十八、
南のスマートフォンに棚木から着信が来ていたのは三週間ほどした九月の末であった。向日葵たちと情のある関係になったばかりに交換したその登録名に安堵の気持ちを起こしたのは本人には不覚であった。
山手線の電車に揺られ、行先の駅まで乗っている間は思考の裏にいるのは元気な姿の棚木の姿とその笑顔に潜んだ影であった。
着いた場所は喫茶店であった。茶色いレンガの壁と青い瓦で建てられたその明治めいたかしこまった風貌に彼は入ることを躊躇ったが、勇気を出して中へと入った。
中へ入ると黒木材で作られたのカウンターが構えていた。店員は歓芸の笑みを称えて、奥へ案内をした。南は好感をその店員に持った。
案内された席は大きなL字型のソファで、南が座った背後の壁一面には昭和を思わせるレトロな絵が描かれていた。
「大きな絵だな」
「でしょ、この雰囲気変わってるよね」
圧倒されている南を驚かせたのは、棚木だった。棚木はソファの端に腰掛け、斜め左のど真ん中に座った南を見た。
「意外と離れているんですね」
「そりゃあ、男同士がくっついていたらむさ苦しいからね」
ごもっともなことを言いう棚木に苦笑しながら絵を眺めていると、棚木は自身にコーヒーを、南に水を頼んだ。
恨めしそうに見たあと、棚木が貧乏なのを知る南は珈琲モカを注文した。
「優しいね」
「別に、自分のものは自分で頼むのが礼儀ですよ」
「はぁん」
珈琲を燻らせながら、明後日の方を向く棚木に南は拗ねた顔をしてモカ珈琲を待った。
モカ珈琲は酸味が強く、南には苦すぎた。
「なんだ、ラテみたいなものだと思ってたら」
「ふっ、子供だね」
棚木は馬鹿にした顔で、手元の珈琲を難なく飲んでいる。
「よくいうよ、砂糖四個も入れてたくせに」
それには棚木は応えずに話の続きをした。
「僕さ、最近毎日カレンダーを見てるんだよね」
「・・・・・・カレンダー? 」
「そう、可憐だーなんて」
ケハケハと笑いながら棚木は言うので、冗談だと受け取った南は白けた顔で「親父ギャグとか・・・・・・」と言いながら最後には笑ってしまった。
「・・・・・・それで、どうしてカレンダーを見ているんですか? 」
その問いをした時、棚木は白けた目をそちらに向けてまた笑った。棚木はよく試すように南を見やったりした。
「向日葵ちゃんって可愛いよね」
その言葉に、南の顔が血を気を引いたように
蒼白となった。棚木は冗談だと笑ったが、南は相手が相手なので笑える余裕を見出せなかった。南はこの男が向日葵を殺すのではないかと、予感してしまったのであった。
喫茶店を出て、棚木と同じ電車に乗り帰っていく。山手線の中で棚木はくだらない意味のわからないことをたくさん話していたがどれど頭に入らなかった。
「あの、なぜあの時向日葵が可愛いよねと言ったんですか? 」
「あれ、わからない?」
「わかりませんよ、あんな話の途中でいきなり」
棚木は可愛いから可愛いと言ったんだよと、言ってそれについてはなにも言及はしなかった。だが南は安心はできなかった。
「まさか、殺しませんよね? 」
その質問に、どうだと思う? と棚木は聞き返した。
「正直、信用できないなと思っています」
棚木は声を出して笑った。夕方は密集率が高い山手線は、今日も混んでいた。隣に座っていた利用客が南の方を凝視したので笑って誤魔化すしかなかった。
棚木はひたすら笑って、悲しい顔をした。南はその顔が得意ではなかった。静けて、澄んだ瞳が向日葵に似ていたからだ。
「君も、僕を疑うんだね」
南は返答に窮した。しばらく手元を見て、なにも話さなかった。隣の駅に着いた時に、ようやく棚木を見ると綺麗な顔で眠ってしまったいた。改めて見ると、可愛らしい顔をしているなと男である彼でも思った。
山手線から地元へと帰る大手私鉄へ乗り換えると、棚木はもう何も話さなかった。南が何かを話そうとしても、応じなかった。南は急に寂しくなり、押し黙った。
電車を下り、多なぎと別れると雨が降り出した。天気予報は外れて、側にあるコンビニへ入ると透明傘を買った。
「いつも、何かあると雨が降る」
静かだった雨は彼が歩みを進める内に強くなっていった。暗い色の雲が空に増えて、次第に唸るようになっていった。南は歩みを早めた。
胸騒ぎがしてならなかった。事がどちらへ行こうとしているのか、全く掴めなかったからだ。
自宅の玄関へ入ろうとする時、南は振り返る。そこに棚木の姿がないのを確認すると、顔を落ち込ませて中へと入った。
家に上がり階段を上る。母の夕飯の食べる食べまいも、後でと終わらせて自室へ入った。ベッドの上にスマートフォンを投げ捨てる。同じタイミングで向日葵の名前が表示された。アプリを開くと、向日葵から雨が降ってるから傘を渡しに行きたいという言葉だった。
「もう遅いってば」
彼女の心配が嬉しくて顔が綻んだ。それと同時に多大な不安が雲のように押し寄せてきた。




