筋を通す
そんな日々が3ヶ月ほど続き、則子さんはある決意をしました。
「よし!お店の近くに引っ越そう!」
則子さんが引っ越せば、終電を気にせず、仕事が出来ます。徹さんが泊まることもできるので、カプセルホテル代は要らなくなるし、ホテルより伸び伸び寝ることが出来ます。
そして、徹さんと一緒に暮らすことも出来るかも、と思ったのですが、徹さんは、そんな時間もお金もないと一蹴。
じゃあ、先に則子さんが引っ越し、後から徹さんが越してくれば良いと考え、とりあえず、2人が暮らせる部屋を探しました。ところが中々安い部屋が見つかりません。三つの仕事を掛け持ちしているとはいえ、徹さんの手伝いは無給です。会社勤務も週3日ですが、クライアントが減ったとはいえ、通常、フルタイム勤務しか雇わない部署ですから、いずれは辞めなければならないと覚悟していました。
もう1つのホームページの仕事は、最初からトラブル続きでした。自分でホームページを作る時は、その場で決めることが出来ますが、仕事で請け負うとなるとクライアントの意向が重要になります。画像1枚作るにしても、5~6枚、候補を作り、選んでもらうのです。
また、クライアントはパソコンをほとんど触ったことのない人たちなので、かなり無茶な、あり得ない要求を迫られ、それは出来ない、あれも無理、と断るうち、クライアントとの間に溝が出来ているのを感じました。
そもそもインターネットやホームページを理解していないからこそ、他人を雇うのですが、則子さんも改めて、『趣味』と『仕事の』違いを実感したのでした。そんな訳で、則子さんはちょっと辟易しておりまして、当初の契約通り、ホームページの改訂とある程度の体裁が整った時点で辞めようと思っていたのです。
そういった事情から、高額の家賃では支払っていけるかどうか分かりません。2人で8~9万円を想定していたのですが、どこも10万円以上の部屋ばかり。もちろん、駅近くの店から遠く離れれば条件を満たす部屋もありますが、早朝から深夜まで働くことを考えると遠くでは通いきれません。
基本的にインターネットで探していたのですが、徹さんが、お店の近くにある不動産屋さんにも行ってみればと提案しました。
そこは女性の経営するK不動産で、なんと徹さんのお店の会員でした。そこから色々、話が弾み、それこそ何十件も親身になって部屋を探してくれたのです。そんな時、2人入居可で7万円という破格の部屋が見つかりました。
間取りを見た時、則子さんは見覚えのある部屋だと思いました。そこは、次の日、インターネットで別のS不動産に内見を申し込んだ部屋だったのです。でも、内見するには構わないだろうと思い、件の女性社長と見に行きました。
夕方だったので、中は薄暗かったのですが、6畳の部屋に3畳ほどの台所がついた部屋です。1階でしたが、ちょっとした庭のスペースもあり、中々、良い感じです。本当はその場で決めても良かったのですが、徹さんに相談したいと思ったこと、翌日、内見を頼んでいたS不動産の物件だったことからから、内見をドタキャンして、K不動産経由で申し込むのもどうかなぁと思い、一旦、保留にして帰宅しました。
徹さんに相談すると、良いんじゃないかとのこと。ただし、女性社長は店の会員だし、親切にしてもらったのだから、K不動産で契約することを言われました。
翌日、内見を申し込んでいたS不動産で事情を話し、とりあえず、もう一度、内見することになりました。件の部屋へ入ると、夕べは暗くてそれほど気にならなかったのですが、部屋中、虫の死骸が散らばっていました。
「なんだ、これ?!」
S不動産の方も驚いていました。そして、部屋の周囲をあちこち見て周り、床下もコンクリートでふさいでいるので、どこから入ったのか、普通は入れないはずなのにと不思議がっていました。そして、そのまま会社に電話してみると言われ、外へ出てしまいました。
則子さんは独りで部屋の中を見て回わり、ところどころ、壁紙や仕切り板が剥がれているのも見つけました。S不動産の方に指摘すると、入居までには虫の件もあわせて綺麗にしますとのこと。
その後、契約の件を相談しましょう、と言われ、S不動産へ帰ったのですが、突然、「大変です!内見している間、他の方に申し込まれてしまいました!」と言われました。内見に行く前は申し込まれておらず、ほんの30分程度の間に?!
「他の不動産会社経由で申し込みがあったようです。でも、この部屋は我が社で管理している物件なので、うちで契約してもらえば手違いがあったと説明して先方を断りますよ。どうしますか?」
つまり、K不動産で申し込むなら、先に申し込みがあった会社を優先するので、その人がキャンセルしない限り、私は契約できないということです。
私としては、もやもやしたのですが、これを逃したら2人入居の部屋は借りられないだろうと思い、S不動産で契約しました。徹さんのお店へ行く途中も、ず~っともやもやは続きました。そして、案の定、徹さんに報告すると、何やってるんだ!と叱られたのです。
「他の人から申し込みがあったなんて、見え見えの嘘に決まってるだろ!お前、なに騙されてんだよ!」
「私もそう思ったけど、実際に申し込みがあったかどうかなんて、私には確認できないもん。聞いたところで、実は嘘でしたなんて言うはずないし」
「そんなの断るって言うんだよ。向こうだって契約が決まらなければ損をするんだから、譲歩するだろう?!」
「譲歩なんてしないよ!私がK不動産で契約したらS不動産に入る手数料は減るんだから、だったら私の申し込みなんてキャンセルして、他の人を待つ方が良いに決まってるよ」
「そうだとしても、S不動産で契約するなんてK不動産を裏切る行為だろ!」
則子さんも、それは気に病んでいました。しかも、S不動産は大手チェーン店です。親切にしてくれたK不動産は個人経営の小さな店なので、女性社長さんからお金になびいたと思われるのも不本意でした。
「でも、もう契約しちゃったし、どうしよう?」
「仕方ないなぁ。じゃあ昼休みに俺が行って、S不動産に話をつけてやる!」
言葉どおり、クリーニング店の休み時間に徹さんは則子さんを引き連れ、S不動産に乗り込みました。そして、かなりの押し問答の後、話をつけてくれました。契約破棄という形で。
「ごめん。なんか頭に血が上っちゃって」
帰り道、徹さんがぽつりと呟きました。
「いいよ。元々、私も怪しいと思っていたのに契約しちゃったのが悪いんだし。K不動産で部屋を探してもらうから大丈夫だよ」
「まあ、な」
「それに、K不動産の女社長さん、私が契約したら、きっとクリーニング店に通ってくれるよ。部屋の代わりに常連さんを捕まえたんだから、損して得取れってことだよ」
則子さんの予想通り、女性社長さんに事情を話すと、「あの店長さんて、そんな人だったんだ~!」と笑い飛ばしてくれました。そして、その後も部屋を探しに来たお客さんに、徹さんのお店を紹介してくれたのでした。
もちろん、則子さんもK不動産で1人住まいの部屋を契約しましたが、契約が決まった日は、退去日の1週間前でした。それから、仕事とお店の手伝いをしつつ引越し業者を決め、ガスや電気などの手続きをし、徹夜で荷造り、という怒涛の引越しが行われたのでした。




