14:ニャコちゃんは抱っこをご所望です
森の最北端を目指し、補整されていない道をひたすら歩き続ける。
時には木の根が道を盛り上げていたり泥濘があったりと、森の中の行軍は一筋縄ではいかない。とりわけアスファルトに歩き慣れていた柚香には歩くだけで大変で、平坦であっても注意しないと足を取られかねない。
今もただ積み重なり湿気を帯びただけの枯草に足を取られ、ズルッと滑った右足に肝を冷やした。
(仕事帰りだったから仕方ないとはいえ、もっと歩きやすい靴を履いてればよかった……)
今履いているのは通勤用に愛用している黒のブーツだ。足元がしっかりと覆われていて歩きやすさはあるが、それでも滑り止めはあってないようなもの。
買う際に試し履きをして歩きやすさは確かめたが、それはあくまで『家と職場のアスファルトの往復』を基準にしていた。
せめてスニーカーを履いていれば今よりもっと歩きやすかったのに。
だけど一張羅に合わせて買った高いヒールのパンプスよりはマシだ。あれを履いていたら歩くたびにヒールの踵で穴を掘っていただろう。
そう自分に言い聞かせ、また一歩と足を進める。
「ニャコちゃんも頑張ろうね」
隣をちょこちょこと歩くニャコちゃんに声を掛けた瞬間……、
『ニャンッ』
という可愛らしい鳴き声と共に、言った矢先にニャコちゃんがゴロリと横になった。
否、その唐突さは倒れるという表現の方があっているかもしれない。そして擬音は『ゴロリ』よりも『ボデンッ』である。
四つ足歩行からの無駄のない華麗なる倒れ方である。
「ニャコランティウス様!?」
ヴィートと共に先頭を歩いていたルーファスが慌ててニャコちゃんに駆け寄る。
ヴィートも同様に何事かと近付き、柚香の隣を歩いていたリュカも「ニャコランティウス様どうしたんですか?」とニャコちゃんの隣にしゃがみこんだ。
ちなみにニャコちゃんは虚無顔である。だが名前を呼ばれると耳は動かし、リュカが鼻先に指を近付けるとスンスンと嗅ぐので気絶しているわけではない。
「ま、まさかニャコランティウス様、どこか体調が悪いのでは……!?」
「ニャコランティウス様、どこか痛いんですか? 大丈夫ですか?」
ルーファスの言葉に、リュカが案じるようにニャコちゃんのお腹を撫でる。
だがそんな彼等に対して、柚香は「大丈夫」と答えた。
ニャコちゃんが突然横になったのは体調を崩したわけではない。横になる間際に発したあの可愛い『ニャンッ』という甘えた声、そしてボデンッと勢いのよい倒れ込み、そしてこの虚無顔。それでいて時にゆらゆらと揺れる尻尾。
これは……。
「これは、ただ歩くのが嫌になっただけよ」
断言し、柚香はニャコちゃんの隣にしゃがんでそっとお腹を撫でた。
そう、これはただ歩くのが嫌になり、抱っこを強請っているのだ。
元々柚香とニャコちゃんが住んでいた部屋はそう広くはなく、極普通の2LDK賃貸だった。――もちろんペット可だ――
そんな家の中での生活で猫が疲れるわけがないのだが、ニャコちゃんは度々柚香に抱っこでの移動を強請っていた。
リビングから寝室への移動、入浴の際のお風呂場への行き帰り、着いてこなくて良いよと何度言っても着いてくるトイレ、そして寝る前の施錠確認……。
ちょこちょこと柚香の足元をついて回り、かと思えば甘えた声で一鳴きして目の前で横になる。その後は揺すっても撫でても頑として立たないのだ。
「ニャコちゃん、ここはおうちじゃないの。ちゃんと歩いてね」
ね、と優しく言い聞かせ、ゆっくりとニャコちゃんの体を持ち上げる。
そうして体制を直すように再び地面に戻せば……、
ドゥルン
と音がしそうな程にニャコちゃんが横になった。
軟体動物顔負けの柔らかさである。二度ほど繰り返してみるも、ドゥルンドゥルンと横になるだけで一向に立とうとしない。それどころか柚香を見上げると『ンー』と抗議の声をあげてきた。
これはきっと、何故ニャコちゃんを抱っこしてくれないのか、という抗議だろう。
世には抱っこを嫌う猫も多い。
ゴロゴロと喉を鳴らして擦り寄り膝の上で寝たかと思いきや、抱き上げると途端に鮮魚が如くうねりを見せてするりと腕から逃げていくのだ。もちろん抱き上げた人間を嫌っているわけではなく、たんに『抱っこ』という行動が嫌いなだけである。
だがニャコちゃんは抱っこされるのが大好きで、柚香に限らず、家に招いた友人にも抱っこをせがむ事もあった。
一昨年の夏にはエアコン修理に来た業者にまで抱っこを強請っていたあたり『世界中の人間はニャコちゃんを抱っこしてしかるべき』と思っている節がありそうだ。
とにかく、そんなニャコちゃんに対して、柚香はそれでも心を鬼にして「ニャコちゃん」と名前を呼んだ。
もう一度ニャコちゃんを持ち上げて地面に立たせる。今回もまたドゥルンと溶けてしまったが。
「みんな歩いてるんだから、ニャコちゃんも頑張って歩こう」
ね、と説得を試みる。
それに対して、ニャコちゃんはくりっとした目で柚香を見上げ……、
『ミャンッ』
と、一際可愛い声をあげた。
その瞬間に柚香が流れるような仕草でニャコちゃんを抱き上げたのは言うまでもない。
「もう、ニャコちゃんってば我が儘さんなんだから。少し抱っこしたらちゃんと歩いてね」
『クルルナァ』
「うん、いいお返事」
可愛い、と思わず柚香が顔を綻ばせる。
くるんと丸くなって腕の中に納まり、こちらをじっと見上げてくるニャコちゃんの可愛さといったらない。ほのかな暖かさかと両腕に感じる重み、ふわふわの感覚、微かに伝わる喉を鳴らす振動、腕の中すべてが愛おしい。
それらを感じながら、柚香は腕の中のニャコちゃんに「さぁ行こう」と声を掛けて颯爽と歩き出した。
ちなみに背後からは、
「なるほど、あれは我儘にもなる」
「僕、聖獣様ってもっと大人な感じなのかと思ってました」
「そういえば、聖獣様の中でも『ねこ』に分類される聖獣様は我が儘なお方が多いって文献にありましたね」
「……どうでも良いが、さっさと行くぞ」
と、男達の話し声が聞こえてくるのだが、柚香はあえて聞こえないふりをした。
もちろん、甘やかして我が儘にしている自覚はあるからだ。
だけどニャコちゃんの我が儘は甘えん坊ゆえにであり、それに悪戯は少ない方だし……、と心の中で言い訳をしておく。




