ヒダリテ。
チャイムが鳴り響く。
弘美は芸術科目として選択した美術だけでなく所属している美術部でも油絵を描いているが、この油絵具独特の臭いにはどうしても馴染めない。クラスメイトと共に廊下に出るとホッとした。
「弘美ーっ」
振り向くと、後方の書道室から出てきた春香が駆け寄ってきた。
「あ、絵具ついてるよ」
「え、どこ?」
「このへん」
春香は左頬骨の下を指し示した。左手でこすると油絵具の臭いがよみがえり、弘美は思わず顔をしかめた。
「うん、とれた」
春香の言葉に手を放すと、手が赤みを帯びている。多分リンゴを描いていたときに何かのはずみでついたのだろう。
「弘美、なんで美術選んだの?」
この高校では芸術科目として音楽・美術・書道のうちどれか一つを選ぶことになっているが、学校側が勝手に割り振るわけではなく、生徒の希望を優先する仕組みになっている。
「だって左手だと上手く書けないんだもん、書道って。でも絵筆なら左手でも使えるし」
弘美は左利きだった。小学生時代に国語の授業で初めて筆を持ったのだが、鉛筆と違い止め・はね・はらいの度にどうしても毛先が妙な方向をむいてしまい団子状になる。しかたなく習字の時間だけは右手を使うことにしたのだがどうしてもぎこちない字になってしまい、次第に筆で文字を書くのが嫌いになっていった。
だから高校へ入学してもう習字の時間がないと思うと、弘美は非常に嬉しく感じたのだった。
「へーえ、大変なんだね。あ、そうそう……」
春香は意味ありげな笑いを浮かべたが、その先を続けようとしない。
「なに?」
「すぐにわかるよ」
春香はそれしか言わなかった。
今日は芸術科目が六時限目だったので、教室に戻るとすぐに帰りのホームルームが始まった。普段なら特に連絡事項もなく帰りの挨拶を済ませて解散となるのだが、この日は少々事情が違った。
「あー、龍安、ちょっと前に出て来い」
こっそり机の下でケータイをいじっていた弘美は顔を上げた。
龍安広斗は春香と同じく芸術科目で書道を選択していたが、代々有名な書道家を輩出している家の息子だということで、校内でその名を知らない者はまずいない。
「龍安が県の書道コンクールに出品した作品が最優秀賞を受賞した」
一部でどよめきが起こったが、書道科目を選択している生徒たちは特に表情を変えない。おそらく授業時間中、すでに知らされていたのだろう。
弘美が左斜め前に座っている春香の方を見ると、こっちを向いて笑っている。
弘美の恋心を知っている春香は、弘美の反応が楽しみだったのだろう。春香はサプライズを仕組むのが好きだ。それが弘美の誕生日に悩みを聞いて欲しいといってケーキバイキングに連れ出し、実は悩み相談というのはただの口実で弘美にケーキをおごるのが目的だったというような嬉しいものの場合もあるのだが、今回はちょっと悔しい。
広斗は軽く頭を下げると、何も言わず自分の席へ戻っていき椅子を引いて座った。それを見ていた弘美はあることに気がつき、頬が緩むのを感じた。
「作品は今週いっぱい書道室の前に展示してあるからな」
それでホームルームは終わりとなった。
放課後、弘美は広斗の作品を見に行った。大抵の生徒は直接部活に向かうか下校するかのどちらかだし、書道室は特別教室ばかりが集まる棟の一番奥にあるので人の気配はない。
作品はかなり大きな掛軸だった。弘美の身長より長いかもしれない。書かれている文字自体はというと、やや崩したような文字が二行に渡って書かれていたが、すべて漢字だったので弘美には何が書いてあるのかよく解らなかった。中国の漢詩か何かだろうか。
そのとき、足音が弘美の耳に入った。
「龍安……」
そこにいたのは作品を書いた本人の広斗だった。
「すごいね、これ」
「たいしたことねえよ」
広斗はふいと横を向いた。
「でも龍安、左利きでしょ?」
広斗の顔に驚きの色が浮かんだ。
「……なんでわかった?」
「さっきホームルームで座るとき、左手で椅子引いてたじゃない」
予想が当たっていたので、弘美は嬉しくなってしまった。
「あたしも左利きだけど、習字って左で書くと上手く書けないし、いきなり右手使っても書き辛いしさー。これ、右手で書いたんでしょ?」
「……ああ」
「へー、すごいじゃ……」
「うるせえな!」
掛軸が振動するほどの声だった。弘美は走り去る広斗の背中を呆然と見ていることしか出来なかった。
翌朝、弘美はいつもより三十分以上早く家を出た。普段なら遅刻ギリギリに家を出る弘美に対して愚痴をこぼしている母親は喜ぶよりも訝ったが、部活の都合だといって誤魔化した。もちろん本当は広斗の作品をもう一度見るのが狙いである。
この時刻だと学校に来ているのは運動部で朝練がある生徒ぐらいだ。しかし階段を登ると、書道室の前には男子生徒が立っていた。広斗だ。だが、何かがおかしい。
「龍安……」
小走りに駆け寄ると、弘美は息を呑んだ。昨日見たはずの広斗の作品が、そこにはなかった。掛軸の表装が剥き出しになり、画仙紙は糊付けしてある端の部分が申し訳程度に貼りついているだけだ。そして、弘美が感じた違和感の原因は、その下に散らばる刃物で切り裂かれたような画仙紙の破片だった。
広斗は残った掛軸をじっと見ている。
「あたし、先生呼んで……」
「待て!」
広斗の声に弘美は足を止めた。振り向くと、さらに信じられないものが目に飛び込んできた。
「俺だよ」
広斗が持つカッターナイフには、刃をしまうときについたらしい紙の繊維らしきものがこびりついている。
「本当は昨日やるつもりだったんだけどな」
「嘘……なんで、そんなこと……」
「お前はいいよな」
何のことを言われているのか解らず、弘美はぽかんとした。
「左利きで、普通に左手が使えて……。俺なんか、ガキの頃から左手で何かしようとする度に定規で左手ひっぱたかれたんだぜ?」
「……なんで?」
「こいつのせいだよ」
広斗は足元の破片に目をやった。
「お前は将来書道家になるんだから右利きに矯正しろ、ってさ。だから字を書くのもメシ食うのも全部右にさせられて。親戚以外で俺が左利きって気付いたの、お前だけだ」
弘美は愕然とした。今まで弘美以外に誰も気付かなかったというなら、広斗は幼稚園か保育園に入るまでの間に右利きに矯正されていたことになる。そんな小さな子供の手を定規で叩くなど、弘美はその様を想像するだけで背筋が寒くなった。
「で、書道始めてさ。親戚は左利きなのに右手でこんなに書けるなんてすごいわねーって誉めるんだけど、ちっとも嬉しかねーの。……なんつーか、左利きのままだったら俺はダメな奴って言われてる気がして」
「……ごめん」
悪気がなかったとはいえ、何気ない一言で広斗を傷付けてしまっていたのだ。
「お、おい、何もそこまで……」
ひどくしょげた顔になっていたらしい。広斗の方が慌てだした。
「……ねえ、美術室寄っていかない?」
突然の弘美の言葉に、今度は広斗がぽかんとした。
「一緒に絵描こうよ、左手で」
広斗は頷いた。二人は鍵を借りに職員室へ向かった。