閑話 とある羊飼いの少年
羊飼いの少年、今年十二歳になるペーターはムシャクシャしていた。
領主の娘が羊を見に来るとかで準備が忙しいからだ。
いつもの仕事だってコマネズミのように働いているのに、今回はアチコチの掃除や片付けでとんでもないことになっている。
なんで、小娘がひとり来るだけなのにみんなこんなに騒ぐのかがペーターにはまったく理解できない。
ふだんはガサツでやかましい親方やそのおかみさん。はたまた村中の人間がお祭りのように一張羅を着込んでめかしこんでいるのも気にくわない。
だいたいこっちは仕事なんだ。貴族だか領主だか知らないが、邪魔なんだよ。邪魔邪魔。
──そして、今。
ペーターは口をポカーンと半開きにしている。
自分の目の前に立っているこの世の人とは思えぬほど美しい少女。
透き通るような白い肌。豊かな亜麻色の髪は綺麗に編み上げている。まるで芸術品のようだ。
だいたい世の中にあんなシミひとつない真っ新なブラウスがあるのが信じられない。あんな格好で羊なんか触ったらすぐに真っ黒だ。
村の娘たちも目を丸くしながら口々に。
「ねえ、あの髪を留めているリング、金細工よ」
「なんて白い肌。それに綺麗な髪」
そして、村人に対しお高くとまるどころか、にこやかに微笑みながら「こんにちは。今日はお世話になります」などと手を振りながら挨拶しているのだ。
貴族をじかに見るのは初めてだが、普通はもっとエバってるのじゃないか?
この目の前のお嬢さまより、全然身分が低いはずの教会の宣教師だって、いつもペーターのことをゴミクズのように見下すのだ。
今、当のパトリシアは村人が見守る中、無邪気に羊たちと戯れている。
突然、様子を見ていた老婆が目を大きく見開き。
「エレインさまだ。エレインさまが帰って来なさったのだ」
周りの村人もハッとする。
長い長い冬の間。暖炉の前で昔話をするとき必ず出てくる郷土の英雄。
姫騎士エレイン・ノルドはきっとこんな感じではなかったのか。
エレインはかつてはノルドと呼ばれていたこの土地を治めていた王家の姫である。
見目麗しいだけではなくその武勇でも知られていた姫騎士であった。
地を埋め尽くすような大群をもって侵攻してきたアリューシア帝国の軍勢を三度に渡り押し返した武勇の天才。
しかし、戦場外では貴賎を問わずに誰をも慈しむ慈母のようであったと伝えられている。
エレインの周りにはいつも笑いが絶えず、動物たちもいつの間にか近付いてきたという。
エレイン・ノルドは四度目の侵攻で敵の卑怯な計略で破れると、自分の身を呈して領民を救い、その命を散らした。
彼女の血がノルドの大地に流れ落ちたとき、晴れていた天が俄に曇り、雷鳴が轟き号泣するかのような雨が降ったという。
パトリシア・ベイグラハム。
いや、パトリシア・ノルド・ベイグラハムはその直系の子孫なのだ。
老婆の呟きは瞬く間に伝染する。
「本当だ。姫さまだ。エレイン姫さまだ。我らがノルド人の希望が帰ってきたのだ」
「伝承の通り、なんという美しさだ。どうか、悪政を続ける帝国を退け、ノルドの誇りを取り返して下され」
「我等、ノルドへ栄光を。ノルド人の国を」
しかし、パトリシアはそんな声も入らぬかのように、子羊たちを抱擁し祝福を与え続けている。
すると一頭の子羊が嫌がるように彼女の手をかいくぐると、トコトコとペーターの方へ駆けてくる。そして後ろにいた母羊の影に隠れてしまった。
パトリシアはう~んと片手であごをつまみながら
「やっぱり。子羊ちゃん。お母さまの方が良いのかしら」と思わず目があったペーターにニコリと微笑む。
どうして、答えて良いかわからぬペーターが口ごもっていると。
彼女は陶磁のような白い歯をみせながら。
「ねえ、あなたのお仕事、良いわね。毎日、こんなに可愛らしい仔と一緒なのですもの」
「う……。うん」
今まで、そんなことは考えたことなどなかったペーターは、ただ、ぎこちなくうなづくので精一杯であった。
パトリシアが帰ったあと、ペーターは羊を追いながら、自然と口笛を吹いている自分に気付く。
こんなに弾むような足取りで仕事するのは初めてかも知れない。愉快な気持ちがどんどんあふれ出してくる。
「もしかして」と、ペーターも思う。本当に彼女はノルドの誇り。エレイン姫さまの生まれ変わりかも知れない。
もし、いつの日か、パトリシアがノルドの旗を掲げ立ち上がるのならば、自分も後に続こうか。
それも良いかもと、ペーターは思うのであった。