交通事故
徹さんが辞める宣言をする少し前、則子さんの会社が移転になりました。それまで徒歩8分の距離だったのが、地元の路線で3駅先のビルに移転することになりました。
則子さんは派遣社員として働いているので、交通費は出ません。まあ、家から新しい勤務先まで自転車で20分なので、雨の日も風の日も自転車で通っていました。
そんなある朝、見通しの悪い路地で出会い頭に車と衝突。幸い、相手の車も減速していたので、フェンダーに自転車が巻き込まれ、則子さんは自転車から投げ出されたため、打ち身で済みました。
が、自転車は曲がってしまい、修理も難しい状態に。
「ああ~、済みませんでした!大丈夫ですか?!」
ぶつかる直前、ベンツのマークを見ていた則子さんに、中から社長さんと思しき恰幅のよい50代の男性が飛び出してきました。運転していたのは、社長さんではなく、専属の30代くらいの運転手でした。
「治療費でも自転車の修理費用も全てこちらが出しますから、何でも言ってください!」
そう言われても、則子さんも事故のショックでボーっとしてます。
「これから、どちらへ行くところだったんですか?車で送りますよ」
「え~、会社に行くところだったんですが」
「自転車で?」
「ええ」
運転手さんが、自転車を直そうとしてくれているのですが、フレームが曲がって動かすことも出来ませんでした。
「分かりました!もう10時になりますし、これから自転車を買いに行きましょう!」
「ええ~?」
あれよあれよとベンツに乗せられ、近くにあった自転車店へ連れて行かれました。
「さあ、好きなのを買ってください!あれなんかどうですか?!カッコいいですね!」
社長さんが指差した自転車はロードレース用の自転車でした。普通のママチャリしか乗ったことのない則子さんが買ってもらっても通勤には使えません。
結局、則子さんが乗っていたのと同じ6段編成のママチャリを買ってもらいました。
「良いですか?必ず病院に行ってください。治療費の請求は、運転手にお願いしますね」
そう言って社長さんと別れた則子さんは、会社に連絡を入れ、病院へ行きました。
「どうしました?事故?警察は呼びましたか?」
「いえ、大丈夫そうだったので呼びませんでした」
「ええ~?そのまま逃げられたらどうするの?警察を呼ぶのは、そのまま姿をくらます人間が多いから、逃げられないよう身元を確認してもらうためでもあるんだよ?!」
医者からコンコンと説教を食らった後、レントゲンを取ってもらい、打撲と診断されました。治療薬としてシップをたんまり出してもらい、費用は2万8千円。
交通事故って高い!
それから、徹さんに電話し、事情を話すと、やはりお医者さん同様、警察を呼ばなかったことをコンコンと怒られました。
「今すぐ警察へ行って来い!」
則子さんとしても自転車を買ってもらっただけで逃げられるのは本意ではないので、近所の警察署に行きました。
「あの、交通事故にあったんですけど」
「はいはい。じゃあ3階の交通課へ行ってください」
薄暗い警察署の中を歩き、交通課をノックしました。
「あ、どうぞ。詳しい話を聞かせてください」
女性の警察官に勧められ、小さい小部屋に入り、事故の状況を説明しました。
「ちょっと待っててくださいね」
女性が席を外したかと思うと、男性の警察官が来て、再度、状況の説明をさせられました。その後も、入れ替わり立ち代り人が出入りし、同じ説明を何度も何度も繰り返す則子さんでした。
「それで?警察も呼ばないで、自転車を買ってもらっちゃったの?」
「はい。通勤に困るだろうと言われて」
「う~ん、そうなると困るなぁ。自転車を買ってもらった時点で、加害者の示談が進行していることになるんだよ」
「そうなんですか?」
「そう。つまりね、警察が罰することはできなくなるんだ」
警察で聞いた話をまとめると、通常、事故現場で警察が介入し、その結果、加害者に刑事罰や免許の減点が行われるらしい。ところが、則子さんのように、その場で警察を呼ばないと状況が確認できない。もしも加害者に刑事罰などを与えたい場合には、再度、加害者と被害者に現場で立ち会ってもらい、状況の確認が必要となるのだとか。
また、自転車を買ってもらった時点で、刑事罰を放棄し、被害者と加害者で示談が成立してしまうらしい。つまり、その後、加害者が治療費を払わずに逃げたとしても、自転車一台で示談が成立したと言えば、それ以上の追及が出来ないのだとか。
そうなんですか?!知りませんでした~!!と驚き続ける則子さんに呆れたのか、警察の人が、とにかく運転手に今、電話しなさいと則子さんに勧めました。
そして、加害者である運転手さんとつながるやいなや、怒声が響きました。
「あんたね!なに勝手に警察も呼ばないで逃げてるんだ!」
「普通、通報するのが常識だろう!」
そのまま則子さんの携帯を手に、どこかへ行ってしまいました。そして10分ほどして戻ってくると、相手にはちゃんと注意したけれど、君はどうしたいんだ?!と則子さんに聞きました。
結局、知らなかったとはいえ、自転車を買ってもらったこと、また相手に刑事罰を望んでいるわけではないので、示談で済ませたいと告げました。そして、事故報告書だけ記入して帰宅しました。
帰り際、徹さんに報告すると、それで良いんだと言われました。
「相手も警察が知っていると思えば、そう簡単には逃げ出さないだろ。後は則子が交渉するんだよ」
「そうなの。分かった~」
結論から言うと、運転手さんと社長さんは、ちゃんとした人で則子さんの治療費、休んだ仕事分の手当て、見舞金まで合わせてきちんと支払ってくれました。
躯の方も打ち身だけで、後遺症もなく、不幸中の幸いだったなぁと安堵する則子さんでした。そして、急がば回れではないですけれど、自転車といえど、スピードを出すのは止めようと心に決めたのでした。




