21:眠れない夜の毛玉
夜、月が真上に差し掛かる時間。
自分とニャコちゃん用のテントの中、柚香はどうにも眠れずにいた。
ニャコちゃんも同じようで、寝袋の足元へと潜って丸くなったかと思えばずりずりと登ってきて、柚香の腕に頭を置いて目を瞑ったかと思えば徐に起き上がって今度は頭の方へとまわる。しきりに毛繕いをしているのは己を落ち着かせようとしているからだろう。
「ニャコちゃん、大丈夫?」
毛繕いをするニャコちゃんの体をそっと撫でてやる。
猫にもきっと眠れない夜があるのだろう。とりわけニャコちゃんはガラス細工のように繊細な子なのだ。
『ンー』
「そうだね、なんだか落ち着かないね。少し外の空気を吸おうか」
おいで、と声を掛け、擦り寄ってきたニャコちゃんをゆっくりと抱き寄せる。
そうしてテントから外に出れば、夜の暗がりの中で焚火の明るさが目に飛び込んできた。暗い森の中、そう大きくないとはいえ焚火の炎は目立つ。
今の時間帯はブラッドが火の番をしていたようで、彼は柚香とニャコちゃんがテントから出てくるのに気付くとこちらを向いた。
「眠れないのか」
「そうなの。少し火にあたっていい?」
「好きにしろ」
ブラッドの返答は相変わらず素っ気なく、答えるやすぐに焚火に向き直ってしまった。
不愛想、それどころか怒っているようにさえ思われかねない態度だ。とりわけ彼は体躯も良く顔付きも男らしいので、初対面であれば並みの男でも臆しかねない。
だが実際には彼は柚香達を拒絶しているわけでもなく、もちろん怒っているわけでもない。
不器用で分かりにくいだけなのだ。現に、焚火へと向き直ってしまったが、手元では温かなお茶を用意してくれている。柚香が隣に座ると「飲め」とぶっきらぼうに告げてくるが、渡されたカップは温かい。
それにお礼を告げれば、返ってくるのも「気にするな」という素っ気ないものだ。だがニャコちゃんにもちゃんと温めのお湯を用意し、平皿に注ぐとそっと地面に置いた。
「聖獣様でも眠れない時があるんだな」
「ニャコちゃんは繊細だもの、眠れない夜だってあるわ。ねぇニャコちゃん」
平皿に注がれたぬるま湯を飲むニャコちゃんに声を掛ければ、『ンプ』という可愛らしい返事と共にこちらを向いた。
ピンクの舌がペロリと濡れた口元を舐める。髭にも水滴がついており、それを指でそっと取ってやるとアーモンドのような目を閉じ、可愛らしい口元をむにと歪めた。
猫の髭はセンサーに似た役割を持っていると以前に獣医から聞いた。平衡感覚や距離を掴んだり、空気の変化を感じ取ったり、髭の動きで猫の感情も読み取れるというから素晴らしい機能だ。
敏感なのだろう。現に髭を触ろうとすると嫌がり、むにぃっとひげ袋を釣り上げて口を歪める。それでいてたまに寝ぐせがついているのはご愛敬。
そんなニャコちゃんはぬるま湯を飲んで満足したのか、燃料代わりの枯れ枝の山に近付くとすんすんと嗅ぎ始めた。
生えている草を手で突いたり、細い枝をあぐあぐと噛んだりもしている。
「よかった、ニャコちゃんの気分も晴れたみたい。やっぱり外の空気を吸いに出て正解だったわ」
「そうか。……だが火がもたなさそうだな。枯れ枝じゃなくて枯葉が必要だ。悪いが席を外させてもらう」
「今から取りに行くの? 待って、危ないわ!」
おもむろに立ち上がるブラッドを慌てて制止する。
今は夜、それも森の中。歩き回るだけでも危険な状況なうえ、どこに何が潜んでいるか分からない。獣避けはしているらしいが範囲はそう広くないと以前にヴィートが説明していた。テント二つと焚火を囲むのがせいぜいらしい。
そもそもこの焚火自体が動物避けのために燃やしているのだ。その火を保つために野生動物に襲われる危険をおかして枯葉を拾いに行っては本末転倒である。
そう柚香が訴えるも、ブラッドからは「俺の心配はするな」とあっさりとした言い切るような言葉が返ってきた。
「俺は聖女様に心配されるような人間じゃない」
「なにを言ってるの。心配するに決まってるでしょ」
「いいんだ、俺は……。ん?」
ふと、ブラッドが何かに気付いて言葉を止めた。
彼の視線が柚香からずれる。彼が見つめているのは、柚香の隣に座る……、
『ケコッ、ケコッ』と高い音を出して背中を震わせるニャコちゃん。
あら、と柚香が小さく呟いた。
対してブラッドは見て分かるほどにぎょっとしている。
だが今のニャコちゃんは明らかにおかしな音を立てて背中を波のようにうねらせているのだ、彼が驚くのも無理はない。
「ど、どうしたんだ?」
「大丈夫、吐くだけよ」
「吐く? 具合が悪いのか。ルーファスなら聖獣でも診られるから起こしてくるか」
「大丈夫だから落ち着いて、ブラッド。ニャコちゃんは毛玉を吐くだけだから」
「……毛玉? ニャコ様自体が既に毛玉のような気がするが、毛を吐くのか?」
「毛繕いの時に飲んだ毛を……、待って、今ニャコちゃんのことを毛玉って言った?」
愛猫を毛玉呼びは聞き捨てならない。
だが柚香の問いに、ブラッドは「気のせいだ」と言い捨てて再び腰を下ろした。どうやら柚香の話を理解し落ち着いたらしい。
ちなみにニャコちゃんはいまだ『ケコッ』と声をあげている。
「飲み込んだ毛を吐き出すのか」
「そうよ。具合が悪い時も吐くけど、今のニャコちゃんの様子を見るに、ただ毛玉を吐くだけみたいだから大丈夫」
ブラッドに説明し、ニャコちゃんへと再び視線をやる。
ケコケコと声をあげ背中を震わせていたニャコちゃんは、ぐっと一度大きく前のめりになり……、
ケポッ
と一際高い声をあげて毛が絡まった吐瀉物を吐きだし、顔を上げると、
ボッ
と、続くように火の玉を吐いた。
火の球は焚火へと溶け込み、火の勢いが見て分かるほどに増した。パキッパキッと火花が爆ぜる音の勢いが増す。
「おぉ」とは、ニャコちゃんから焚火へと視線を移したブラッドの感嘆の声。
「凄いな、この勢いなら朝までもちそうだ」
「……そう」
「さすが聖獣だ。毛玉と火を吐くのか」
凄いな、とブラッドが褒める。
それに対して柚香はなんと答えていいのか分からず、ひとまず足元に近付いてきたニャコちゃんを撫でた。
ニャコちゃんは相変わらず可愛らしく、柚香の手にぐりぐりと頭を押し付けてくる。この可愛いニャコちゃんが毛玉のついでに火の玉を吐いたとは思えない。
だが現に焚火は数分前とは打って変わって勢いよくゴゥゴゥと燃えており、ブラッドが「少し熱いな」と椅子代わりの丸太を後退させようとしている。紛れもなくニャコちゃんが火の玉を吐いて火力を増させたのだ。
あとニャコちゃんのひげ袋がほんのりと暖かい。
念のために髭を確認するが、幸い、髭は燃えてはいなかった。
「これからシャンプーと爪切りの時に火を吹かれたらどうしよう」
日本に戻る時に吹かなくなればいいんだけど。




