1-08 カロはミンミに会いたい
当然のように借りた水白馬を盗まれ、賠償金として本日の稼ぎを八割減らしたカロの財布は底を尽きかけていた。畜生。悪態をつけども、中指を突き立てる相手はどこにもいない。いるのはカロが「雇用主」として本日の報酬を支払うべき四人の大人、と。
「…………なんで宿までついてくるんだよ」
だいぶやつれた様子の悪徳貴族ことクララック卿である。
「貴様」
じろり、とカロをにらみつけるはしばみ色の目も疲労がよどんでいた。
「貴様らの脚代飯代宿代まとめてこの私に出させているのを忘れたのか? とんだ鳥頭だな、え?」
「オレの分はオレが出してるだろ! おまえが出してるのはあいつら四人の分だ! オレとは別の宿取れよバーカ! バーーーーカ!」
「だーっ! やかましい! そもそも私の金だ! ここには貴様が呼び出したんだろうが! 何だ話って! あの四人には聞かれたくないだとかなんとか言いよって面倒な──」
「シッ」
カロは人差し指を口元に、「黙れ」のジェスチャー。周りを見回す。音の判別がつかないくらい騒々しい店内だ。よしんば連中がいたとして、話の内容を聞かれることはないだろう。それでも、用心に越したことはない。
清潔とは言い難いが明るい店内に、ヒビも欠けもない食器。折れて凶器になっていなどいないカトラリー。深夜をすぎてもなお賑わう、マジャリス自治区で一番大きな大衆酒場。カロとクララック卿はそこで面と向かって、互いに緊張を解けないでいる。カロにとってはクララック卿は悪い大人で、クララック卿にとってカロは悪い子どもだ。それでも、カロはクララック卿から直接聞き出す必要があった。それも、あの四人の大人に知られないように。
「……で、要件はなんだ」
「……」
「おい」
これを聞くのは、カロにとって格好悪いことだから、なかなか口が動かない。
「……──ンミ」
「は?」
「……ミンミは、元気にしてるのか」
クララック卿は二度、大きく瞬きをした後、
「ミンミ?」と聞き返す。今にも、存じ上げません、と言い出しそうな顔にカロはイライラした。ミンミったらミンミだ。あの劣悪な環境の店で、一番美しかった少女。なんですぐにわからないんだ。カロは手元の水をひっかけてやろうとグラスを掴んだ。
「ああ。花鈴妖精のミンミか。貴様と同じ売れ残りの」
「売れ残りって──ミンミを悪く言うな!」
グラスを振りかぶって、中身の水が勢い余って宙へ躍り出る。その水は不幸にもカロの頭上に着地した。カロはこんなところでも恥ずかしい。顔がぼっと熱くなる。
「……事実だろうが。可愛くない煩い売れ残りと美人で大人しい不人気商品、だったな。──ったく。よくもまあそんな分際で盗みなんてやってくれたものだ。……使え、カロライン。余計見苦しいぞ」
差し出された値が張りそうなハンカチを、刹那の逡巡の後に奪い取る。返さないで後で売っ払おう。
「おっ、オレのことはどうでもいいんだよ! ミンミは! どうだって言ってんの! クソ貴族!」
「知るかそんなもの」
「はあ? んなわけないだろ、おまえのとこにい」
「いない」
カロはぴたりと動きを止めた。心臓の中心から底知れない冷たさが広がっていく。その冷たさが思考すらも凍りつかせるまで長くはかからなかった。
「身請けたいって客がいたんでな。売った。白豚の紹介だ。どこの誰に買い取られたかは知らん。金さえ払ってくれればあとは興味ないしな」
「は……身請け、って」
「買取られたんだよ。うちの娼館にはもういない」
「じゃあ今どこに!」
「だから知らんと言っているだろう。白豚商会に問い合わせろ」
頭の中が真っ白になった。
カロは、いつかミンミを迎えにいくつもりだった。それは、カロが強くなったら。大人になって、男になって。何不自由なく暮らせる金と、どんな困難も苦としない力と、誰にも侵されない権力と名声を手にしたら。カロはまだ十二歳だ。十五歳まであと三年はかかるし、大人になっても、望む力を手に入れられるかどうか。それでもカロがミンミをクララック卿の娼館に置いてきたのは、ミンミがずっとそこにいると思っていたからだ。カロが知る限り、死ぬ前に娼館を出た子どもはいなかった。ミンミもそうだと思ったのだ。ミンミにはひどい客がついていなかったし、カロより年上ではありそうだったけれど、あと数年で死ぬような年ではない。だから、油断していた。ミンミはカロが強くなるまで、暗渠の住処ではあるけれど、ずっと生きてそこにいるものだと思っていた。のに。買い取られた? って、何だ。
これからどうしたらいいんだろう?
「──しかし、なぜ貴様がデミ・ブルーベルを気にする? あんな口も利けない、ロクな反応も返せない人形みたいなデミを。クスリを打っても鈍くて客足がわるくて……、おい、どうした……カロライン?」
じわりとぼやけるテーブルの木目を見て、カロは決して瞬きしまいと思った。目蓋を閉じたら溢れてしまう。強い大人は涙を見せてはいけないから、カロは泣いたりできない。
クララック卿が狼狽えながら何か言っている。でも、カロには聞こえていない。聞いていたくない。それは知られてはいけないから、聞かなかったことにするのだ。
「おまえ、ミンミが好きだったのか? まともに意思疎通もできない、あの人形みたいな──なあ、まさか、おまえ、あのデミのために盗みを企てたのか。娼館から逃げ出したのか? はあ、それは、おまえ──……」
馬鹿みたいだと言うのだろう。だから弱いのだと嘲笑うのだろう。だって。強い大人は誰かのためじゃない、自分のために行動する。その過程でたまたま他人を救えたりする。初めから誰かのために意志を持つなんて、軟弱だ。甘えている。だからカロはミンミのことを誰にも言わないでここまで来た。自分のことを第一に考えるから強い大人になれるのに。他人のことを考えて自分が強くなれるわけがないのに。でも、カロはミンミを一番に考えている。ミンミのために。好きな女の子のために強くなろうとしている。なんて、カロは恥ずかしい。
それでも、カロはミンミに会いたい。
蝋燭の灯りだけが頼りのそこはとても暗く、薄汚れていて冷たい。カロはぼろ切れを纏って唯一の温度に触れている。それは、彼女は、決して口を開くことはないけれど、折に触れてカロを見つめる。徒花を纏って、散らして、カロに寄り添う。寄り添う彼女の腕にしがみついて、縋りついて、カロは明日を待たない。今がずっと続けばいいのに、明日はやってきてカロはまた痛い思いをする。それが痛いのか、厭われるべきことなのかも曖昧になる前に。カロは決心を固めなくてはならなかった。それを促したのは紛れもない、カロを見つめる彼女の瞳だ。カロは折に触れて彼女を見つめ返す。
真紅の左眼、と。
花咲く空色の、妖精の右眼を。
1章はここまでとなります。ご愛読いただきありがとうございました。次章はとても短い章になりますが、その前に、キャラクター紹介を挟みたいと思います。5/10投稿予定です。豆知識もそこでまとめようと思います。
今回のエンドカードはだいぶ雰囲気が変わりましたが、次章からの空気感を出してみました。次章のエンカも似たような雰囲気で作成しております。お楽しみに。