1-05 仕組まれた屍人屋敷
カロは思わず身をかがめた──つもりが、バランスを崩してその場に転倒した。視界ではお星さまが点灯した。ちかちか点滅する。びちゃぐちゃどろどろべっちょり、腐肉が倒れたカロの全身にブチまけられた。最悪だ、と思った。
「……──ふぁひあおほっあ」
何が起こった、と言ったつもりだった。言えてない。視覚と平衡感覚と、ついでに猛烈な腐臭で嗅覚も潰れている。いや、これ、冗談じゃなく、マズいんじゃ──
「ホウッ……! カロ坊!」
狂った平衡感覚の中で上昇の風圧と、身体を支える腕の感覚を感じ取った。顔に当たるふさの感触がこそばゆい。テディか?
バタバタと忙しない足音がする。シャーリーのヒールの高い音。テディの金剛長靴の床を叩き削る音。祝福法儀の施されたズビの靴音はわずかにガラスの触れ合う音がする。モネの軍靴は空気を切る音だけ。さらに、ゴム底の吸い付くような足音。革底の摩擦音。複数で荒っぽい。他のパーティーがいるのか? だとしても、どうして冒険者が革底の靴なんか履くんだ。しかもその足音に怒りを感じる。
「モネ、あんた撹乱できる?」
撹乱って何を。
「無理ですねー、モネさんは火力専門なので」
そうなの? 知らなかった……。
走って移動しながら、なぜか大人たちは小声だ。だから、なんで隠すんだ。カロはムキムキの腕の中でイライラした。そしてハッとした。これはあれだ、お姫様抱っこの状態だ。カロは痺れる手足を暴れさせて今すぐやめるよう訴えた。こんな、女みたいな扱い。ふざけんじゃねえぞ。全然伝わらなかった。手足は芋虫程度にしか動かなかったからだ。
「んもう、だから引き返そうって言ったのよ」
「後の祭りだろ。問題はそいつをどうするかだ」
そいつ? そいつって誰だ。もちろん、カロのことだろう。まさか、動けそうにないしここに捨ててくっていうのか。それこそふざけるなだ。いったいいくら払ったと、
「おい、クソガキ」
よく知った足音が止み、知らない足音たちが遠くなる。ドアの開閉音を聞いたから、きっとどこかに立て篭もった。ここは安全だ、ということか。
にしても、ズビの声がかつてなく険しい。「やれやれですね」と言ったのはモネだ。モネまで、一体何を言いたいんだ。
「俺たちは金でてめえと契約してる立場だ。だからてめえがどこの誰だろうが、どうして一人で冒険者をやってんだとか、金さえもらえりゃ知ったこっちゃねえ。だが、てめえのせいで俺たちまで災難を被っちゃ黙ってられねえのよ」
「ふぁ……ふぉえおへいれ?」
呂律が回らない。けど、文句は言いたかった。だって、アンデッド屋敷の依頼が思ったより難しいのはカロのせいじゃないのだ。
でも、なんだか嫌な予感がした。
パチパチと光の弾ける音がした。ぐにゃぐにゃした模様が映る視界がぱっと明るくなった。それだけだった。
「ズビさんで治せないってことは禁制呪術じゃないですねえ。制限呪術です。条件を満たさないと解けない」
「……だろうな。禁制呪術なんてそうホイホイ使われてたまるか」
ズビは何かを知っているふうだった。何を知ってるんだ。まさか。あのことを? 嫌だ。知らないでくれ。知るはずがない。ズビたちを買ったマジャリス自治区は、あの場所からエレシド列車と馬車を乗り継いで一月半もかかった。強くなるためには、さもしい大人に邪魔されないためには。カロはひたすら遠くを目指すしかなかったのだ。だから、こんなところまで来て。
ようやく逃げ切ったっていうのに。
「──てめえ、俺たちを買った金、どこで手に入れた?」
「ふぁ」
「てめえみてえなクソガキがSクラスの冒険者をな、しかも四人だ。その金、どうやって調達した?」
「……ふぁ、ひ、は」
そんなのおまえらには関係ないだろ、とシラを切ることは簡単ではなさそうだった。それはズビの口調の険しさでもなく、テディの別人のような静けさのせいでもなかった。
近づいてくる革靴の足音の一つに総毛立つのは、その主がきっとカロを恨んでいて、間違いなく殺すだろうことを悟ったからだ。
カロは価値のない商品だった。
★
右を見ても左を見ても、そこに横たわるは死だ。屍よりも曖昧で巨大で虚な空間だ。それはうってつけである。最高の舞台だ。頽れ衰え腐り傷み、最悪の空間は手癖の悪いガキをひとり殺すにちょうどいい。オーブリー・モイーズ・イヴォン・ド・クララックは手頃な腐乱屍人を槌矛で殴りつけ、上機嫌に口笛を吹き鳴らした
「──いいや、ちょうどよくはないでしょう。どう考えたって旦那は過剰だ。わざわざ奴隷を殺して腐乱屍人に堕として、アンデッド屋敷を作るなんて」
たっぷりと腹の出た、撫でつけた髪が脂でギラつく年齢不詳の男。白豚だ。蔑称ではない。自らそう称するのだ。「卑しく肥えた商う白豚」だと。
「少々口が過ぎるな、ピギー。貴様も異種族堕ちするか?」
「グフ。旦那は過剰、いやはや、過剰だ。ですが、ワタシはそんな旦那を愛していますよ。槌矛の装飾に一級の宝飾職人を雇ったり、たかがガキ一人に本気になれる旦那をね」
「ただのガキじゃない。店の売り上げを掠め取ったクソガキだ。ロクに客もつかねえ欠陥品の分際で」
「ハッ。別にクララック卿の全財産を持っていたかれたわけじゃないんだ。貴族サマのお遊びみたいなもんでしょう? そんな端金──」
ヒュッ、と槌矛の先端がピギーの眼前に突き出された。腐肉と血がべっとりとついて滴るさまを、ピギーのヘッドライトの燐灯石が冷たく照らす。ピギーはなおも下卑たにやけ面のまま鼻で笑った。
「旦那は過剰、そして一途だ。そんな旦那のためなら、白豚は協力を惜しみませんよ」
「フン。そう願うよ」
広間の腐った木のテーブルにどっかりと腰を落ち着かせ、クララック卿は安煙草に火をつけた。先程殴りつけた腐乱屍人がグロテスクに再生して動きはじめている。核となる銀粘土を回収しない限り、異種族は無限に再生しうる。再生の度に凶暴さを増す。こいつの凶暴性を上げて、ガキの処理をこいつにやらせるのもアリか──と屍人の腰を殴りつけたところで、後方より声が上がった。
悲鳴が。
クララック卿はまず、快哉を叫ばんとした。思いとどまった。悲鳴の主は卿のよく知る配下のものであり、卿の獲物のそれではない。
「おい、ピギー」
「なんです?」
「貴様がこの屋敷に貼った呪符は確かなんだろうな」
「ええ、もちろん。魔術国家リコリスの地下で買った呪符です。対象の建造物内の人間を酔わせて五感を奪う呪符です。貼付した時点までに立ち入った人間を対象にするので、後から入った我々には無効というわけです」
「信頼できるのか?」
「白豚商会の名にかけて」
「本当なんだろうな」
「疑り深い御人だ。ワタシは『ガキとその連れのSクラス冒険者を気持ちよく甚振れる手配』を承りましたからね。旦那は『ガキ』と『冒険者』としか言わなんだ。よって、『人間』を対象とした手段を用意しましたよ? ……フム、──ま、そういうわけですから。今後ともご贔屓に」
「なッ……おい、おい待てピギー!」
恭しく一礼するピギーの姿がヘッドライトの灯りの中で揺らいで消えた。そうしてクララック卿はようやく理解する。白豚め、嵌めやがったな! クララック卿は槌矛を振り回してピギーを探し回った。まさか禁忌魔術の空間転移を使用したわけでもあるまい、ただ姿を隠しただけだ。まだそこらにいるはずだ。足音をたどれば──
「……──ッ」
爆発音がクララック卿の鼓膜を突き破った。
刹那に垣間見た閃光は純白、轟音は雷のごとく、さらには瓦礫が崩れる雑音。一部の屋根と階上の床が崩壊したのか、粉塵立ち込める屋敷にわずかに光が差し込んでいる。
爆発? 爆発だと? ガキの連れの魔術師が動けているのか? クララック卿は首筋に冷や汗が伝うのを感じた。次いで、怒りを滾らせた。自身の計画が狂わされることは我慢ならなかった。
この日、クララック卿と同行しているのは卿の側近、そして事情を知る友人が数人だ。基本的な武術の心得はあるものの、所詮は貴族の嗜み程度。武人ではない。万が一Sクラスの冒険者と交戦となれば敗走は必至。片道一月半の長旅に私兵を率いるわけにもいかず、また、子ども相手に出兵となれば卿のプライドが許さず、秘密の遊びの始末であるから周遊を装い表沙汰にはできず。こうした制限の中で白豚から言い値で呪符を買ったのだ。それが、「『人間』を対象とした手段」を用意した、だと? よくもぬけぬけと、知っていたものを!
方々に散って獲物を探していた仲間が続々と広間へ戻ってくる。「オーブリー!」「クララック卿、お怪我は!」「何事ですか、オーブリー様!」「クララック卿!」「旦那様……!」
広間にやってきたのは知った顔だけではなかった。
呪符により五感を奪われたはずの四者四様のSクラス冒険者たちが、何食わぬ様子でクララック卿の前に現れた。
その中で唯一の女が気怠げに口を開く。
「あらやだ、ホントに貴族様? 下品な遊びが好きそうなツラじゃない」
計画を狂わされ、低俗な女に侮辱され。
けっして寛容ではないクララック卿が業腹に怒鳴り声を上げるまで、寸刻も必要なかった。
「者ども! かかれ……ッ!」
次回「子どもなんだから」
5/3投稿予定です。
<世界を救わない豆知識:軍事魔術>
カロたちの生きる世界では、魔術は一般的な技術として流通しています。しかしながら、人間の魔術にはいくつかの禁忌があり、その一つに「生命損壊」があります。禁忌にはそれぞれ所定のペナルティが存在します。そこで、軍事魔術とは、「禁忌と代償」の法則を掻い潜るための手順により、ペナルティを負わずに「生命損壊」即ち魔術による攻撃を行使する魔術となります。