01:異世界とニャコちゃん
『ンナァ、ウルルニャン』
可愛らしい声が耳に届く。
それと一緒に聞こえるのはグルグルグルという喉の音と、それとふぐふぐという鼻息。
そんな愛らしさ百億点の声で起こされ、柚香の表情が緩んだ。
「可愛いニャコちゃん、もうちょっと寝ようね……」
まだ意識は八割夢の中で眠たくて目も開けられない。それでもゆっくりと声のする方へと手を伸ばせば、手にふわりと柔らかなものが触れた。
ニャコちゃんの可愛い頭。ぴょこんと立っているのは三角の耳、親指の先にちょんと触れる少しひやりとしたものはきっと可愛いピンクの鼻だ。柚香の手を嗅いでいるのだろうか。頭を撫で、ぐるぐると震える喉を撫で、背中を撫でてやる。
ニャコちゃんの手触りは最高だ。目を瞑って触っていても可愛いと分かる。
このまま布団の中にひきずりこもう。最初は文句を言うかもしれないが、しばらく撫で続ければきっと一緒に眠ってくれるはず。
そう考え、柚香はふと違和感に気付いて目を瞑ったまま眉根を寄せた。
布団の感覚がない。
寝ている間に暑くて蹴飛ばしてしまったのだろうか。
でも敷布団の感覚もない。体を横たえているのは硬い床、いや、土の香り……?
(そもそも、私いつの間に寝たの?)
疑問を抱き、眠さを堪えながら記憶を辿る。
最後に覚えているのは、仕事を終えた会社の帰り道。歩いていたら突然車が……。
「車……。そうだ、私、車にぶつかりそうで……!」
蘇った記憶と一瞬にして襲ってきた危機感に慌てて飛び起きれば、視界に映るのは目前に迫る車のヘッドライト……ではなく、木々が生い茂る大自然。
それと、
『ンニャ、プルルルニャァ』
と、後ろ足で立って頬に頭突きをしてくる、家で待っているはずの愛猫ニャコちゃん。
「……なにここ」
とりあえずニャコちゃんを膝の上に乗せて頭を撫でて呟くも、返ってきたのはニャコちゃんの愛らしい鳴き声だけだった。
◆◆◆
「落ち着け私、落ち着くのよ……」
『ンニャプルルウ』
「落ち着いて思い出さなきゃ。私は仕事の帰り道だったはず。会社を出て、電車に乗って……、駅から家まで歩いてた。その後は……えぇっと……」
『ンナァ、ニャッ』
「思い出した、コンビニに寄ったんだ。そこで買物してお店を出て……。ニャコちゃん、可愛いお返事してくれるのは嬉しいけど、少し黙っててくれるかな」
森の中、スカートが汚れることも厭わず地面に座って考え込む柚香に、ニャコちゃんがンニャンニャと相槌を打つ。
だが今は一人で考えたいので、「静かにしててね」とニャコちゃんの鼻を軽く擽れば、ピンクの舌が出てペロリと鼻を舐めた。『ニャン』と一度可愛い声をあげてニャコちゃんが膝から降りて柚香の隣にちょこんと座る。
なんて可愛くていい子なのだろうか。癒し効果は抜群で、ニャコちゃんのおかげでいくらか落ち着くことも出来た。
「あの時、車が目の前に迫ってきた。それで私、驚いて目をつぶって……」
次第に鮮明になる記憶を頭の中で順に並べていく。
意識を失う前の事はだいぶ思い出せた。だがそれと同時に分かるのは、今自分が置かれている状況があまり好ましくないという事だ。
目を覚ます前、椎橋柚香は確かに外に居た。だがこんな大自然ではなく極普通の住宅街である。
程よい疲労感と明日は休みという高揚感で足取りは軽く、途中でコンビニエンスストアに寄ってアイスを買った。いわゆる『自分へのご褒美』というものだ。
そうして店を出て家へと向かい歩き出してすぐ、一台の車が住宅街とは思えないほどのスピードで現れ……、
「私、車に轢かれたんだ……。でもどこも痛くない」
記憶の限りでは、車はかなりのスピードで迫っていた。ぶつかれば怪我は免れない。運がよく目立った外傷を負わなかったとしても、車とぶつかれば多少なり体を痛めるはずだ。
だけどどこも痛くない。試しにと座ったままで手足を動かしてみてもきちんと動く。
すんでのところで車が止まるか、無意識に避けて轢かれていなかったのか。
だとしてもこんな森の中にいるのはおかしい。
「気絶して、轢いたと勘違いした運転手に森に捨てられた? でも、そうだとしてもニャコちゃんが居るわけがないし……」
同意を求めるようにニャコちゃんの頭を撫でれば、『クルルルッ』とご機嫌な返事が返ってきた。
ニャコちゃんは完全室内飼いの猫である。くりっとした目とぷっくりとしたひげ袋の愛らしい顔、ふわふわのボディ。野良出身ゆえ詳しい血統書は分からないが紛れもなく柚香にとって世界一の猫だ。
元々は捨て猫ゆえに外を彷徨っていた時期もあるようだが、縁あって柚香の家に来てからは一度として家を出ていない。窓から外を眺めるだけの生粋の箱入りキャットである。
仮に柚香が何らかの事件に巻き込まれて森に放置されたとしても、ニャコちゃんまで居るのはおかしい。
「そもそも、ここどこなの? 鞄も携帯もなにもないし。ねぇニャコちゃん、何か知らない?」
試しにニャコちゃんに尋ねるも返事はなく、柚香の手のひらに頭を押し付けてもっと撫でてと強請るだけだ。
そのままニャコちゃんを抱きかかえ、ゆっくりと立ち上がった。
体の異変は無し、傷みも特に感じない。足も動く。やはり怪我はしていないようだ。
だが怪我もなければ鞄もない。携帯電話も鞄の中だ。ここがどこかも分からない、何から何まで無い無い尽くし。
「こんな森、近所にないよね。どこかの自然公園かな、それとも県外?」
周囲はいかにも『森』といった景色である。
今いる場所は多少開けてはおり、足元に広がる草も足首程度と低い。だが少し先に行けば膝や腰の高さの草が茂っており、頭上を見上げれば木々の葉が覆い被さるように広がっている。
その隙間から日差しが降り注ぎ、柚香は目を細めてそれを見上げながら「日差し」と呟いた。
変な話だ。記憶の最後、眼前に迫る車のヘッドライトを見たあの時、周囲は既に日が落ち切って暗くなっていた。
「職場を出て七時発の電車に乗ったから、七時半は過ぎてたはず。それなのに日が真上から差し込むって……、半日以上気を失ってたってこと!?」
『ニャッ、ンプルルル』
「どうしよう、よく分かんないけど凄いまずい状況なのかも……!」
ここがどこなのか、今が何時なのか、それすらも分からないが『それすらも分からない』という状況が不味いという事だけは分かる。
現実味を帯びるのに比例して危機感が増していき、柚香はニャコちゃんをぎゅっと抱きしめた。