばした。
柔らかな感触で触れてくるお湯にそっと腕を回す。たとえるならば、抱きしめてくる背に腕を回すように。
「ありがとう、ニャコちゃん。私のこと慰めてくれてるのね」
お湯の感触を抱きしめながら横にいるニャコちゃんに視線をやれば、ニャコちゃんはこちらを向いてゆっくりと目を閉じた。
その表情は満足そうで、柚香が「もう大丈夫よ」と告げれば、抱きしめていたお湯がパシャンと水音を立てて湯船へと戻っていった。試しにと消えたあたりを手で掻いてみてもただお湯の手応えしかない。
だが柚香の体には、まだ抱きしめられた時の感覚が残っている。柔らかく、包まれると心地良く、そして暖かい。
それはたんなる温度の暖かさではなく、胸の内にまで染み込んで柚香の迷いを暖かく溶かしてくれた。
「そうよね、私がここで一人で迷ってても何もわかりっこないもの。ちゃんとブラッドの口から説明してもらわないと」
第三者からの説明だけでブラッドを危険だと決めつけるのは間違いだ。
ヴィートの言う通り、彼が囚人であっても罪を犯していないというのなら尚更、きちんと本人の口から話を聞き、そのうえで判断すべきである。
そう柚香は己の中で結論をだした。
不思議なもので、一度覚悟を決めると先程まで頭の中を渦巻いていた不安や疑問が一瞬にして消え去ってしまった。『ここで一人で悩んでいても分かりっこない』なんでこんな簡単な事が分からなかったのか。
「どうせこの世界のことは右も左も分からないんだし、一つずつ自分で判断すべきよね! そうと決まればどうにかしてブラッドに会いに行かないと!」
『ンニャム』
「ニャコちゃん、私が迷ってるから背中を押してくれたのね。ありがとう……」
なんて優しい子だろうか。
感謝の気持ちと愛おしさを胸に、柚香はニャコちゃんを抱きしめようと両腕を広げて近付き……、
まるで『濡れてるから触らないで』と言わんばかりの表情でぐっと顔を引っ込められた。
「なるほど、だからわざわざお湯で抱きしめてきたのね」
そういうことね、と柚香が呟けば、尻尾がお湯に浸かっていたことにようやく気付いたニャコちゃんが責めるような目つきで柚香を睨みつけてきた。




