弱いものが奪われるのみの世界で、せめてあなたを守れるくらい強く生きたい
狐はお腹を撫でて、舐めました。
ポッコリ膨れたお腹の中には赤ちゃんがいます。
大事に育ててきた命。
狐は愛おしくて、愛を注ぎます。
産まれたら、愛情深く育てよう。
一緒に森を散歩して、狩りの仕方を教えよう。
一緒に巣穴で丸まって、満月の下で眠ろう。
狐は想像をして、そして、愛を注ぐようにお腹を撫でて、舐めました。
満月が綺麗で、落ちてきます。
巣穴には生温い空気がこもって。
ザシザシ。
狐がウロウロする足音が響きます。
体に痛みが走り、お腹の内から圧がかかります。
今日、産まれる?
今夜、産まれる?
口から吐息が漏れて。
口元が震えて、牙が鳴って。
ああ、今夜、産まれる。
あたしの赤ちゃん、もうすぐ会えるんだ。
巣穴に降り注ぐ月光が儀式めいた雰囲気を醸し出してます。
狐は声をあげることなく、痛みに耐えて、3匹の赤ちゃんを産みました。
痛みで体が動きません。
力をいれることができないのです。
でも、深く息を吐いて、ゆっくりと四肢を立たせます。
目元が目やにで濡れて、泣いているようにも見えます。
赤ちゃんの体からは湯気が上がっています。
狐は赤ちゃんを鼻で押しました。
狐は赤ちゃんを舌で舐めました。
狐は赤ちゃんを甘噛みしました。
でも、赤ちゃんは動きません。
でも、赤ちゃんの声が聞こえません。
でも、赤ちゃんの呼吸が見えません。
無音。
静寂。
緩く風の流れる音だけが聞こえて。
満月が落ちてくる音だけが聞こえて。
狐は声をあげて、泣きました。
満月が落ちてきて、山陰に静かに隠れていきます。
狐は泣いて、泣いて、泣き尽くして、3匹の赤ちゃんがもう死んでしまっていることを知りました。
何度も鼻で押しても。
何度も舌で舐めても。
何度も甘噛みしても。
赤ちゃんが動くことはありません。
湯気が上がるほど、熱かった体ももう冷たくて、硬くなっています。
狐はずっと赤ちゃんを抱きしめて。
ごめんね。ごめんね。
と謝って、泣くしかありませんでした。
満月の姿はもうありません。
太陽が天を目指して、上ってきています。
せめて綺麗な寝わらで眠らせてあげたい。
狐は汚れた寝わらを取り替えるために巣穴を出て、森を急ぎます。
狐が朝露の雫の滴る寝わらをくわえて、巣穴に戻りました。
でも、巣穴の入り口で動けなくなります。
血の匂い。
巣穴から生温い空気が流れ出て。
狐に絡みついて。
この世界の掟。
弱いものは奪われるのみ。
そんなことは分かっているけれど。
あたしの赤ちゃんは。
あたしの赤ちゃんは。
狐は巣穴の前でずっと泣いていました。
満月が登るまで。
満月が沈むまで。
涙が流れ続けました。
狐は悲しみが消えるまでずっと歩き続けました。
山を下りて。
川を渡って。
谷を越えて。
たどり着いたのは人里。
人間に狩られて、死んでいくのもいいだろう。
あたしには失うものはない。
狐が行くあてもなく歩いていると、目の前にダンボールが現れます。
カサカサの鼻で。
カサカサの爪で。
ダンボールを押して。
蓋がバサッと開いて。
にゃーにゃー。
それは子猫の声。
涸れ果てた涙に。
月の雫が舞い降りて。
狐は子猫を拾いました。
子猫は生まれつき目が見えません。
人間が入れておいてくれた餌と水で飢えをしのいでいました。
夜がくれば、眠って。
朝がくれば、起きて。
ダンボールの隙間から差し込む光。
そんなほのかな光だけが頼りでした。
その夜、バサッと音がして。
その夜、月の雫が舞い降りて。
子猫はダンボールの外に出されます。
狐は子猫をそっと舐めて。
狐は子猫をそっとくわえて。
嬉しそうに歩いていきました。
狐は山には戻らず、人里近くの林に巣穴を作ります。
寝わらを積んで。
子猫のベッドを作って。
そっと子猫を抱き締めます。
そこは狐と子猫だけの世界。
子猫はというと。
狐を母猫と思って。
その乳を吸って。
ずっと甘えています。
狐は赤ちゃんを失ったけど、子猫を得ました。
子猫は人間に捨てられたけど、母を得ました。
奇妙なパズルの一致。
しばらくして、狐は子猫の目が見えないことに気づきました。
でも、そんなことはどうでもいいのです。
狐が子猫の目になればよいのです。
狐は子猫を尻尾で遊ばせて。
子猫は狐の尻尾にじゃれついて。
林の中に嬉しそうな子猫の声が響きます。
あっ、子猫だ。
あれ、狐だ。
人間の子供です。
人里近くの林には人間の子供も遊びにきます。
そして、狐と子猫は見つかりました。
狐と子猫の親子だ。
おっかしいの。
でも、テレビで猿とうり坊の奴、あったよね。
じゃあ、狐と子猫にもテレビ局、来るかな??
きっと来るって。
芸能人とかも来るよ。
きっと。
狐には人間の言葉が分かりません。
でも、警戒して、子猫を尻尾で隠して、巣穴へと飛び込みました。
ザワザワ、ガヤガヤ。
ザワザワ。ガヤガヤ。
しばらくすると、狐の巣穴のある林に人間が群がるようになりました
狐が子猫を連れて、出かけると、必ずついてきます。
そして、狐と子猫に眩しい光を当てます。
狐は眩しい光を嫌って、人間に唸ります。
でも、人間が怯むことはなく、狐と子猫に押し寄せてきます。
狐は子猫を守るため、幾回も巣穴を変えても無駄でした。
威嚇のために人間に飛びかかっても無駄でした。
人間は狐と子猫に眩しい光を当て続けます。
狐と子猫だけの世界だったのに。
しばらくして、狐も子猫も人間の存在に慣れてきます。
人間がくれる餌も食べるようになって、狐は狩りにいく必要がなくなりました。
正直なところ、これには狐も助かりました。
目の見えない子猫では狩りもできなくて。
そんな子猫を置いて、狩りにも行けなくて。
でも、人間の餌があれば、狩りをする必要もなくなります。
だから、狐は狩りにいくのをやめました。
世界は次第に変化して、狐と子猫だけの世界ではなくなりました。
狐と子猫以外に人間がいます。
でも、狐から子猫を奪うわけでもないので。
でも、子猫から狐を奪うわけでもないので。
ただ眩しい光を狐と子猫に当て続けるだけなので、狐も子猫も気にしなくなります。
あっ、ミイちゃん。
TVに映る子猫を指差して。
あれ、ミイちゃんだよ。
ママのスカートの裾を引っ張って。
え?ん。え?ん。
子供が大きな声で泣いて。
ママは困って、TVを消しました。
満月が空に浮かび上がって。
巣穴に光が差し込みます。
狐は愛おしく子猫をくるんで。
子猫は安らかな寝息を立てて。
狐と子猫の世界が過ぎていきます。
狐は毎日が幸せでした。
子猫がそばにいてくれて。
子猫の母として、この世界に生まれて。
子猫も毎日が幸せでした。
狐がそばにいてくれて。
狐を母として、この世界に生まれて。
この世界の終わりなど考えもつきませんでした。
ミイちゃん。
ミイちゃん。
人間が子猫を捕まえて。
狐は網で押さえつけられて。
子猫も狐から離れまいと暴れますが、カゴの中に押し込められて。
狐も網を咬み破ろうとしますが、押さえつけられて、うまく破れません。
そして、子猫のカゴがどんどん遠くへ消えていきます。
狐と子猫の泣き声が林中に響いていました。
痛っ!
人間が思わず網を離します。
狐が人間の手を噛んだのです。
するりと網を抜けて、狐が泣きながら飛び出して。
凛と耳を立てて。
子猫の声を探します。
確かに聞こえました。
狐には子猫の泣き声が。
カゴの中で。
必死に暴れて。
お母さん。
お母さん。
と、狐を呼びました。
狐は微かな泣き声を頼りに林を走り抜けていきます。
子猫を積んだ車が山道を走ります。
TV局の人が運転しています。
ミイちゃん。
ミイちゃん。
子供がカゴを覗き込んで、無邪気に笑います。
一方、ママは窓の外を眺めて、溜め息をつきます。
生まれつき目も見えないから、捨てたのに。
たまたま見ていたワイドショー。
狐と子猫の親子の映像。
映ったのはミイちゃん。
目の見えないミイちゃん。
あたしが捨てたミイちゃん。
ママはまた溜め息をついて、窓を開けました。
キイイイイイイイイイイイ・・・。
空を切り裂いて。
狐の泣き声が車の中を貫いて。
狐が車の前に飛び込んで。
狐が車に跳ねられて。
パン。
渇いた音がして、狐は山の中に飛ばされて、消えていきます。
TV局の人は車を止めないで、アクセルを踏み続けます。
ママは急いで、窓を閉めて、子供を抱きしめます。
ミイちゃん。
ミイちゃん。
子供が無邪気に子猫を呼んで。
指が子猫のカゴの鍵に引っかかって。
カチャリ。
小さな音を立てて。
カゴの扉が開いて。
静かに子猫が出てきます。
子供だけが無邪気に。
ミイちゃん。
ミイちゃん
と呼んでいて。
TV局の人とママは引きつった顔をして。
キャアアアアアアアアアア。
子供が突然、悲鳴をあげました。
子猫が子供の顔を引っ掻いたのです。。
よくもお母さんを。
お母さんを。
狭い車の中でTV局の人もママも子猫にたくさん引っ掻かれて、たくさん噛みつかれました。
ようやく止まった車。
子猫は車を飛び出して。
お母さん。
お母さん。
と、狐を探します。
子猫には目が見えません。
守ってくれる狐もいません。
危険なのは百も承知です。
でも、狐を探して。
山をさまよって。
きっと狐に会えるのは奇跡です。
そんなことは知っています。
そんなことはどうでもいいのです。
だから、怯えることなく。
子猫は狐を探します。
お母さん。
お母さん。
きっと奇跡です。
こんなところで狐に会えたのは。
狐は木の根っこを枕にして、横になっています。
口から血の泡を吹いて。
腹から艶々した内蔵がこぼれて。
お母さん。
お母さん。
子猫は狐に頬をすりよせて。
お母さん。
ねえ、お母さん。
そう繰り返して、泣きじゃくります。
狐は何か喋ろうとしましたが、血の泡が口から出るばかりで、言葉が出てきません。
だから、力を振り絞って、尻尾で子猫をくるみます。
狐は思いました。
このまま。
ずっと。
こうしていたい。
でも、狐の意識はしだいに薄れていきます。
子猫は狐の尻尾にくるまって、泣きじゃくりながら、疲れて眠ってしまいます。
狐は知っていました。
狐の血の匂いを嗅ぎ分けて。
山の動物が近づいてきていることを。
木の影から狐が息絶えるのを待っていることを。
弱いものは奪われるのみ。
この世界の掟。
そんなことは知っている。
でも、弱いものが奪われるのみの世界だから、あなたを守れるくらい強く生きたかった。
狐はもう何も見えていない目を無理やり見開きます。
そして、狐は目を開けたまま。
木の陰を睨みつけたまま。
子猫を尻尾でくるんだまま。
静かに息絶えました。
【おしまい】