戦記09
「控えよ。」
椅子の背後に控える護衛の騎士が二人に命じる。大人しく膝をつきエヴァとノエルは声を待つ。
「エヴァか。」
威厳の塊のような声が小さくも明瞭に投げられエヴァはやや早口で答える。
「リードランド家八代公王ルクタールの子エヴァンジェリンです。」
沈黙の後に短く問われる。
「何用だ。」
余命を語られる身でありながらこの威圧感とは、とオマケでいるノエルは感心する。
エヴァは息を整えると用意していた言葉を一気に吐き出した。
「我が母から繰返し聞かされし陛下の伝説の真偽を知りたく、拝謁の時を頂きました。」
見舞いの言葉よりも先に出た意外な言葉に、周りの侍従含め全員が声にならない驚きで固まる。
「どのような。」
先帝は少しだけ興味を示したように問う。
「我が母が幼少の頃に刺客に襲われた時、陛下が一喝で刺客を気絶させたというのは本当でしょうか。」
「何かと思えば。」
「母が悪戯で巨大な水瓶で溺れたとき、素手で陛下が水瓶を割られて母を救いだしたというのは。」
「拳ではなく剣だ。」
「家出した母を陛下自らお探しになり、その途中に現れた数百人の盗賊団をお一人で壊滅させたとか。」
「一人ではない。供は三人いた。」
「では。」
一旦、言葉を切るエヴァ。そしてゆっくりと先帝に尋ねる。
「母が帝国を去るときに陛下自ら見送られたというのは。」
その問いに先帝の答えは無く、じっとエヴァを見据える。
「近くに。」
エヴァは先帝が座る椅子の左手に進むとまた膝を付く。先帝はエヴァの顔を眺めて少しだけ笑う。
「ふっ、気性の激しいところはそっくりだな。」
「母にでしょうか、陛下にでしょうか。」
「お前の母親は余に似ておった。」
エヴァは黙って頭を下げる。
「今一つお願いがあります。」
「なんだ。」
「我が父から陛下に。」
エヴァの懐から出されたのは指輪。それを先帝に差し出す。
「母が唯一、公国に来られた時にお持ちになったものと聞いております。」
先帝は黙してただ指輪を見つめる。
「父は申しておりました。陛下にお返しするのが筋だと。」
先帝は自らの手で指輪を摘まむとしばらくそれを眺めていた。その心はエヴァやノエルには計れなかったが、やがて先帝はエヴァに視線戻す。
「手を。」
先帝はエヴァが差し出した手を握るとその指に指輪を嵌めた。
「陛下。」
「それは。」
周囲の側近が驚きの声を上げるが、先帝が手を上げるとすぐに控える。ノエルも声こそ出さなかったが驚いたのは同じだった。
ジジイが耄碌したか。
声に出せば間違いなく手打ちにされる感想をいだいたのは仕方がないことだった。皇室の一員であることの証となるこの指輪は、直系の皇族が十歳になる時に皇帝から直接賜る。帝位継承権と共に。このことは帝国の政情を知るうえで重要なためノエルも知識として知っていた。
いや、まてよ。
ノエルは自らを落ち着かせこの事態を思考を巡らせる。帝国は帝位を皇帝の子かその孫が継ぐと帝国法典に記している。エヴァは現皇帝の姪のため、指輪を与えられても継承権は持つことは無い。だからこの行為は意味もなく先帝の気まぐれである。
そう考えてみても何か引っかかるノエルだったが、それとは関係なく見舞い時間は終わりを迎えていた。
「陛下そろそろ。」
側近の耳打ちに先帝は頷くとエヴァに伝える。
「よかろう。大儀であった。」
その言葉を最後にエヴァとノエルは謁見の間から退室した。
エヴァとノエルが先ほどと同じ小部屋に戻るとマグオリンが待っていた。
「無事に謁見が終わり、胸を撫で下ろしました。」
少し安心した表情のマグオリンがエヴァの手を見て表情を変える。マグオリンの様子を見てノエルはある事を思い出した。
「帝室法典。」
声に出したノエルにマグオリンが同意する。
「そうです。まさかそのような事態が。」
帝国のもう一つの法である帝室法典は、帝国法典には左右されない皇族を律するものである。その内容は皇族と一部の貴族や法典局の人間しか知らず、これにより皇族は様々な特権と義務を有する。つまり指輪を授けられたエヴァは帝室の一員として特権を有するようになった。
孫とはいえ他国の人間であるエヴァに先帝が指輪を授ける意味はあまりにも重く、マグオリンとノエルはこの厄介ごとに二人そろって頭を抱えることになった。
「皇帝陛下、いかがいたしましょうか。」
首席秘書官からの言葉に皇帝ルーエン一世は苦笑いをする。
「マリアンヌの子だ。父上の希望とあれば仕方がなかろう。」
エヴァと先帝の邂逅の報告を受けた皇帝は出奔同然で公国に嫁いだ妹を思いだし、また父である先帝の心情を思いやり黙認することにした。その中には情とは別の計算もあり、あくまで損失ではないと判断した結果でもあった。
ただ姪の二つ名を聞いたときは、冷静な皇帝は吹き出し側近を驚かせた。
激発姫とはな。気性は間違いなく受け継いでいるようだ。
「全く、血筋は間違いないな。」
その一言で皇帝は回想を打ちきると次の裁可案件に移る。
「連合王国の野心は衰えぬな。」
「はっ。」
新たな報告では連合王国が万単位の軍を準備しているとあるが、何処に攻め入るかは不明となっている。
「引き続き探らせます。なお、我が国への侵攻ではなさそうです。」
その根拠は。
目で問うと首席秘書官の後ろに控えていた人物が進み出る。
「秘書官補のマグオリンです。」
話せ。
皇帝の意思を見抜けてこその秘書官。
「装備や野営用の資材に防寒の準備がありませんので。」
この時期に帝国を攻めるのであれば必要な装備が無いのであれば、それが擬態でもない限り帝国や北部への侵攻は無い。
「可能性としては、海軍の準備からみて東方の領土問題の解決のためか。」
マグオリンは一旦言葉を切って首席秘書官に了承を得てから続ける。
「公国への侵入かと。」
そこに火急との内容で新たな報告が入る。皇帝は報告を受けるとしばし目を瞑り、そして素早く決断を下す。
「マグオリン、例の者に伝えよ。」
あえて名前を出さない皇帝の意思をマグオリンは受け入れ、静かに退出した。
離宮から屋敷に戻った二人はせっせと帰国の準備を整えていた。用は済んだのでノエルとしてはエヴァが面倒を起こす前に公国に戻りたい。エヴァはノエルが帝都で勝手に暗躍することを防ぎたい。互いに異なる理由ではあるが、目的は一致していた。
手紙をしたためているノエルの様子をみて、自分で荷を整えて終えたエヴァが近づく。
「何をこそこそと。」
ノエルがあからさまに嫌がって手紙を隠す。
「見ると効果が半減する。」
さっさと手紙を丸めるノエルにエヴァは疑惑の目を向ける。そこにマグオリンの使者が現れる。
「火急ゆえご容赦を。マグオリン様から殿下にお伝えいたします。急ぎ宮殿へ来られたしとのこと。」
エヴァがノエルを見ると、ノエルは肩をすくめて答える。
「おそらくは悪い知らせのほうでしょう。」
エヴァは頷くと使者に告げる。
「よかろう、このまま向かおう。」
エヴァは素早く身なりを整えると、使者を伴い宮殿へと向かった。嫌がるノエルを無理やり馬車に押し込んで。
帝国の中心部にそびえ立つ大宮殿に馬車が吸い込まれる。今度は裏口ではなく、正面の中門から入る。これは皇族か大貴族、または他国でも格式ある者のみ通れる入り口で今のエヴァの立場と扱いを明確に現していた。
通された部屋にすぐにマグオリンが現れる。
「殿下、またしても呼び立てしましたこと、お詫び申し上げます。」
「儀礼は良い、要件を。」
「連合王国がエルノ河を越えました。」
エヴァの顔が険しくなる。
「その数は三万を超えます。」
公国の動員兵力は約二万。それを超える大軍が公国へ押し寄せている。二人はそれぞれの思いと考えでこの事を受け止めていた。
エルノ河は帝国と連合王国の境界線となる大河で大陸の中央から南の内海へと注いでいる。この河は大小様々な船が行き交い、帝国や北方国家と連合王国や都市連盟との交易の主ルートとなっている。
他にもルートはあるが日数や安全性からこの河による交易路が最も盛んで、帝国東部の要所でもあるバルトバイトから出た船は早ければ二日で河口に着く。そこから半日で連合王国の港に着いた船の荷が外洋船に積み換えられ、または陸路で他国に運ばれる。この仕組みがもたらす富が、西域との交易と共に連合王国を大国と足らしめている。
そこに一石が投じられた。
帝国の南にある公国もエルノ河に接しているが、帝国や連合王国と比べればほんの少し。その場所に港を作り、南下する船の荷の一部を引き受け始めたのは数年前。その荷はガルム街道を通り公都を経由して共和国や南の港から海路で他国に運ばれる。ただ日数や費用がかかるだけ、そう評されたのは昔で今は交易路として確立され公国を、何より第二公女の懐を潤している。
この時代、荷を運ぶと港や関で必ず税を取られ、嗜好品や貴重品は特に高くなる。公国はエルノ河の河港から国内を通って各国へ向かう荷については、税を他国の相場の三分の一とした。そのため、かさばらない貴重品を扱う商人を中心に利用が始まり、さらには街道を守る騎士団の規律や治安のよさが評判となり通行量が増加していった。そのあおりを受けたのが連合王国で思いのほか荷が公国に流れたことで、無視できぬ存在となり外交問題に発展していた。
「我が国の権益を冒している。」
要約するとそのような主張を連合王国の大使から延々聞かされた公王は一言で済ませた。
「子供の遊びゆえ余の関知するところではない。」
唖然とする大使に大臣が説明する。十と少しの公女の個人的な行動であることを。真偽を問う大使の前に現れた公女と同年代の少年は大使の質問にすべて答え、なおも食いさがる大使にノエルと名乗る少年は逆に疑問を呈した。
「不思議です。たかだか三万程度の実入りしかないのに、大国である連合王国のお方がそんなに問題視されるとは。大半は殿下の小遣いで消えてしまうのに。」
金貨三万枚。豪商や国が扱う規模の金額である。それを小遣いと言い切る少年とそれを当然とする公女殿下に大使は自分の知能を総動員して反撃の策を考える。
「待て、ノエル。報告では今年は二万五千では無かったか。」
「まあ、四捨五入で三万だ。」
エヴァの質問に曖昧に応えるノエルはなぜか視線を合わせない。
「いや貴様はそのような表現は使わない。言え、残り五千はどうした。」
大使の目の前で二人の子供が小遣いの使い道で喧嘩を始めてしまった。もっともその額は桁違いではあるが。
「いや、その。」
「この前、希少本がどうしたと言っていたな。」
「あれは経費だ。」
「なら実験と称していたのはなんだ。」
ゆっくりと後退りするノエルに、エヴァは横に控える騎士から扇を受け取る。
「幾ら使った。」
最後通牒にノエルは視線をそらせる。
「四千二百。」
その瞬間、扇が宙を飛び、ノエルの顔面を襲う。躱し損ねてうずくまるノエルを無視してエヴァは大使に言う。
「そのような事情でな。子供の戯れ事として見逃してくれ。」
毒気を抜かれた大使は同意するしかなかった。
これ以降、エルノ河の河港について連合王国からの抗議は毎年のように行われ、紛争の火種となっていた。
エヴァとノエルが帝国の会議の間に姿を現すと、帝国の重鎮達が様々な視線を投げかける。その視線を気にも留めずにエヴァが勧められた席に座り、ノエルが背後に立つ。
「連合王国より最後通牒が公都に届き、正式に公国への宣戦布告がなされました。」
会議に出席する大臣の一人、アーヘイト伯爵が代表してエヴァに説明する。
「それで、数は。」
「三万五千ほど。」
報告を聞きながらエヴェがノエルをちら見する。
「殿下、急ぎ帰国されるのが良いかと。」
アーヘイト伯爵の勧めに、帝国軍の高級武官であるタイロス子爵が付け加える。
「我が帝国には直ぐに動ける兵力は二万ほどある。これを加えれば優位になるのではないか。」
ノエルは助言をしようとして、エヴァの口元が薄く笑っている事に気が付く。ノエルが嫌な予感から自重を進言しようする前にエヴァが宣言する。
「帝国からの申し出はありがたいが、一切の援軍は無用。帝国軍が公国の地で戦う理由は無い。」
エヴァが言い放ち、ノエルは心の中で頭を抱える。明らかに言い回しに棘がある。
「しかし殿下、公国の兵力を考えれば連合王国軍三万五千は荷が重いのでは。」
タイロス子爵の質問にエヴァは明確に答える。
「連合王国は伝統的に傭兵部隊が主力となる。正規の兵はおそらく三割程度、であれば実質一万が敵の本体。」
エヴァの確信に満ちた説明に幾人かが表情を変える。
「後はノエル卿がいれば、恐れるに足りん。」
まさか自分の名前が出されるとは思わなかったノエルは、この無茶振りを唖然として聞くしかなかった。
「確かにそちらにおられるノエル卿は、殿下の懐刀として我が帝国でもその名を聞き及んでいます。」
何食わぬ顔のマグオリンの発言にノエルは心の中で毒づく。
そのノエルとはお前の想像上の人物じゃないか。
「先の戦いでみせられた智謀は、まさに黒策士の名に相応しいものでしたな。」
追撃を行うリヒタール将軍を見てノエルは天を仰ぐ。
やっぱり根に持っているよこのジジイ。
それでも、と続けるタイロス子爵にエヴァが明確に答える。
「心配無用。公国が連合王国の手に落ち、帝国への橋頭堡になることなど万が一にもない。」
帝国は公国が占領され、帝国侵攻の橋頭堡になることを恐れている。エヴァはその点を指摘した上でその可能性は無いと言う。
「無論、どうしても、と言うのであれば両国の友好の証として支援を受け入れるが。」
エヴァの発言は援軍の申し出は不要とした上で、帝国からのお願いであれば考えるといるという意味。この傲慢ともとれる発言に対して、反感の表情が幾人にも表れる。雰囲気が悪化する会議の間でノエルは自分の不幸を呪っていた。
この状況でアーヘイト伯爵はこれ以上は不味いと判断して、ここで切り上げることにした。
「そうまでおっしゃるのであれば帝国から申し上げることはありません。公国の勝利をお祈りいたします。」
強引にこの件を終わらせる。
「では我々は急ぎ公国へ戻りますゆえ。」
それだけ言うとエヴァはさっさと退室してしまった。主の行動にため息をつきながらノエルはマグオリンに目を合わせ、それからエヴァを追って退室する。廊下を勢いよく歩くエヴァにノエルは何とか追いつく。
「ノエル、急ぎ公国に戻る。」
「まあ、その予定もあったので良いですが、だいたい五日ぐらいですか。」
「四日だ。」
ノエルはエヴァが夜通しかけるつもりなのを聞いてさっさと逃げに入る。
「まあ、ここからワールまで無茶すれば三日ですかね。まあ頑張ってください。」
「それで大人しく馬車に乗るのと抵抗して簀巻きにされて運ばれるのはどちらがいい。」
エヴァの優しい言葉にノエルは嫌な顔をする。
「第三の提案を希望します。」
「帝国軍の早飛車で荷物として運ぶのもありだな。」
ノエルは半瞬の後に諦め覚悟を決めた。
「馬車に。」
満面の笑みを浮かべて馬車に乗るエヴァと死刑台に向かう表情のノエルを迎えた護衛の騎士達は、いつもの二人の様子に安堵しながら馬車の扉を閉めた。
帝宮から戻るとすぐにエヴァとノエルは黒バラ騎士団の十騎と共に帝都を後にする。付き添いの帝国騎士二名が通行許可証を持って同行する。
一行は帝都を出て夜通し駆け抜けると、朝には帝都南部にある商業都市ドルニチェに到着する。護衛の十騎がドルニチェに待機していた十騎と入れ替わり、エヴァとノエルのみ馬車を変えてそのまま公国を目指し出発する。帝都から同行した十騎はドルニチェで離脱、休養ののち公国へ帰還することになる。
ノエルは帝都への道程でワールに十騎、ドルニチェに十騎を荷物や馬車と共に待機させていた。目的はどのような場合でも急ぎ公都に戻るため。今回は悪い知らせのために使われたが、場合によっては帝都から逃げ出すための準備でもあった。
「備えあれば憂いなしですな。」
馬車に揺られながら自画自賛するノエルにエヴァは揶揄する。
「さすが黒策士殿。」
その言葉でノエルは顔をしかめる。
「帝国のジジイどもの前で俺の名前を使いやがって。」
「いや、見事なお披露目だったな。」
全く悪びれないエヴァにノエルは反論を諦めてしまった。エヴァの心境を知る由も無く。
ドルニチェからの十騎は最も長い行程をエヴァを守りながら食事も睡眠もほとんどが騎乗、馬の食事時のみ地面に足をつける強行軍で移動する。さらにワールでまた十騎と馬車が入れ替わり、ここからはノイフォンまで一気に走り抜ける。
こうして帝都から四日でノイフォンに着いたエヴァはようやく馬車を降り、ノイフォン城で湯あみをして人心地を得る。そこからはフェルナンド伯爵が用意していた馬車で公都を目指す。
「ハイラント、公都の公宮へ直接向かえ。では後は頼む。」
エヴァは最後に騎士長のハイラントに公都への移動を命じると、そのまま馬車の中で意識を失う。ノエルもエヴァの無作法に嫌味を言いながらその半瞬後には眠りに落ちていた。
二人の様子を見届けたハイラントは、ゆっくりと扉を閉めると静かに出発を命じた。