十五、
「あなた、どうしましょう」
「大丈夫だ、まだ一時間も経っていないじゃないか」
主に心配しているのは母親であった。父親は達観した様子で新聞を開いている。ちょうどその角に引きこもりという見出しの記事を見つけた。
「ちょっと、様子を見に行こうか」
母は行きましょう、と立ち上がり居間を出て歩く。父も重たい足音を響かせながら、書斎の前で立ち止まった。
書斎は元は目の置き部屋であった。それを小学六年生の頃に父親に「お父さん、私に書斎を下さいと頼み込んで、その中にあった物を玄関を出てすぐ右手にある倉庫に移動させた。それらのものはいずれも使い勝手のないものであった。
「おい、向日葵。一度出てきなさい」
向日葵はあっさりと出てきた。その時に母の泣きじゃくる顔が見えたのでぎょっとした表情を見せた。
「ほら、私の言う通りじゃないか」
父親は珍しく笑って、満足気に居間に戻っていた。書斎の懐かしさを、するめを噛むように楽しんでいてた。
残された母と向日葵。沈黙。母が神妙な面持ちで「小説を書いているの? 」と尋ねる。
「はい、書いています」
「どんな小説を書いているのですか? 」
沈黙。母は重い空気の中「欲しいものはない? 」と向日葵の目を見た。向日葵は生涯、母と目を合わせるのが苦手だった。だが、その目には強いものがあり、頷いた。
「パソコンをください」
母は感泣した。あの百点のテスト以来、向日葵は母に何も自分のことを言わなくなった。向日葵は泣いている母を見て、喉に刺さった魚の骨のように突っかかった言葉を吐いた。
「泣かないでください。私は、幸せです」
母は何が尊いものを見るように、向日葵を見つめて笑顔になり「ええ、向日葵のしたいことを母は応援します」とパソコンも買ってあげるわ、と言って居間と戻っていった。
その瞬間、向日葵はその場に崩れ落ちた。足と腕まで緊張で震えている。それでも、内心で喜んでいた。パソコンもそうであるが、母親が欲しい物を買ってくれたことがないからだった。
秘密基地で、アンと南に向日葵はこのことを伝えた。よかったなぁ、とアンは頭を撫でて祝福した。南も、よかったじゃんと笑う。
向日葵が太宰治を読み始めると、二人は顔を合わせて無言の笑顔を浮かべた。
ほんとうにひまわりが咲いたように明るくなった友人の姿。今までの苦しむ姿を見ていただけに、アンと南は密かに涙を拭った。
南はしみじみとしていた。自分の恋する人は、その澄んだ瞳に光を見せ今夢へと歩き出している。もう胸を痛めることはない。否、胸のむずざゆさは消えることはなかった。「中性・・・」
実際、そのことをまだ理解できてなかった。いや、できないのだ。と南は肝に銘じている。人なんて誰でもそうだ、他人に人の気持ちが分かるわけがない。自分の気持ちを理解させるには時間のかかることだ。それは相手にもそうだ。と南はそこまで思いを巡らせた。
「どうすればいいのかな」
夏目漱石と無理矢理向かい合って、ページを進めた。かじかんでページがめくりづらい、彼は我慢してそこ一点を見つけなければならない。それ以上に彼の気持ちを紛らわす方法はなかった。
向日葵は毛頭、南のことは眼中になかった。小説を書くのに一途で周りが見えていない。学校に行き課題を家に連れて帰り、一時間で終わらせて小説を書く。
休憩がてらコーヒーでも飲もうかと立ち上がり、台所でコーヒーを燻らす。実に優雅だと一人で笑った。書斎に戻り回転椅子に座り込んで、脚を組みコーヒーを飲む。机の前にある窓から、尻尾の青い鳥を垣間見た。
向日葵はその椅子で、常に回想してしまう。今までは苦しい思い出ばかりだったが、思い出すのは田中らも含めた友人たちの顔で人間関係も少しはいいかもしれないと思い始めるほどであった。
翌日、久しぶりに田中らが訪問に来た。自ら向日葵がドアを引けば当然のごとく入っていく。そんなことにはもう気にせず、客間ではなく縁側に通した。
風がなく、日和だったのでそこで彼らはのんびりと時々話しながらいた。母は笑顔で「いつも向日葵をありがとう」と茶菓子を置いていく。田中らは顔を見合わせたあと、もう先に進んだ向日葵の母親にありがとうございますと言った。
「あの母さん優しくなったな」
田中は認めたように言った。佐藤も首を縦に振る。そうだね、と向日葵を見た。
「パソコン買ってくれるって言われた」
向日葵は顔には出さず嬉しそうに言った。佐藤は、南を一度見てからふんわりと笑った。




