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マグラドの夜を、今日もまた濃霧が覆う。
「……はい、わかりました。もう少しだけ相手したらそちらに向かいます」
手短に現状を伝えると、グライド・バーシルは黒電話の受話器を置いた。彼は無意識のうちに右手で左手首を抑えた。それを回して具合を確かめながら、自身の事務所の窓辺から霧に覆われたマグラドの夜の通りを眺め続けていた。この事態の最中、彼は黒い長手袋を嵌めた左手に微かな疼きを感じ続けていた。
マグラドを象徴する要素の一つであるこの霧。このようにして街が霧に覆われるのは一ヶ月におおよそ一度のこと。とはいっても、数ヶ月もの間霧が出ないこともあれば連日発生する時もある。その出鱈目な特性は、世界各地の気象学者が調べても未だにはっきりとは解明されていない。既に人生の半分以上をマグラドで過ごしてきたグライドだが、この霧のことを含めて、まだ理解の追いつかない事柄も少なくはなかった。
「もう一週間になるか……」
誰に言うでもなく、静かな驚嘆、そして戸惑いの念が彼の口から漏れた。グライドは独り言が多い方ではないが、それでも思わず口から漏れ出てしまう程に、最近の街の様相は異常を示していたのだ。
まずグライドがマグラドに来て此の方、霧が一日以上続くことはなかった。彼が覚えている限り、霧は夜に限り発生する。夜明けが来れば自然と晴れ渡り、徐々に街に活気が戻っていくのが何時もの流れであった。
それが今、街を覆う霧は一週前から今日までずっと続いている。
世界で最も迷信がはっきりと息づくこの街では「マグラドの霧は人を喰う」という噂がずっとずっと昔から住人の合間に流れている。他の街の住人なら鼻で笑うような噂でも、この街に住む人間にとっては紛れもない現実に他ならなかったのだ。
薄気味悪い霧の夜も、朝日が昇れば何時ものように終わりを告げる。そう思っていた街の住人は窓を指す陽光が何時まで経っても訪れず、白い虚無が依然として通りに広がっている事実に驚愕させられた。これにより街の老若男女ほぼ全てが、この晴れない霧に怯えて家に閉じこもる事となってしまったのだった。それはマグラドのあらゆる経済活動がストップすることと同義であり、唐突に家に閉じ込められるストレス、何よりこの何時終わるとも知れない濃霧への恐怖が人々を確実に蝕んでいた。
音のない、一面の白の世界。
ぼんやりと光り続ける街灯は、光の円を霧へと映す。
「思っていた以上に、まずい事態になった、が……」
グライドはまた呟いた。そしてゆっくりと深呼吸をして息を整えると、事務所に備え付けられたソファの一つに視線を映した。
彼が柄でもなく独り言を呟き、事務所内でも外着のまま落ち着かない様子でいる理由は、外の濃霧による不安だけではなかった。
そのもう一つの理由、グライドにとっては外の事情よりも先に解決しなくてはならない事情が、彼の視線の先にあった。
グライドの事務所の中で最も高級な家具の一つである、来客用のソファの上にいたのは一人の少女だった。その少女は膝を両腕で抱き、顔を太ももに押し当て小さくうずくまっている。表情は窺えない。
グライドが改めて少女に向き合って観察する上で、まず目を惹いたのはその銀色に光り輝く髪だった。その豊かな髪は、まるで上質のシルクで作られた布地のように美しくしなやかで、事務所のライトの光を返して煌々と輝いていた。
少女はその髪と同じ様な色の質素なドレスを身に纏っている。そのドレスと髪から伸びる両手脚の肌の色は、それらと相反するかのように鮮やかな褐色であった。
「……」
グライドが視線を向けても少女は気づいた様子を見せない。依然として一言も話さず小さくなっているだけだった。
グライドはボサボサの頭をかいた。こんな少女と相手をするなんていつ以来だろうか。前の職場の時に迷子だか不良だかで相手することもあったかも知れないが、あの時はただ忙しい日々の連続で、仕事の内容なぞ覚える余裕はなかった。
「……なあ、お前」
グライドは少女に向けて声をかけた。ここにくるまでなるべく時間をかけたつもりだったが、結局の所良い案も思い付かずのままだった。残された猶予も僅かな状況で、遂に彼は正面から少女と向き合うことを決心した。
呼ばれた少女が、少し顔を上げた。細い手脚の合間から、血のように朱く輝く虚ろな瞳がグライドを見据える。
―――半時ほど前。
街を覆う霧が続く中、何が出来るまでもなく事務所の中で一人本を読み時間を潰していたグライドは、一本の電話を受け取った。それはグライドの元上司、クロウス・クライスからであった。
「この霧について独自に現状調査を行っている。今は少しでも人手が欲しい。手を貸してくれるか」
恩人の頼みを断る理由もなかった。グライド自身、この異常事態に対して何か出来ないかと考えていた最中の所であった。
噂は依然として無視できるものではなかったが、グライドは過去に数回、様々な事情によりその霧の中へ飛び込んだ経験があった。
噂は本当か否か。それは彼自身が身を以て理解していた。結果彼は危険を承知の上で、霧に覆われた街中へと繰り出した。そしてクロウスとの待ち合わせをしていた通り向かっている最中、グライドは霧の向こうに見つけたのだ。
街の裏通りの隅で、一人うずくまる少女を。
「なんであんな所に一人でいたんだ?」
裏通りでは少女はグライドの呼びかける声に一切反応しなかった。今の状況が状況なだけに捨て置けない事件性を感じたグライドは、彼女を抱え上げ直ぐに事務所へと戻ったのだった。少女はその間何も言わぬまま、静かにグライドを見上げていた。
「言いたくないなら今直ぐに言わなくてもいい。ただ、俺には外に用事がある。ここを出なくてはいけないんだ。だから話は戻ってからでも―――」
「ほんと、に」
少女が振り絞るように言葉を紡ぎ出したのを知ると、グライドは押し黙った。そのまま彼女の出方を静かに伺う。
少女はゆっくりと顔を上げて、グライドを朱い両目で見つめた。
「あたしのこと、見えるの?」
その瞳はまるで消えかけの火のようにゆらゆらと揺らめき、吹いたら直ぐに消えてしまうような危うさがそこにはあった。
あまりにも予想外な返答に思わずグライドは言葉を失った。思わず眉間を指で押さえながら、視線を下げて地面を見つめる。少女の言葉を慎重に吟味する必要があった。
見える、だと?
グライドは思考を巡らせる。そして一つの言葉に辿り着くと少女を見据えた。
「お前、もしかしてドリーマーなのか?」
ドリーマー。それは空想を現実へ繋げる事の出来る夢見者の総称。数世紀前に世界の在り方が根底から換わって以降、各地で見られるようになった人々だった。
「ドリー、マー……?」
少女は首を傾げた。その困惑からどうやら言葉の意味が理解できていないようだ。
ドリーマーは今では最早、世間一般の常識の一つだ。それが理解できないとなると……
しまった、早まりすぎた。グライドは目を閉じて頭を振った。この少女は自分が考えている以上に特殊な存在なのかも知れない。ただし今は情報収集が先ではない。
「いや、その前にお前の疑問への答えからだな」
グライドは顔を上げた。
そして真っ直ぐに、挑むように少女の瞳を見据えると偽りのない言葉を紡いだ。
「見える。俺にはお前がはっきり見えるとも」
今必要なのはこの少女を安心させることだ。例え事情を知らなくても、その様子からこの少女が絶望の辺で助けを待っていたのは明白だった。
その瞳に揺らぐ灯火を潰えさせる訳にはいかない。
グライドの返信を聞いた少女はしばらくの間、呆けた様子で彼を見つめていた。彼は彼女の辛抱強く少女の返答を待っていた。
不意につうと、少女の瞳から一筋の涙が零れた。
「う……うぅ…うっ、ふぐっ」
彼女は喉を詰まらせる。始めなにも示すことのなかったその顔はぐにゃりと崩れ、様々な感情が入り交じった表情が浮かび始める。
驚愕。困惑。信頼。
何よりも、安堵。
「ああ……ああっ……!あああ……!」
最早それまでだった。グライドの言葉を理解し、自分に救いの手が差し伸べられたことを理解した少女は、声を上げて泣き始めた。
顔を覆う指の合間から大粒の涙をこぼして、少女は嗚咽する。
「あああん……うわぁあああっ……!」
ああ、こういう時どうすればいいんだっけか。
グライドは戸惑いで少しの間身動きを取れずにいたが、ふと昔の言葉を思い出した。
その女は、今と似た状況で大いに戸惑うグライドにこう言った。大人びた口調で、しかして悪戯児のように無邪気に微笑みながら。
そういう時はね、何も言わずに隣にいてあげればいいのさ。出来るならば、優しく手を背中に添えてね。
その時俺は出来なかった。若さ故の恥ずかしさという奴か。俺が出来ないのを理解した上で、あいつは俺の代わりに泣きじゃくる迷子の背をさすってくれた。
グライドは少女の隣に座りおずおずと左腕を伸ばしたが、その動きを途中で止めた。
そして左腕を引っ込めると、手袋の嵌められていない右腕で彼女の背を優しくさすった。
少女が泣き止むまで、グライドはずっとそうしていた。
◇
頃合いを見て、グライドはポケットからハンカチを取り出し少女に差し出した。彼女がそれでひと通り涙を拭いた後に思い切りと鼻をかんだのを見ると、彼は思わず眉をひそめそうになったが何とかこらえた。
少女はグライドを見上げた。目の周りはまだほんのり赤く瞳も少し潤んでいたが、抜け殻のような状態だった先とは違う落ち着いた態度を彼女は示していた。
「貴方は……だれ?」
グライドの上から下まで少女はくまなく視線を走らせる。その瞳にはありありと好奇心の色が浮かんでいる。
「そういや自己紹介がまだだったな」
グライドはまだ慣れない仕草で懐から名刺を取り出すと、少女の前に差し出した。
「俺の名前はグライド。グライド・バーシル。探偵だ」
少女は事務所、名前、連絡先だけが示されたシンプルな名刺を両手で受け取ると、グライドの顔を何度も交互に見比べる。徐々にその目は輝きを増していった。
「たんてい……探偵さんなの? 名探偵?」
「ん、いや……」
グライドは彼女のまばゆい疑問に言葉を詰まらせた。
名探偵、か。彼は十数年以上前の、子供時代に少しばかりの間思いを馳せる。確か本に夢中になったあの時は、探偵小説ばかりを読み漁っていたっけ。この仕事を選んだのはその影響も少なくないだろう。しかし……
「……ただの探偵だ。安楽椅子探偵のように大それた真似は出来ん。ただ、自分なりにこの街に住む人々のささやかな助けになることをしている。それだけの話だよ」
自分が目指すものはあの華やかな名探偵ではない。グライドは自分に言い聞かせるように彼女に告げる。前の仕事と同じ、泥臭く身体を使って少しでも他者の、そして自分の為に生きていく事は変わりないのだ。
「でも、すごい。それってすごいことだよ。事件を鮮やかに解決する名探偵も素敵だけど、他人の困難の為に精一杯頑張る探偵さんの方が、あたしは好き」
少女はそう言うとにっこりと笑った。それは見るものを安堵させる、とても穏やかな笑顔だった。グライドはその笑顔を見て、彼女が少しでも自分に心を開いてくれたことを有り難く感じた。
実際の所、まだこの探偵事務所を開いてからまだ一年も経っておらず、受けた依頼もまだ片手で数えるほどだった。幾つかの修羅場を乗り越えてきたグライドだったが、この仕事を始めてから未知の道を歩むことへの不安を拭えない毎日を過ごしていた。
それが今。少しだけ実を結んだのかもしれない。そう思うとふと顔が緩み笑みがこぼれた。だが興が乗る自分をほどほどに抑え、話を進めていくことを決める。状況が状況なだけに、悠長にはしていられない。
「それでだ。お前の名前は?」
少女は少しきょとんとした様子を見せた。グライドから視線を外し顔をしかめて、口に手を添えると少し考える素振りを見せた。
「あたし、あたしは―――」
少女は真剣な眼差しでグライドを見つめた。
「アノン。それだけ。それだけしか覚えていないの」
◇
10分後。グライドは再び事務所の窓から街の様子を眺めていた。彼は考えを纏める時や落ち着きたい時、こうして事務所の窓からマグラドの街並みを眺めるのが常であった。濃霧に覆われ街の様子が殆ど視認できない今でも、それは変わらない。
グライドはアノンと名乗る少女が語った話を全て聞くと、あらかじめ断ってから窓の外を眺めた。こうでもしないと頭の中が完全に混乱してしまいそうに感じたからだった。 霧に覆われているとはいえ、いつもの街並みは直ぐに彼の心を落ち着かせてくれた。
アノンはそんなグライドを横目で観察しながら、彼の事務所のあちこちに好奇心の目を走らせていた。
「整理するか。アノン、さん」
グライドは身体ごと顔をアノンの方に向けた。その表情は相も変わらず険しい。
「アノンでいいよ、探偵さん。さんづけされると正直ちょっと背中がぞわぞわする」
「……そうかよ、アノン」
少し拗ねたようにグライドは言う。それを見たアノンは、この短時間でも大分この人の柄を理解出来てきたなとふと思った。加えてこういうことにはまだ慣れていないのだろうという事も何となく察してしまっていた。大きなお世話だと、既にアノンの頭の中にあるグライドのイメージか口を出す。
「お前は名前以外のことを殆ど覚えていない。自分がどういう人間なのかも、今まで何をしていたかも。それだけじゃない、お前は……」
「うん」
グライドが言い終わるが早いか、アノンはソファを蹴って飛び上がった。
―――そう、文字通りふわりと空に飛んだのだ。まるで子供の手から離れ空へと浮かんでいく風船のように。
天井に直ぐに辿り着くと、それを蹴ってグライドの事務所を飛び回った。彼女はバレエのように、或いは水泳のように身体をしなやかに動かしながら、縦横無尽に踊り回る。その際に家具や調度品を手足で押して勢いを付けているが、その様はまるで重力を感じさせない。正に羽衣を纏った天女の如く、少女は空に舞を奏でていた。
アノンが飛ぶ様を具に観察していたグライドは、態度にこそ出さなかったが内心ではとても驚いていた。
「……ドリーマーにも空を飛べる奴はいるが、お前みたいに自由に飛び回るケースは初めて見たよ」
「その、夢見人っていう人なの? あたしは?」
アノンの疑問を聞いてグライドは頭をかいた。
「俺は専門家じゃないから確かなことは言えんが、少なくとも普通の人間はお前みたいに空を飛び回れないさ。それに……」
グライドは目を擦る。彼の視力は良い方であったが、こればかりは視力の善し悪しは意味を成さない。幻覚、妄想、幻想は例え瞳を持たなくても視ることは出来るのだから。
だが彼女は見える空想ではく、彼の目の前に確かに存在していた。
「他人から姿が見えないなんて、な」
アノンという名前しか覚えていなかった少女は、俄には信じがたい台詞を呟いた。だが続く身の上話を聞くと、自身が少女を発見したとき、何故あそこまで彼女は枯れ果てていたのかをグライドは理解し始めた。
―――私、探偵さん以外の人に見えないみたいなの。
曰く、アノンは気が付くと霧に包まれたマグラドの通りに一人佇んでいたのだという。死んだような静寂に包まれた霧の街の中、彼女は初め途方に暮れて辺りを見渡したが、何一つ事態は変わらなかった。
ここは何処か。この状況は何か。自分は何をしていたのか。そもそも自分はどういうヒトなのか。
わからない、何もわからない。ただ一つ覚えているのは、自分がアノンと呼ばれていたことだけ。自分を呼ぶ声色を思い出せても、そう呼ばれた時のことは他の記憶と同じ様に、まるで今の自分を包む濃霧のようにおぼろげだ。思考をどう巡らせようと何も思い出せないと解った彼女は、たまらずその場からはじけ飛んだ。
当初は焦燥感からその場から駆けだしたつもりだった。しかし気が付くと彼女は空に舞い、今いた自分の場所を見下ろしていた。
「うそ……」
アノンは自分が何故か自由に空を飛べると知ると、驚愕と同時に気味の悪さで一杯になった。
記憶の欠如と得体の知れない自分、そして霧に沈む街。それらによって恐怖に呑まれた彼女はマグラドの街を飛び回った。家々の扉を叩き誰かいますかと呼んだ。僅かに通りを行く怯えた様子の通行人に助けてと声をかけた。明かりがぼんやりと灯る窓に飛びつき、あたしはここだと叫んだ。
だが誰一人、自分に気が付いた様子を見せない。
直ぐ近くで叫んでいるのに、拳を叩いて音を出しているのに、相手の服を引いているのに、こんなにもこんなにも。
……助けて、欲しいのに。
叫んだ。
声のあらん限りに絶叫した。
喉が張り裂けんばかりに悲鳴を上げた。
だがずっとそうしていても。
何も変わらなかった。
誰も自分に気が付かなかった。
気が付くとアノンは街の裏路地の隅で小さくなっていたという。助けてもらうために、考え得る限りのことはした。しかしそれらは全て何も成果を上げることはなかった。
見えない恐怖に抗うことを諦め、焦燥感は燃え尽きた。彼女の心はがらんどうになってしまったが、どれだけ辛くても涙は出なかった。
こうして蹲ってからどれだけ時間が経ったのだろう? そして、通りで意識を取り戻してしまってからどのくらい? この街を包む霧は何時晴れるの? 何で、あたしは喉も渇かずお腹もすかないの? そもそもあたしは、本当にあたしは……
生きているの?
そう考えた瞬間、彼女の意識はふつりと消えた。
―――くたびれたコートを羽織った男が、自分にぶっきらぼうに声をかけてくる。その時まで。
◇
自分の力が制御できないドリーマー、か。
グライドは再び眉間を左手の指で押さえた。今度は目を瞑らずに、そのままアノンをしっかりと見据える。当の本人はというと、少しばかり恥ずかしさと気まずさで手元をもじもじしていたが、それでもグライドへ返す視線を外しはしなかった。
聞かない話だが、あり得ないことじゃない。現に怪人化したドリーマーは一種の暴走状態だ。けどこいつは怪人の特徴は全く見られない、至って普通の女の子だ。少なくとも俺が見る限りでは。
そもそもの話、アノンはドリーマーであるのか? それすらも定かではない。何せ食欲も一切感じないときた。もしも、この子は人間でもなくドリーマーでもないとしたら。
正に、幽霊そのものじゃないか……
「うん。でもそうだとしたら、どうして貴方にだけ見えるのかって話よね」
「っ!」
アノンの言葉にグライドは驚愕した。どうやら知らずの内に自分の考えが言葉に漏れ出ていたらしい。つい先程までこの子がどういう苦境に立たされていて、どのような状況に置かれていたのか理解したばかりだというのに。
「すまない。失言だった」
彼女の味わった地獄に、正直自分はちゃんと正視出来てさえいなかったのだ。なんと情けない話だろう。
「全然気にしてない……っていうのは嘘だけど。それよりもよ、思ったことが口に出るなんてグライドさんはまだ探偵として半人前よ。だめよそれじゃあ」
……返せる、言葉もない。
自身の失言が原因だというのに、思わず仏頂面になる探偵見習いを見てアノンはあははと気兼ねなく笑った。
この人は確かに小説のような策謀巡らす名探偵には向いてないかも知れない、けど……
グライドさんは信頼していい人だ。彼女は彼が自分を見つけてくれたことに、心からの安堵を覚えていた。
「気を悪くしたと思ってくれたなら、あたしの方も探偵さんに遠慮なく聞いていい?」
悪戯っ子のように微笑みながら、アノンは尋ねた。
「ああ、構わんが」
何処かムスッとしたようすでグライドは彼女に答える。それはまるで悪戯を親に叱られた子供のようだ。
「貴方、左手だけに手袋しているみたいだけど、それ何か理由があるの?」
グライドは少し目を見開いた。どうやら想定外の質問であったらしい。抑えてはいるけどやっぱり感情が表情に出るタイプなのねと、アノンはこの十数分で大分このグライドという男の理解が大分進んでいた。
彼は左手を顔を前に上げる。そして自らの手をまるで仇のように睨み付けた。
「これか、これは……」
グライドが少し返答に困り、言葉が言い淀んだその時のことだった。
ジリリリ! ジリリリ!
突如、事務所に設置された年代物の黒電話が部屋いっぱいにベルを鳴り響かせた。アノンは驚きで(文字通り)少し飛び上がり、グライドの表情に緊張が走った。
そうだ。確かにこの子の面倒を見るのも大切だったが、それと同時に外も異常事態となっているのだった。グライドは直ぐに受話器を取った。
「はい、こちらグライド探偵事務」
「ライド、ライド! 緊急事態だ!」
グライドが決まり文句を言い終わらないうちに、彼の元上司ことクロウス・クライスが切羽詰まった様子で叫んでいた。そのグライドの呼び方は、昔同じ職場で働いていた時のものだった。
「先輩? どうしたんです、何が起きたんですか!?」
「最悪の事態だ! 頼む、直ぐに先に伝えた現場に来てく……がぁっ!」
「もしもし? 先輩、先輩ッ!?」
電話は唐突に切られた。明らかに不自然な切られ方であった。
クロウスは態度こそいい加減のように見えるが、実際は誰よりも義理堅い人間だった。昔の呼び名で呼ばれるのは、グライドがVACから引退した時以来だ。グライドが二度と古巣へ帰ることのないように、もう呼ばれる筈もなかったその渾名。
それであの人は俺を呼んだ。既に状況は予断を許さないことをグライドは身を以て理解した。
「急用が出来た! アノン、お前はここで待ってろ! 下手に動くなよ、いいな!」
「ちょ、ちょっと! 探偵さん!?」
戸惑うアノンを尻目に、グライドは再び霧の街へ繰り出した。向かうは行く筈だった待ち合わせ場所。この街の深淵である地下世界へと続く、古き大マンホールの一つに。
◇
グライドは一人、幽霊街と化したマグラドを駆ける。死の沈黙に包まれた街を見渡しながら、彼は改めて思う。誰だってこんな所にずっと一人残されれば正気ではいられないと。
……気が触れてしまうことだって十分にあり得ただろう。それでもアノンは大切なものを無くさないで、助けを望んだ。それらが返ってこなくとも、抜け殻になりかけても待ち続けた。
だからアイツはきっと見た目以上に強いのだ。本来なら、俺が節介かけずとも生きていける程には。そんなことを考えていた矢先のことだった。
何だ?
不意にグライドは何か違和感を覚えた。
すると彼は静まりかえった筈の霧の向こうから、何かが伝わってくることに気が付いた。
ぎぎぎ……
がごん……どすん。
錆び付いた鉄が軋む様な不快な音に、何か巨大なものが大地を踏みしめるような衝動。いずれもアノンを見つける前には無かったものだ。
一体、これは……?
気になるところではあったがグライドは移動を止めない。今はクロウスとの待ち合わせ場所に向かうことが最優先だった。大通りを抜け裏路地を通り、最短距離で目的地へと駆ける。
「っ!?」
待ち合わせ場所に辿り着く前にある裏通り。そこに倒れ伏していたのは、つい先程彼に電話をかけた張本人、クロウス・クライスその人であった。続く血の痕跡を見るに、どうやら目的地から移動してきた後ここで力尽きてしまったらしい。グライドは直ぐにクロウスに駆け寄り、彼を抱え上げた。
「ぐ……」
クロウスは意識はあったが、見る限りどうやら全身を酷く打ちつけられているようだった。所々にある切り傷から出血しているだけでなく、下手すれば骨が折れているかもしれない。
「クロウス! クロウス先輩! グライドです、俺のことがわかりますか!?」
身体をなるべく揺らさないようにしてグライドはクロウスに呼びかける。少しの間唸った後、クロウスはゆっくりと目を開けた。苦痛に少し顔を歪めつつも彼はにへらと、どこか気の抜けたように思える、しかして見る者の緊張感を和らげさせるいつもの表情をグライドに向けた。
「ライド……グライドか。珍しいな、お前が遅刻とは……余程その娘さんに気を取られたらしい」
クロウスは咳き込んだ。明らかに軽口を言える状態ではなかった。
「先輩、下手に喋らないでください。直ぐに応援を呼びますんで」
「そうはいかないんだ……緊急事態と言っただろう。いいかグライド、よく聞け。時計塔が、中央広場にある時計塔が……」
クロウスは言葉を振り絞る様に、必死に叫んだ。
「地の底から這い出てきた、古き神に狙われている……!」
グライドは一瞬呆気にとられた。もしかすると、頭部を強く打って錯乱しているのではないかとも考えたが、クロウスの様子から彼はまぎれもなく正気であり、事実を自分に必死に伝えようとしているのだとグライドは信じた。
「古き神……? それが何でこの街の地下から、いやそもそも何故時計塔を?」
話が今自分たちを包む霧のようにまるで見えない。私も詳しい事情はわからない、とクロウスは付け加えた。一般人どころか内部に立ち入った者が一人も見つけられていないと言われる時計塔に向かっているのも、その中に「何か」が封じられている、という噂を聞いていたからだ。彼は周囲の霧が特に濃く感じられた場所、マグラドに幾つか点在する古マンホールの一つを見張っていたところ、何の前触れもなく唐突にその異形が現出したという。
「お前も奴を直に見れば理解できる筈だ……奴は、あの鉄屑の巨塊は、確かに街の中心に向かっている。そして放っておけば、何か取り返しの付かない事態を招きかねないことを……!」
クロウスは話を続ける。
「今回の異常な濃霧の原因も、おそらく奴の仕業だ。大方現実と幻想が混ざり合うこの霧の中でないと、まともに動くことすら出来ないのだろうさ……」
彼は咳き込むと、グライドから視線を下ろして地面を見つめる。手の感触から全身から力が抜けつつあることが理解できた。
「ぐ、く……こんなことになるなら、他の奴らを引きずってでも連れてくるべきだった、な……このまま、では」
クロウスはグライドの後方に広がる霧を睨み付けた。昔から今も親しき元上司の、そのあまりにも敵意に満ちた視線を、グライドは今まで見たことがなかった。
「間に合わ、ない……」
そう最後に言うとクロウスは目を閉じ力尽きた。
「先輩? 先輩!」
必死に呼び掛けるも、もう返事はない。どうやら気を失ってしまったようだった。グライドはクロウスをゆっくりと壁際に運んだ後、上司の睨み付けた先に姿勢を向けると目を閉じて耳を澄ませた。
ぶぉぉぉん……ぎぎぎ、ぎ……どすん。
確かに聞こえる。この先に、先程霧の直中を駆けた時、微かに聞こえたあの異音が。よりはっきりと。
グライドは目を見開いて前方を睨み付けた。そして横目で気を失ったクライスを見る。
今回先輩は真っ先に俺を呼んだ。信頼できるツテが他にいない事情もあったかもしれないが、無論それだけではない話だろう。ただ人手が足りないと言う理由で、袂を別れた人間を直ぐに呼ぶほど先輩は礼儀の知らない人間ではない。
即ちそれが意味するのは、もしものことがあった場合に、先輩は俺の力を頼りにする筈だったということだ。再び自分に電話をかけてきた時、先輩は俺に緊急事態と言った。つまり、そういうことなのだろう。
この人の期待は裏切れない。そうだ、俺が事態を何とかするしかないんだ。彼の心は初めから決まっていた。
グライドは脇目も振らず再び走り出した。そのせいか、彼はついぞ気が付くことがなかった。
―――街を駆ける自分の後に続いて、ふわりと宙に浮く影がずっと追いかけてきていたことに。
◇
ぶおおおん、ごぉご、ごおおお……
どこから出しているのだろうか、内部から聞こえる獣の唸るような音。
ぎぎぎ、がぎん。ごぎん。
辺り一帯に響き渡る、身体のあちこちが軋む音。
ぶすん、ぶすん、ぶふぅ。
身体から突き出たいくつもの煙突らしき物体が、霧を吹き出す音。
ぎぃーぎぎぎ……どん、どすん。
そして、巨大な脚が大地を踏みしめる音。
それは巨大だった。高さだけでも、二十メートルはあるマグラドの街の家々を一回り二回りも上回り、幅も街の大通りの大半を占めるほどだ。
それの外観は、言うなれば廃棄物を寄せ集めて出来た不格好な巨人だった。大小ある腕は五つに太い脚が三つ、不格好な頭は二つで、それに埋まる星のように輝く目らしきもの。一見すると人のようにも見えるがその実、構造は不愉快に思えるほどに出鱈目で生物らしさを逸脱していた。
煙を吹き出す煙突だけでなく、朽ちた鉄骨、アンテナやクレーン、果ては灯台らしき建造物まで、その身体からあらゆる無数ものが無秩序に伸びている。それらは突き出された辺りを探る手のようにも、触手のようにも見えた。
その異形はただひたすらに街の中央へとゆっくり歩を進める。何より不気味だったのは、その無機物の寄せ集めの中で前方を睨む三つの瞳は、特徴こそそれぞれ異なるものの、全て嫌悪感を覚えるほどに生物的なものであることだった。
「何だ、これ……?」
グライドはしばしの間呆気にとられた様子で、それがゆっくりと歩を進めるのを眺めていた。
世界各地で想像を超えた現象、摩訶不思議な生き物が観測されるのが最早常識となったこの世でも、マグラドで起きる出来事は常識外れのものとされていた。グライドはこの街を訪れた当初こそ驚愕の毎日だったものの、居を構えてから二十年以上経った今となっては、慣れや自身の成長もあって大抵のことには取り乱さない自信があった。
だが、それでも……
この霧の中を蠢く存在は、自身の理解をとうに超えていており、驚きを隠さずにはいられなかった。
けれども、実際に見ることで理解出来たことがあったのも事実だ。百聞は一見にしかず、あの時クロウスに更に問いただせたとしても、ここまで実感は沸かなかっただろう。
あれが元凶。この街が霧に包まれた原因。今のままの俺では、止めるどころかまともに干渉すら出来ない存在であると。今までの経験と本能がそう告げていることに、彼は打ちのめされていた。
「探偵さん……あれって……」
茫然自失となっていたグライドは、不意に聞こえてきた少女の声で我に返った。
直ぐに視線を隣に向けるとそこには、事務所で自分を待っているとばかり思っていた幽霊少女が、ふわりふわりと浮かびながらあの屑鉄の巨塊を見つめているではないか。
「アノン!? お前、部屋で大人しくしてろって言っただろうが!」
グライドはアノンに向かって声を上げた。あまりにも予想不能な事態の連続で、正直彼は取り乱さないようにしていることがやっとの有様だった。
「言いつけを守らなかったのはごめんなさい、だけど……どうしても心配になって……」
グライドは頭を強く振る。そして呼吸を整えた後、既に彼の心は少し落ち着きを取り戻せていた。
「言い訳は後だ。直ぐに戻れ」
グライドはきっぱりと言い放った。アノンの表情が一瞬だけ先の表情に戻る。彼が彼女を見つけた時の、不安で今にも崩れ落ちそうなあの顔に。
だが彼女はきっとグライドを見つめ直した。まだ不安げではあったが、彼女の瞳には強い光が宿っていた。
「……嫌。あたしを見つけてくれた貴方を置いてなんか行けない」
彼女のその強い眼差しに対し、逆にグライドの方がたじろいでしまった。何故ならその瞳にある既視感を覚えてしまったからだ。
それは、既に亡くした妻の面影。
「お前なぁ……」
グライドは頭をかいた。言い争っている事態ではないが、このやりとりが彼の心を幾分か落ち着かせたのも確かだ。
彼はアノンから視線を外して再び屑鉄の巨塊を見上げた。それの身体は霧にすっぽり覆われおぼろげで、まるで白昼夢……悪夢寄りの夢を見ているかのようだった。だがこれは現実であり、直視しなければならないことを彼は実感していた。
―――俺も覚悟を決める時、か。
確かにあの人の言ったとおりだった。あの異形を何としてもここで食い止めなければならないことを本能で理解したグライドは、手袋を付けた左手を目の前に掲げると嵌められていた手袋をするりと外した。その露わになった左腕を見て、思わずアノンは口を押さえた。
「探偵さん、それって……」
アノンが躊躇うのも無理はない。グライドのその左腕は、まるで焼き爛れているかのように大部分が黒ずんでいた。そして黒ずんだ部分はまるで爬虫類の甲殻、或いは悪魔の手のように人間的でない形状に変質している。
「アノン。お前、さっき自分がドリーマーだとわからないっていったよな」
グライドはその左腕に対し、まるで他人事であるかの様に冷たい視線を送る。
「恐らくだが、自覚しようがしまいがお前はドリーマーだとみなされるだろうよ。何せ俺もそうだったからな」
アノンは目の前にちらりとひとつ、赤黒く輝く塵が舞っているのが見えた。気のせいかとも思ったが、その火の粉は徐々に数を増していた。
「要は、ドリーマーは人間的でない特徴を持った人間の呼び方だ。本人の意思とは関係なく、普通の人間でないやつは半ばそうやって決めつけられるのが今の時代さ」
その勢いは止まることを知らず、数秒もしないうちに彼の左腕は、どこからか巻き起こり始めた黒い火に包まれ始める。
「……俺も、正直お前と同じで自分がドリーマーだという自覚はない。何せこうなったことに、てんで覚えがないからな。だが俺はドリーマーと認定された。職務や活動に支障が出ない程度に、こうして、隠してはいる……がな……」
左腕の火は最早炎と呼ぶに相応しいほどに勢いを増していた。既に左腕には収まらずグライドの身体に燃え移るかのように思えたが、不思議と彼の服は燃える様子はなく、ただただ炎の勢いだけが強まっていった。
「ぐっ、がぁ……!」
グライドは右手で胸を押さえた。炎の勢いが強まる度に彼は苦しみに喘ぎ始め、額には脂汗が浮かんでいる。
「探偵さん!? それ、そのままで大丈夫なの!?」
近づこうとするアノンにグライドは右手を突き出して制した。
「これは……わかりやすく言えば、俺たちを……ドリーマーの能力を潰す力、らしい。……へ、成りたくてなった訳でもねえってのに、いざ与えられたのが自分も夢も燃やし尽くす炎なんて、な……」
ぐぐぐ、とグライドは左手を握って拳を作る。そして彼は霧の向こうの屑鉄の巨塊を睨み付けた。そのどす黒い炎は天を突く業火となり、今にも彼を丸呑みにしてしまいそうだ。
グライドが解放したその力は、諸刃の刃であることが一目瞭然だった。アノンはその際限なく彼を蝕み広がっていく黒炎を見て血の気を失った。
彼はここまでこの力に身を委ねたことは初めてであった。吐き気を催すほどの悪寒、頭が割れんばかりの頭痛に気を失いそうになりながらも、彼は目の前の元凶から気を逸らすことは決してしなかった。
「だがよ、これで手前ごと燃やし尽くせるのなら!」
獄炎はとうとうグライドの身体をほぼ全てを飲み込んだ。
「アイツにもようやく顔向け出来るってもんだろうが!」
アノンはそれまで黙って見ることしか出来なかった。
この人は自分ごと、あの不気味な何かを燃やしてしまうつもりだ。確かにその恐ろしい炎でならあれも撃退できるかもしれない。けどそれでは。
けどそれでは、この人も。
グライドが一歩を踏み出した刹那、アノンの脳裏に今までの感情が駆け巡った。霧の街での絶望、見つけてもらえたことの希望、理解者を得た嬉しさの涙。
そしてあの時不器用に見せた、彼のはにかんだ笑顔。
わずかばかりだけれど、かけがえのないその記憶。
嫌。嫌。嫌だ嫌だそんなの……絶対に!
「いやぁっ!!」
グライドの意思も、そのすべて燃え尽くさんばかりに広がった炎も、もはや関係なかった。
ただ、この人に生きていてほしくて。
アノンはたまらず彼に飛びついた。
「アノン!? 馬鹿野郎、直ぐに離れるんだ!」
アノンが首元に抱きついたことを知ると、グライドは必死の形相で彼女に向かって叫んだ。この貪欲な炎は彼女にも影響を及ぼすことは明白だったからだ。
「いや! いやいや絶対に嫌! 貴方を一人でなんか行かせない!」
グライドに負けじと決死の表情でアノンは叫ぶ。
「お願い、お願いだから……」
彼女の紅い瞳から、ぼろりと涙が溢れる。
「あたしを、また一人に、しないで……」
彼女はグライドの背中に声を上げて泣き崩れた。
アノンの心からの叫びを聞いたグライドは呆然と立ち尽くした。全身の力が徐々に抜けていく。左腕から上がる炎も、急速にその勢いを弱めていた。
泣き伏した彼女をまた慰めることも出来ず、声もなく視線を下ろした。
ああ。くそ。
俺はまた、また繰り返そうとしていたのか。
わかっていたのは、また自分が過ちを侵そうとしたことだけだった。その結果、一人の少女を再び絶望の渦中に追いやってしまうことを、自分は理解していなかった。
それでも彼は彼女に泣き止んで欲しくて、おずおずと右手伸ばして彼女の頭に添えた。
「悪かった」
不器用にそんなことしか出来なくても。
それがグライドに出来る、精一杯の謝罪だった。
「……あ、あれ?」
アノンは涙で腫らした顔を上げ、不思議そうにグライドと自分を見渡す。
「あつく……ない? 全然、苦しく、ない?」
「……!? アノン、お前なんともないのか?」
アノンに言われて今の事態を把握したグライドは驚きを隠せなかった。一般人でも影響を与え、ドリーマーなら例外なく害を与えるこの黒い炎に包まれながらも、彼女は平然としている。そればかりか、炎を展開したままにも関わらずグライド自身も先の苦しみが嘘のように消えていた。気を許せば際限なく広がる炎も、躾けられた犬のように今は大人しく燃えているだけだ。
まさかこれが……
アノンの力?
試しにグライドは炎の勢いを強めてみる。直ぐにその炎は左腕を包み二人に迫るもグライドに苦痛はなく、またアノンもこれといった異変は見られない。
そればかりではない。アノンの豊かな髪はバチバチとまばゆい閃光を放ち始めその輝きを増している。加えて不思議なことに、グライドの髪もそれに呼応するかのようにバチバチと彼女と同じ光を放ち始める。ドリーマーの力の共鳴だろうか、黒の炎と白い閃光はお互いを牽制し合うかのように渦を巻いていた。
二人はお互いに顔を見合わせた。そしてアノンは強く頷いたのを見ると、グライドは改めて目の前の障害を見据える。屑鉄の巨塊はもうすぐそこに来ていた。
「最初で最大の一撃、いけるか?」
「ちょっと怖いけど……ううん、あたしに任せて!」
ならその言葉に賭けるまで。グライドは蛇口を捻るように、一気にその力の枷を外した。炎と閃光が二人の周囲の霧を霧散させる。
グライドはこの力に身を全て任せたことは一度もなかった。何故ならば、そうすれば待っているのは自身の破滅のみだったからだ。本来なら身も心も燃やし尽くす筈の彼の黒い炎はアノンの閃光と共に、今はまるで彼と彼女を守護するかのように周囲を渦巻いている。
グライドはこの力を今ほど頼もしく思えたことはなかった。勿論、偶然にもこうなるきっかけを与えてくれたアノンに対してもだ。
「いくぞ!」
「うん!」
最大の気の昂ぶりと共にグライドは駆けだした。
彼は異形の足元に潜り込むと、その身体から伸びる無数の鉄屑を手掛かり足掛かりとして、どんどん上へと昇っていく。そして大きく揺れる腕の一つを足場に、反動で空中に飛び上がった。
拳を後ろに回し、全身全霊の一撃を落下の勢いと共に鉄屑の中心に叩き込む!
その瞬間だった。
それまで何物も意に介さなかった鉄屑の巨塊であったが、グライドの拳が炸裂する寸前、その忌々しい三つの瞳が揃って二人を睨みつけた。
グライドもアノンもその虚無の如く無垢の如く澄んだ瞳には何も感じられず、逆に古い神が彼らに影響を与えられたことは最後まで何一つ無かった。
「どらああああっ!!」
グライドは渾身の一撃を、屑鉄の巨塊の中心に叩き込んだ。轟音を立てて朽ちた身体を裂き崩し溶かし、炎の拳が錆だらけの躯を貫いてその核へと達する。
かつては永遠とも思われる存在を誇った神の心臓も、悠久の歳月、信仰の衰退、そして何よりこの街に広がる地下世界に閉じ込められたことよって腐り墜ちていた。
だがどれ程に古くとも腐るとも神は神。この街の霧を利用することで存在を確立し、思考はとうに霧散しようとも唯一残留した意思のみで、再び神たりる存在へ孵ろうと動いていた。その行動にヒトの手は一切届くこともなく、この古い神が時計塔に秘された力を手にすることは、殆ど確定した未来である筈だった。
……筈だった、のだが。
只の非力な人間である二人の際限なき夢の力が合わさったことにより、神殺しは果たされた。
ぶおおおおぉぉぉぉ……
断末魔のような軋みを上げて、衝撃により巨体がぐらりと傾いた。不格好な脚で自身を支えること叶わず、そのまま古い神は地に落ちる。既にその仮初めの躯には何も宿ってはいなかった。
そして地面に倒れ伏すと同時に霧が全てを飲み込み、古い神はこの世から一片の痕跡も残さず消失した。
後には霧の中にグライドとアノンの二人だけが残された。
「っぐ!」
「ぷはっ!」
同時に緊張の糸が切れた二人は大きく息を吸う。グライドは地面に膝を突き、アノンはグライドに身体をあずけた。炎と閃光はその勢いを弱めていく。
「やった……みたいだな」
息も絶え絶えにグライドはアノンに言う。やっとの思いで彼は左腕をその特殊な手袋で再び封印する。
「うん。そうね、そうみたい」
既に閃光が失われたアノンも彼と同じく息を切らせ瞳は半開きで、気を抜くと直ぐに気が遠くなりそうだった。例えるなら、普段使わない筋肉を全力で使ったような感覚だ。しかし自分が今身を任せるこの硬い背中をより鮮明に感じられるなら、この疲労も悪くないと彼女は想った。
彼の方もそうだった。この背中に伝わるか弱くも確かな熱を、今度こそ見失わないと誓った。
「「本当に、よかった」」
自然と二人の声と心は揃ってそう呟いていた。
◇
「ふうーっ」
グライドは大きく息を吐くと腕を片方ずつぐるぐると回した。色々と予想外が重なったとはいえ、結果的には事態はなんとか収束の目を見た。
グライドは振り返り、あの鉄屑の巨塊が倒れ伏した通りをもう一度見渡した。そこには最早何かあったということすら判別できない程に、何の痕跡も残されていない。
結局詳しいことは不明なままだが、あの彷徨う鉄屑を打ち倒した後、街の霧が徐々に晴れていっていることが理解できた。この分なら昼には完全に晴れ渡るだろう。また街の様相が元の賑わいを取り戻すと思うと、彼は自然と心が弾んでいた。
「ねえ、グライド」
体力がある程度戻ったアノンは、グライドの背を降りて彼の近くをふわふわと浮いている。本当はしばらく彼の背中に身体を預けたままでいたかったのだけれど、照れくささが増してしまった結果だった。
「改めて、ありがとう。私を見つけてくれて」
アノンはにっこりと笑って恩人を見つめた。
「感謝するのはこっちの方もだ。お前がいなきゃあのバケモンを倒せるかどうかも解らなかったし、今俺はここにまともに立っていなかったのは確かだった。それに……」
グライドはアノンを一瞥すると直ぐに視線を外して頬をかいた。
「まだ、顔向けには早いって思い知らされたしな」
彼女は顎に指を当て、顔を傾けながらきょとんとした顔をしている。無理もないだろう、この子には恐らく縁もゆかりもない話だ。こうして見ると様相も雰囲気も何もあいつに似ていない。
筈なのに―――どこか面影を感じてしまうのは、何故なのだろう。
「いや、こっちの話だ。気にしないでくれ」
「なにそれ。そっちだけで勝手に納得しないで欲しいんですけどー」
おしえておしえてーとむすっと頬を膨らませて駄々をこねるアノンを、ああいつか気が向いたらなとグライドは適当に流す。
「よし。まずは先輩を迎えに行って医者に連れていかないとだな。あの偏屈に診てもらうのも癪だが……事態が事態か、仕方がない」
「あ、先輩ってあの人でしょ? あのうだつの上がらなそうな」
「お前あの時からいたのか……いいか、あの人はな」
そんなやりとりを交えながら、グライドとアノンは並んでマグラドの街中を進む。
永い霧が晴れ始め漸く差し込み始めた朝日の光が、二人とその行く先を照らしていた。




