待ち人来たる
木村さんは独居老人の身である。
――飽き飽きするほど生きちまったな。早くお迎えが来りゃあいいのに。
最近、そんなことをよく思う。
平均寿命を過ぎたゆえか、生きることへの執着が薄らいでいるのである。そうではあっても、あえて自分からあの世に行こうとは思わない。
日々、ただなんとなく過ごしている。
この木村さん。
独身を通したので子供はいない。兄弟姉妹もすでに他界しており、今はアパートの一室でひとり淋しく暮らしている。
――ワシが死んだら、だれが……。
そんなことも思う。
だれが亡き骸を見つけてくれるのだろう。
定期的に部屋を訪ねてくる者は回覧板をまわしてくる隣の部屋の住民ぐらいで、訪問者は週に一度あればいいほうである。
淋しいもんだと思う。
それにだ。
近頃とみに、物忘れがひどくなってきた。今朝も必死になって眼鏡を探すのだが、どこに置いたものだかさっぱり思い出せない。
――こまったもんだ。
今日は病院に行く日なのだが、眼鏡がなくてはなにかと不便、とくに外を歩くときは危ない。つまずいて転んだりしたら痛いだろうし、それに骨折して入院となれば一大事である。
かといって。
年金生活の身分では、失くすたびに新調するわけにもいかない。根気よく探すしかないのである。
――帰ってから探すか。
木村さんはついにあきらめて、本日は眼鏡なしで行きつけの病院へと向かった。
ここ三年ほどは週に一度、持病である不整脈の診察のため、近くのかかりつけの病院に通っている。三カ月に一度の定期検診のほかは、簡単な診察を受けたあと薬をもらって帰るだけだ。
病院の待合室でのこと。
木村さんは興味深い話を耳にした。近くに座っていた者たちが声高に話していたのである。
その話によれば……。
木村さんが通院に使う道路から、いくつか奥まった通りに小さな神社があるのだが、そこでひと月ほど前からおみくじが売られ始めたという。
それだけならなんということはないのだが、そのおみくじが実によく当たり、十中八九は的中するというのである。
――なんで、そんなに当たるんだろうな?
木村さんは不思議に思いながら、耳をそば立てて話を聞いていたのだった。
これまでも何度か、木村さんはその神社の前を歩いて通ったことがあった。
背丈ほどの赤い鳥居がひとつ。
そこから奥へと続く細い参道があるだけで、肝心なお社の姿は道路からは見えない。しかも周囲には民家が立ち並んでおり、もし鳥居がなければ、その奥に神社があるとは気がつかなかっただろう。
そんな名も知れぬ小さな神社なのだ。
――帰りにでも……。
病院からの帰り、木村さんはおみくじを買ってみることにした。とくに信心深いわけでもないのだが、おみくじの占いで眼鏡探しをと思ったのである。
木村さんは鳥居の前に立った。
すぐそばに、鳥居と同じ朱色のおみくじの販売機が設置されてある。小さな無人の神社のこと、おみくじは自動販売機で売られていたのだ。
一枚三百円。これで眼鏡が見つかるならば、新しく作り直すよりはるかに安上がりである。
小銭投入口に百円玉三枚を入れ、木村さんは自分の干支のボタンを押した。
ガシャ。
下の受け皿にカプセルが落ちる。
おみくじは折りたたまれ、透明のプラスチックのカプセルに入っていた。
この場で開いて見るのもはばかれる。家に帰ってからゆっくり読もうと、木村さんはポケットにカプセルをしまいこんだ。
と、そのとき。
「ありがとうございます」
背後で声がして、若い男が笑顔で歩み寄ってきた。
「よく当たると聞いたもんでね」
「おかげさまで、お客様にはずいぶん喜ばれているようです」
「では、ここのおみくじはお宅さんが?」
「はい、こうして会社からときどき補充に」
男が大きなカバンを見せる。
それには社名が印字されており、男は自販機を設置した会社の従業員だったのである。
そうと知ったところで。
この従業員ならわかるかもと、木村さんは疑問に感じていたことをたずねてみた。
「十中八九的中すると聞いたんだが、なんでそんなに当たるのかね。中にコンピューターでも?」
「いえ、コンピューターだなんて」
「なら、なにか特別なことが?」
「会社の裏事情のことになるんで、ちょっと申し上げにくいんですが……」
男はそう前置きしてから、おみくじの内容はどこのどれも同じであると話した。
「では、ほかの神社のものとも?」
「はい。うちの会社、あちこちの神社に納品しておりますので」
「では、ここだけよく当たるというのは、いったいどういうわけなんだろうね?」
「それはわたしにも。もしかして、お客さんの気持ちってことなんじゃないかな」
「気持ち?」
「ほら、当たるといううわさが、さらに当たるといううわさを呼んでですね。なんだか自分も、ほんとに当たったように思えてきて」
「そんなものなのか」
木村さん、ずいぶんとがっかりである。
「いえ、もちろんそれだけじゃ。そもそもですね、おみくじそのものが、だれにでも当たるようになっていますので」
「それはどういうことなのかね?」
「たとえばですね。おみくじには商売、学業、それに恋愛だとか、いろんなことが載っています。そのうちのひとつでも当たれば、当たったという心理になるんだと思いますよ」
「たしかに、そういうことはあるな」
「それにほとんどの人が、学業や相場なんて関係ないんで、はなから読みませんのでね」
「学業は学生なら見るだろう。それで、みんなが当たるってことはないはずだが」
「それが当たるようになってまして。たとえば、努力すれば希望が叶うってあれば、それは全員に当てはまりますからね」
「志望高に受かれば努力が実った。落ちれば努力が足りんかった、そういうことだな」
「そうなんですよ。占いの予想とその結果を、なになにすればというふうにしておけば、たいていは当たることになりますので」
「書き方ひとつということかね」
「はい、賭け事だってそうです。今は手を出すべからずなんてしておけば、大半の者が負けますので、これも当たることに。つまり賭け事なんかしなきゃよかった、そういうことになるんです」
「なるほどなあ」
よくできているもんだと、おみくじに秘められた巧妙さに、木村さんは大いに感心した。
同時に落胆もした。
ようは眼鏡なのである。
努力すれば叶うなんてあっても、ただひたすら探すだけのことで、これといってとくに努力のしようがない。だいいち学問や仕事じゃあるまいし、失せ物探しに努力なんて文句はなじまないのである。
それにだ。
失せ物は出ず、なんて書かれてあったら……。
探す以前に、行方知れずの眼鏡はあきらめろということになるではないか。
「すみませんねえ。買ってくださったのに、ペラペラと夢のないことを申し上げて」
男が笑ってみせる。
「いや、いや、こっちこそ。長いこと仕事の邪魔をしたようだ」
では失礼と、木村さんは男と別れて家路を急いだ。
木村さん、さっそくおみくじを開いた。
運勢は小吉。
冒頭、なにやら書いてある。
目を通すに……。
『晴れ渡る月の光にうれしくも、行く手の道のさやかなりけり』
これを読んだだけでは、どういった運勢なのかよくわからない。それを見越してか、すぐ下の段に注釈が記されてあった。
『暗い道も月がさし明るくなるが如く、幸い次第に加わる運です。あせらずさわがず静かに身を守り、進むべき時に進んで、何事も成就すべし』
――ぼちぼち進めということだろうな。
木村さんはふむふむとうなずいた。
続いて個別の運勢。
まずは『失物』を見た。すると『高いところから出る』とある。
高いといってもいろいろある。それに、どれくらい高い所なのかもわからない。だが、『出ない』ではなく『出る』とある。
――よかったな。
木村さんはひとまずホッとした。
とにかく高い所を探せば出るらしい。あとでぼちぼち探してみようと思った。
続いて気になる『病気』だが、これは『信心すれば平癒す』とある。
つまり神頼みということなのだろう。
――こればかりは当たらんな。
木村さんはずいぶんあきれた。
不整脈が出て長いことになるが、症状としては動悸と息切れがあるくらいで、さして普段の生活にさし障るほどではない。
それでも。
定期的に通院し、医者から処方された薬を朝晩に服用している。
――神頼みとはな。
医療は科学の領域で、信心は信仰の領域である。だからして、信心で病気が治るということに、どうしても抵抗があり納得できない。
――神様がどうやって治すんだ。それなら医者も薬もいらんじゃないか。
木村さんはバチ当たりなことさえ思った。
ほかにも目を通す。
待人、願望、旅行、商売、学問、相場、恋愛、転居、争事、出産、縁談があった。
――どれも関係ないな。
あの従業員が話していたとおり、無職の独居老人には関係のないことだらけである。
――うん?
『待人』に『夕方に来る』とある。
『失物』に比べると、なんとも具体的ではないか。それに夕方というのが気になった。
――だれか来るのかな?
おみくじのことなのに、ついそんな気になってしまう。よく当たると耳にしていたからだろう。
けれど……。
木村さん、待ち人なんていない。待っている者、会いたいと望んでいる者はいないのである。
いや、一人だけいる。
叶わぬことなのだが、幼いころ死に別れた母に会いたい。
ときおり母に無性に会いたくなる。
――この歳になって、オフクロが恋しいとはな。
木村さんは自嘲気味に笑った。
――そうだ、眼鏡を見つけなきゃあ。
木村さんはさっそく眼鏡を探し始めた。おみくじを買ったのはそのためなのだ。
――高い所か……。
どれほど高い所なのかは不明である。
とりあえず棚の上など、腰の位置より高い所を見てまわった。
するとすぐのこと。
キッチンのレンジの上で、行方知れずだった眼鏡が見つかった。
――そうか、あのときだな。
それは今朝のこと。
沸かしたお湯をポットに移していて、レンズが湯気で真っ白に曇った。それでいったん眼鏡をはずし、そばにあるレンジの上に置いたのである。
そして。
レンジはレンジ専用台の上にあり、さらにレンジの上は木村さんの目線より高い。眼鏡を容易に置ける所としては、キッチンではどこよりも高かったのだ。
――当たったのか……。
『失物』に書いてあったことが見事に的中し、木村さんは大いにおどろいた。
――じゃあ、待ち人も?
なぜだか胸騒ぎがして、木村さんは窓から外をのぞき見た。
日はすでに傾いている。
もう。
『夕方に来る』の夕方なのである。
と、そのときだった。
いきなり胸に痛みが刺した。キリキリと痛み、それはかつて経験のないものであった。
――心臓だな。
発作だと思ったときには、すでに木村さんの意識は薄らぎ始めていた。
遠のく意識のなか……。
「お迎えに来たからな」
母のなつかしい声が聞こえた。
会いたかった唯一の待ち人が来たのである。
――よく当たるおみくじだな。
木村さんはそんなことを思いながら、己の魂が母の姿を追っているのを見ていた。
朱色の鳥居が見える。
朱色の自販機が見える。
――あれは!
そう、おみくじの自販機である。
母は鳥居を抜け、お社へと続く細い参道に進み入った。神の領域へと入ったのだ。
木村さんも鳥居を抜けてあとを追った。
細い道を歩く。
そこは夜だった。
月光がさしている。
母が振り返って手招く。
おいでおいでをしている。
母が立ち止まり詠っている。
晴れ渡る月の光にうれしくも、行く手の道のさやかなりけり……。
――ぼちぼち進むとするか。
月明かりのもと。
木村さんは母のあとについて、ゆるゆると歩き進んだのだった。