君の向こうに朝陽をみる
目が開いたので、朝だと思った。
案の定、瞼を透かして部屋を白く照らす陽光がベッドの上から壁の隅まで満ちていた。自然と冴えていく頭を緩慢と起こしてベッドを降りる。充分すぎる距離をあけた隣りのベッドには君(彼女)がいた。先程まで続いていたであろう責務を果たし、穏やかな寝顔を浮かべている。わたしは、リノリウムの白い床にそっと足を下ろして彼女の脇に立った。ややくすんだ蜜色の豊かな髪をシーツに流し、ごくごく浅い呼吸にその薄い胸を上下させているのが窺える彼女の寝顔を眼下に収め、シーツに同化しそうな、それでいて柔らかな乳色をした肌が確かにそこに生きていることを確認する。
毎朝のことだった。毎朝、日の出と共に目覚めるこの眼に彼女を映し、その生命が今日も永らえていることを確かめるのだ。もっともふたつの寝台を収めるのみには広すぎるこの空間の、約八割を占める巨大で荘厳な厚いガラス窓の向こうに陽の光が満ち、足元の遥か彼方に人々の暮らしが繁栄しているのであれば、彼女の息吹もまた健在であることに繋がるのだが。
かすかに薔薇色を湛えた小さな頬には触れることはできないので、その表面にごく薄く張られた被膜越しに指先を滑らせた。もうどのぐらい彼女と言葉を交わしていないのか、その正確な時数さえも忘れてしまった。数えることすらしなくなって久しい。当初こそ悲観していたが、近頃は彼女の声を思い出せるうちはまだ精神の安寧は守られると思えるようになっていて、毎朝目覚め落日と共に眠るまで、できるだけ彼女の寝姿に思い起こせる限りの声を重ねて過ごす。
ここに来るまでの決して多くはない私物の中に朝露をまとう花の呼び鈴があり、彼女の声はその美しく濡れたような鐘の音に似ていた。その声でわたしの名前を呼ばれることの、どれだけ幸福だったことか。彼女と連れ立ってここに来た時にそのほとんどは取り上げられてしまったが、こうして彼女の寝姿を眺める時間の中で、彼女の声と共にその呼び鈴の愛らしい音も記憶に留めておくことができている。
わたしは彼女の寝台に取りつけられた小さなランプが正常値を示す色を保っていることを確認してからほとんど音を発しない床を滑るように窓際に移動した。わたしの体にも不可視の被膜が施されていて、外的接触はほぼできない。服や経口薬など決められたもののみがわたしとその他を繋ぐ媒介である。きんと耳を苛む耳鳴りさえない静寂を聞きながら、幾重にも層を成した窓ガラスが歪める眼下の世界を見下ろす。
わたしと彼女がここにいて、そうして守られている平穏が広がっている。
ここからでは、広大な深い森と、その合間に滲んだ模様のように栄える文明とが辛うじて確認できる程度だ。それでも今日も滅びずにそこにあることはわかる。なぜならわたしと彼女が今日も、こうしてここにいて、生きているから。地上にいた頃は手が届かないと思っていた鳥たちさえ及ばないこんな場所で、ふたりきりで、それでいて言葉もなく、ただ存在している。そのことに込み上げる涙さえ枯れる程、長い時間。
わたしはひとりきり、長い日中をやり過ごす。夜明けを含んだ朝の白い光りが色をまとい、人々の生命のように色濃く輝いてゆっくりと夜に溶けていくまでを見守り続ける。いわばわたしは太陽だった。そして彼女は、夜でありそれを照らす月である。わたしが自然と瞼を下ろして眠りに就く傍らで、そっと目を覚ます夜の眼差し。
夜闇にまぎれる獣の吐息も、街の灯りも届かないこの場所でひとりきり、彼女は、どのようにして夜を過ごしているんだろう。わたしは見たことがなく、また知る由もないことがこの上なく悲しい。わたしの記憶に残るあの美しい原石のような瞳で、何を見るのだろう。その瞳を夜露に濡らしてはいないだろうか。わたしにできることは何もないに等しい。光りと、そして時間によって構築されたこの身はただ、この世界のためという大儀でのみ永らえ、息をすることを許されている。
つと振り向いて、静かな寝息に目線を投げる。眠りの中での身動きというものがないわたしたちなので、彼女もまた先程から微塵も身じろいだ様子はない。とりとめもない夢想も膨大な無為の時間の前では一握の砂にも劣る些事だ。文字通りの無限とも思える時の流れを神のように感じながら互いの肉体以外、何もないここで、ずっと。ただただ存在し続けるわたしたちというもの。永遠にふたりだけの世界で、互いだけを確かにここにいるという証明として、声を聞くことも話すことも触れることも叶わないまま、この世界の端で。
彼女は夜に何を思うんだろう。物言わぬわたしを前に、何を思っているのだろう。わたしが思ったのと似たようなことを思っていてくれたなら、それ程幸せなことはないと思う。
目の前にいるのに、たまらなく彼女が恋しくなり、わたしは手放しかけていた涙をそっと落とした。