『味の薄い飯しか作れない女は要らぬ』と婚約破棄された賄い番ですが、騎士団は二週間で崩壊しました 〜祖母の献立帳を持って、わたしを必要としてくれる場所へ〜
わたしの名前は、レーナ・フォン・ミュラー。
三年間、王都の銀獅子騎士団で食事を作っていた。
その名前は、もう誰にも覚えられていない。
でも、それでいいのだ。
わたしの仕事は、覚えられるような種類のものではなかったから。
*
騎士団の食堂が、静まり返っていた。
夕刻の鐘が鳴ったというのに、誰も席についていない。厨房から漂ってくるのは、焦げた脂と生煮えの豆の匂い。
「もう三日目だぞ……」
若い騎士が食堂の入口で立ち止まり、盆の上の椀を覗き込んで顔をしかめた。灰色の粥。具は萎びた根菜が二切れ。表面に脂の膜が浮いている。
「ヨハンの飯、まだマシだったろ。あいつが辞めてからどうにもならん」
「ヨハンじゃねえよ。あの——なんて名前だっけ。地味な」
「……誰の話だ?」
「ほら、前にいた賄い番の。味が薄いとかで団長に外された——」
「ああ、あの女か。名前忘れた」
名前を忘れた。
三年間、毎日彼らの食事を作っていた人間の名前を。
*
始まりを思い出すと、いつも祖母の台所の匂いが蘇る。
わたしの最初の記憶は、鉄鍋の底にこびりついた焦げを丁寧に洗う祖母の手と、戸棚に並んだ乾燥豆の瓶と、石窯から立ち上る麦の焼ける匂いだった。
「レーナ、この豆を食べてごらん」
祖母が掌に載せたのは、二粒の乾燥豆。見た目はほとんど同じ。わたしは一粒ずつ噛んで——。
「右の方が甘い。あと、少しだけ粉っぽい」
「そう。右は去年の豆で、左は今年の豆。古い豆は水に長く浸さないと芯が残るわ」
「味が違うだけで、浸す時間まで変えるの?」
「当たり前でしょう。同じ豆でも、収穫の年で火の通りが変わる。食べる人の体に合わせるなら、なおさらよ」
祖母はミュラー男爵家に仕えた賄い番だった。
三十年間、騎士団の食事を一手に担い、栄養と体調を考えた献立で団員の健康を支えた。祖母が厨房にいた時代、ミュラー騎士団は「鉄の胃袋」と呼ばれるほど頑健で、行軍中に脱落者を出したことがなかったという。
けれど、それがなぜかを知る者は少なかった。
騎士たちは自分たちの鍛錬が体力を支えていると信じていた。食堂に出される地味な食事は「まあ、腹が膨れればいい」程度の認識で、味が薄いだの見栄えがしないだのと陰で言われていた。
「おばあさまの料理がなくなったら、騎士団はどうなるの?」
幼い頃、祖母に訊いたことがある。
「さあ、どうなるかしら。でもね、レーナ——体というのは、崩れて初めて気づくものなの。毎日の食事が体を作っていることに、倒れるまで誰も気づかない。だから、気づかれないのが一番の成功よ」
「気づかれないのに?」
「ええ。良い食事は何も起こさないの。誰も腹を壊さない、誰も倒れない、誰も不調を訴えない。何も起きないことが、一番難しいのよ」
祖母が引退したのは、十年前のことだ。
遺されたのは献立帳と、使い込まれた鉄の寸胴鍋。そして、わたしのこの舌と鼻。
食材の鮮度や状態を味と匂いで正確に見分ける、生まれつきの感覚。祖母はそれを「台所の神様がくれた鼻」と呼んだ。
三年前、わたしが王都の近衛騎士団「銀獅子団」の賄い番に就いた。
祖母の献立帳を携えて。
*
賄い番の朝は早い。
日の出の二刻前には厨房に入る。まず、昨日の残りの食材を確認する。鼻を近づけて、匂いを嗅ぐ。
豚肉。まだ使える。だが、今日中に火を入れないと明日には厳しい。
根菜。人参は問題ない。蕪はやや柔らかくなっている。今日のスープに回す。
小麦粉。匂いに変化なし。湿気も吸っていない。
毎朝この作業をするだけで、食材の無駄が激減する。腐らせてから捨てるのではなく、傷み始める直前に使い切る。それだけで騎士団の食費が一割は浮く。
次に、今日の献立を決める。ここが一番大事だ。
壁に掛けた板に、団員百二十名の名前が並んでいる。名前の横に、わたしが書き込んだ印がある。
赤い印は、怪我の回復中。骨や筋をつける食事が必要。
青い印は、行軍帰り。消耗した体力を補う、消化の良い温かい食事。
黄色の印は、明日から遠征。持久力をつけるため、炭水化物と塩分を多めに。
印のない者は通常。だが「通常」にも個人差がある。体格の大きい者は量を増やす。胃の弱い者には油を控える。
祖母の献立帳には「同じ釜の飯でも、よそい方を変えれば百人百様の食事になる」と書いてある。
全員に同じものを同じ量で出すのは、平等に見えて平等ではない。体重八十キロの大剣使いと、五十キロの弓兵に同じ量を出したら、片方は足りず、片方は余る。
わたしは一人ひとりの椀に、違う量の飯をよそい、違う具材を載せていた。見た目にはほとんど分からない。だが、中身は全員違う。
この手間を知っている者は、わたし以外にいなかった。
「おい、レーナ。今日もこれか」
食堂の窓口で、ディートリヒが盆を受け取りながら顔をしかめた。
わたしの婚約者——銀獅子団の副団長、ディートリヒ・フォン・ヴェーバー。
盆の上には、麦飯と根菜の煮込み、豆のスープ、焼いた鶏肉。地味だ。色味がない。隣国の騎士団の食堂では、香辛料をふんだんに使った豪華な食事が出るらしい。
「ディートリヒ様は明日から遠征ですので、今日は炭水化物を多めに——」
「そんな説明はいい。味が薄いんだ。もっと塩を利かせろ」
「塩を増やすと、行軍中に喉が渇いて水の消費が——」
「理屈はいいから味を濃くしろ。隊の士気に関わる」
わたしは何も言わなかった。
言っても通じないことは、もう何度も学んでいた。
ただ、明日の遠征のために、干し肉の配合を見直した。塩分は抑えて、代わりに昆布と干し椎茸で旨味を足す。舌が満足すれば、塩が足りないとは感じない。
けれど、ディートリヒの目には——ただの地味な飯にしか見えていなかった。
*
月に一度、遠征用の携行食を納品する日があった。
干し肉、乾燥野菜、堅焼きの麦パン。長期行軍でも栄養が偏らないよう、組み合わせを計算して詰め合わせる。保存期間を最大にしつつ、味が落ちすぎないよう燻製の加減を調整する。地味な仕事だが、これを間違えると行軍の途中で兵が倒れる。
「ミュラー子爵令嬢、本日の納品です」
わたしは木箱に並べた携行食を、騎士団の備品庫に持参した。百二十人分。ひとつひとつ重さを量り、中身の偏りがないか確認したもの。
ディートリヒが腕を組んで立っていた。
「また持ってきたのか」
「はい。先月の遠征での携行食の消費状況はいかがでしたか? 量は足りて——」
「足りてはいたが、不評だ。味が素朴すぎると」
「保存性を優先すると、どうしても味は——」
「隣のグライフ騎士団は、携行食に香辛料の練り込みパンを出しているそうだ。うちのは素朴を通り越して餌だと言われている」
木箱の中の携行食が、窓からの光を受けて地味な茶色に並んでいた。
若い騎士が一人、気まずそうに口を開いた。
「あの……レーナ殿。自分はあの携行食、助かっています。先月の行軍で腹を壊した者が一人もいなかったのは——」
「黙れ」
ディートリヒが振り返った。若い騎士は口を閉ざした。
「飯炊きの女に礼を言う騎士がいるのか。情けない」
若い騎士は俯いた。わたしと目が合った時、「すみません」と唇だけが動いた。
ディートリヒが木箱を足元に押しやった。
干し肉の束が一つ、床に落ちた。わたしが夜なべして燻した、二十時間かけた干し肉。
拾い上げた。土がついていた。
「……かしこまりました」
頭を下げて、わたしは備品庫を出た。
廊下で、干し肉を掌に載せた。一晩かけて仕込んだ塩加減が、てのひらの温度で少しだけ滲み出している。
泣かなかった。怒りも、なかった。
ただ、とても静かな気持ちだった。火を落とした竈の前のような。
*
婚約破棄は、ある日の昼食の席で告げられた。
食堂で。団員たちの前で。
「レーナ。お前との婚約を破棄する」
ディートリヒは椀を置いて、食堂に響く声で言った。周囲の騎士たちが箸を止めた。
「……理由を伺っても、よろしいですか」
「飯炊きの女を副団長の妻にはできん」
ディートリヒの目は、わたしを見ていなかった。団員たちの顔を見回している。聴衆に向かって演説をしているような目だった。
「味の薄い飯しか作れない女は要らぬ。銀獅子団にふさわしい食卓を整えられる者を迎える」
食堂に小さなざわめきが走った。
わたしは立ち上がって、一礼した。
「何か、持っていくものは」
「祖母の献立帳と、鉄の寸胴鍋だけ」
「……それだけでいいのか」
「ええ。わたしに必要なものは、それだけですから」
「好きにしろ」
去り際に、わたしは一度だけ振り返った。
「ディートリヒ様。ひとつだけ、お伝えしておきます」
「何だ」
「来週の遠征組には、先月の行軍で右膝を痛めた者が三名います。回復を助けるために、前日の食事に——」
「もういい。後任の料理番に任せる」
それが、わたしたちの最後の会話だった。
後任の料理番。その料理番が百二十名の体調を把握していないことに、この人はまだ気づいていなかった。
*
騎士団を出る日、わたしは最後に一つだけ仕事をした。
壁に掛けた板——団員百二十名の体調管理表を、きれいに書き写した。誰がいつ怪我をして、いつ行軍に出て、いつ帰ってくるか。食材のアレルギーがある者、胃が弱い者、食の太い者。三年分の記録。
後任の料理番の机に置いた。
見てもらえるかは分からない。でも、ないよりはましだろう。
革鞄ひとつ。祖母の献立帳と、鉄の寸胴鍋。重い。でも、これだけは置いていけなかった。
門を出る時、食堂の煙突から煙が上がっていた。昼食の支度が始まっている。後任が、早速仕事を始めたのだろう。
——あの煙が匂いを変えた時、この騎士団はどうなるのだろう。
……いいえ。もう、わたしが考えることではない。
前を向いた。
東へ向かう街道沿いに、畑が広がっていた。麦の穂がまだ青い。もう少しで刈り入れの季節だ。
道端に、野蒜のびるが生えていた。摘んで齧ると、鮮烈な辛味が口に広がった。
——ここの土は、どんな味の作物を育てるのだろう。
*
ブルーメンの町に着いたのは、騎士団を出てから馬車で三日後のことだった。
国境に近い、中規模の町。常設の傭兵団が駐留していて、周辺の街道警備や魔獣の討伐を請け負っている。腕は確かだが、運営はぎりぎりだという話だった。
わたしがこの地を選んだのは、掲示板で見かけた募集のせいだった。
傭兵団「蒼鷹そうよう団」、賄い番急募。経験者優遇。食材費が限られていますが、やる気のある方を歓迎します——と。
食材費が限られている。その一文に、妙に惹かれた。
「レーナ・フォン・ミュラー様ですね。応募の手紙を拝見しました」
出迎えてくれたのは、アルベルト・ブルーメンフェルトという男だった。
蒼鷹団の団長。三十手前。元は商家の息子だったが、傭兵稼業に転じたという変わり種——そう聞いていたから、もっと荒々しい人を想像していた。
けれど実際は、柔らかい物腰の青年で、日に焼けた手は剣だこと帳簿のインク染みが同居していた。困ったように笑う癖が印象的だった。
「賄い番、ですか。……ありがたい。本当に困っていたんです」
「人がいなかったのですか」
「いなかったというか、続かなかったというか。うちは食材費が潤沢じゃないので、前の料理番は三ヶ月で音を上げて辞めてしまいまして」
食堂を見せてもらった。簡素な石造りの建物。厨房には竈が二つと、鍋が数個。食材の棚は——寂しい。乾燥豆がいくつか。塩漬けの肉が少し。根菜の籠。
銀獅子団とは比べものにならない。
けれど——棚の隅に、干した薬草が束ねてあるのが目に入った。
「これは?」
「ああ、それは僕が市場で見つけた香草です。食事に入れたら身体にいいかなと思って、買ったんですが、使い方が分からなくて……」
わたしは束を手に取って、匂いを嗅いだ。タイム。ローズマリー。セージ。
——この人、自分で香草を買ってきている。
「あの……わたし、食材が少ない方が得意かもしれません」
アルベルトが目を丸くした。
「少ない方が得意?」
「はい。限られた食材で、どう工夫して栄養を補うか。祖母にずっとそれを教わってきました。余るものを活かすのと、足りないものを補うのは、同じ技術なんです」
「それは——」
アルベルトの顔が、ぱっと明るくなった。商人の息子の顔だ。限られた資源で最大の成果を出す、という話に反応する人間の顔。
「ぜひお願いします。食材費はこれだけしかありませんが——」
「十分です。まずは団員の人数と、できれば体格や日々の活動量を教えてください」
「活動量まで?」
「同じ人数でも、討伐帰りの日と休息日では必要な食事が違いますから」
アルベルトが少し黙った。それから、今度は商人ではなく、もっと素直な顔で笑った。
「……前の料理番には、そんなこと聞かれたことがなかったな」
*
蒼鷹団での最初の一週間は、台所の棚卸しから始まった。
団員は四十名。銀獅子団の三分の一。食材費も比べものにならない。
だが、人数が少ない分、一人ひとりが見える。
初日に全員の顔と名前を覚えた。大柄な斧使いのブルーノは食が太い。弓兵のターニャは胃が弱い。古参の槍使いマティアスは右肩に古傷があり、寒くなると痛むという。
二日目に、近くの畑と市場を回った。どんな野菜が安いか、旬は何か、農家が売れ残りを安く譲ってくれるのはいつか。祖母が言っていた。「賄い番の仕事は厨房の外から始まる」と。
三日目に、最初の食事を出した。
麦粥に、刻んだ野蒜と干し肉の端切れ。根菜を皮ごと煮込んだスープ。堅焼きパンは前日の残りだが、スープに浸せば柔らかくなる。
特別なものは何もない。ただ——
麦粥の水加減を、気温に合わせて変えた。寒い朝は少し固めに炊いて、腹持ちを良くする。スープの根菜は皮ごと使うことで、捨てていた分の栄養が丸ごと入る。干し肉の端切れは細かく刻めば旨味が粥全体に回る。野蒜は鉄分が豊富で、行軍で消耗する血を補う。
そしてもう一つ。ブルーノの椀だけ、粥を一杯半にした。ターニャの椀には根菜を多めに、肉を控えめにした。マティアスのスープには、棚にあったローズマリーを一枝落とした。血行を良くする。肩の古傷に効く。
食堂は静かだった。
最初の一口目に、誰かが匙を止めた。
「……なんだこれ」
ブルーノが粥を見下ろしている。
「味が違う。前と全然違う」
「同じ食材ですよ。使い方を変えただけです」
ブルーノがもう一口。がつがつと食べ始めた。周りも続く。
マティアスがスープの椀を傾けて、底まで飲み干した。それから、少し不思議そうな顔をした。
「……肩が、楽な気がする。気のせいか」
「ローズマリーを入れました。温まりますから」
マティアスがわたしを見た。長い間、じっと見ていた。
「……俺の肩のこと、知ってたのか」
「昨日、右肩をかばって剣を振っていらしたので」
マティアスは何も言わずに、空の椀を差し出した。
「おかわり」
——おかわりを言われたのは、三年ぶりだった。
銀獅子団では一度もなかった。
*
二週目に入ると、食堂の空気が変わった。
朝食の時間に、全員が揃うようになった。前の料理番の時は、食堂を素通りして干し肉だけ持っていく者もいたらしい。今は全員が座って食べている。
アルベルトがある朝、不思議そうに食堂を見回していた。
「レーナさん。一つ聞いていいですか」
「はい」
「同じ粥に見えるのに、なぜ日によって味が違うんですか」
「気温と、その日の仕事に合わせて変えています。今日は討伐の予定がありますから、塩をほんの少し多めにして、芋を足しました。汗で失う塩分と、持久力のために」
「そこまで考えて……?」
「毎日の食事ですから。毎日違って当然です」
アルベルトが椀を見つめて、しばらく黙っていた。
「前の料理番は、いつも同じものを同じように出していました。文句はなかったけど——こう、体が喜ぶ感じは、なかった」
「何も起きないことが、良い食事の条件ですから。文句が出ないのは、悪くはないんです。ただ——」
「ただ?」
「体が喜ぶ食事と、腹が膨れるだけの食事は、違います」
アルベルトの目が、少しだけ変わった。
「あなたの食事は——体が喜ぶ方ですね」
「そう言っていただけるなら」
アルベルトが笑った。困ったような笑い方ではなく、本当に嬉しそうな笑い方だった。
その日の夕方、討伐から帰ってきた団員たちが食堂に雪崩れ込んできた。疲れた体に、温かいスープと柔らかく煮た豆の匂いが染みたのだろう。いつもより早く、全員が席に着いた。
「……あったけえ」
ブルーノが椀を両手で抱えて、目を閉じている。
「レーナさん。これ、何入れた?」
「疲労回復にニンニクを少し。あと、筋肉のために豆を多めに」
「うめえ……」
その一言が、胸に落ちた。
銀獅子団では「味が薄い」しか言われなかった。ここでは「うまい」が返ってくる。同じ食材費で——いや、もっと少ない食材費で。
違うのは、食材の量じゃない。受け取る側の目だ。
*
蒼鷹団での日々は、穏やかに、けれど確実に変化をもたらしていった。
一ヶ月が過ぎた頃、アルベルトが帳簿を持ってきた。
「レーナさん、見てほしいものがあるんですが」
「なんですか」
「団員の怪我の記録です。先月と、あなたが来てからの今月を比べてみたんですが——」
帳簿を開いた。討伐中の負傷者の数。先月は十二名。今月は四名。
「討伐の回数は同じなのに、怪我が三分の一になっています」
「食事が変わったからでしょうか」
「食事で怪我が減るんですか?」
「直接は減りません。でも、栄養が足りていると判断力が上がります。疲労が溜まっていると注意力が落ちて、普段なら避けられる攻撃を受ける。あと、筋肉の回復が早ければ、連戦での動きが鈍りにくい」
アルベルトが帳簿を閉じて、わたしを見た。
「あなたは——食事で、団の戦力を上げているんですね」
「大げさです」
「大げさじゃない。数字が出ている」
アルベルトは商人の息子だ。数字を見る目がある。
「もう一つ。食材費が先月より二割下がっています。これはどうやって?」
「残り物を翌日に活かしているだけです。昨日のスープの残りは今日の煮込みの出汁になります。野菜の皮は干して粉にすれば、パンに練り込めます。捨てるものを減らせば、買うものが減ります」
「……どうしてそんなことを、他の料理番は誰もやらなかったんでしょう」
わたしは少し笑った。
「考え方の違いです。『決まった食材で決まった料理を作る』のと、『今ある食材で一番いい食事を考える』のは、全然違う仕事なので」
アルベルトが深く頷いた。
「前の場所では——銀獅子団では、こういうことは評価されなかったんですか」
「……されませんでした。味が薄い、見栄えがしない、他所の騎士団はもっと豪華だと」
「信じられない」
アルベルトの声に、珍しく硬さがあった。
「この帳簿を見れば、あなたの食事がどれだけの価値を持っているか、一目で分かる。なぜ分からないんだ」
「数字を見ない人には、見えませんから」
アルベルトが何か言いかけて、やめた。代わりに、少し照れたように笑った。
「……僕は見ます。ずっと見ます。だから、ここにいてください」
わたしの頬が熱くなった。
「……ありがとうございます」
*
銀獅子団の異変が蒼鷹団に届いたのは、わたしが去ってから二ヶ月後のことだった。
最初の知らせは、国境の情報を運ぶ伝令からだった。
「王都の銀獅子団が大変なことになっているそうです。団員の体調不良が相次いで、遠征の予定が次々に延期されていると」
わたしの手が止まった。夕食の仕込みをしていた包丁が、まな板の上で静かに揺れた。
「……食事が、変わったんですね」
次の知らせは、もっと深刻だった。
「後任の料理番が味の濃い食事を出し続けた結果、塩分過多で体調を崩す者が続出。遠征中に脱水で倒れた騎士が五名。うち一名は重体だと」
アルベルトが眉をひそめた。
「食事が変わっただけで、そこまで影響が出るんですか」
「はい……。塩分の多い食事は、日常ではごまかせます。でも行軍中は水の確保が限られる。塩辛い食事を摂った兵士は喉が渇く。水を余分に飲む。行軍速度が落ちる。水が足りなくなる。脱水になる——悪循環です」
「知らない人間が、勢いだけで厨房に入ると危険だということですね」
「ええ。祖母は口酸っぱく言っていました。『厨房は戦場より怖い。戦場は一人を殺すが、厨房は百人を殺す』と」
わたしは唇を噛んだ。
体調管理表を置いてきた。あの板を見れば、誰にどんな食事が必要か分かるはず。でも——見ていないのだろう。見方すら分からないのだろう。
「レーナさん」
アルベルトの声は、いつもと同じ穏やかさだった。
「あなたのせいではありません」
「……わかっています」
わかっている。追い出したのはあちらだ。「味が薄い」と貶し、携行食を蹴り、「飯炊きの女は要らぬ」と食堂で宣言したのはあちらだ。
けれど——騎士団で働く人々は、何も悪くない。毎日あの食堂で食事を摂っていた人々。行軍に出て、命がけで戦い、帰ってきて温かい飯を待っていた人々。あの騎士団は、わたしが支えたかった場所だった。
*
そして——ディートリヒが来た。
わたしが去ってから二ヶ月半後の夕方。蒼鷹団の門前に、王都の紋章が入った馬車が止まった。
ディートリヒ・フォン・ヴェーバー。
顔色が悪かった。頬が痩け、目の下に隈がある。自身も体調を崩したのだろう。かつての精悍な顔が、どこか窶やつれて見えた。
「レーナ」
名前を呼ばれた。二ヶ月半ぶりに。
「戻れ」
わたしは食堂の入口に立ったまま、黙って彼を見た。
「聞こえなかったのか。戻れと言っている」
「お断りします」
「ふざけるな! 団員が倒れているんだ! 味が薄かろうが何だろうが、お前の飯が——」
「味が薄い飯」
わたしの声は、自分でも驚くほど静かだった。
「味が薄い飯、ですか」
ディートリヒが口を噤んだ。
「あなたは——わたしの食事を、飯炊きの仕事と呼びました。味が薄いと。見栄えがしないと。携行食を蹴り倒し、三年分の食事管理を——ただの飯だと」
「……今は、そんなことを言っている場合じゃない。人が倒れているんだぞ」
「ええ、存じております。だからこそ申し上げます」
わたしはディートリヒの目を見た。逸らさなかった。
「わたしが食事を作っていた三年間——団員が行軍中に倒れたことは何度ありましたか」
「……ゼロだ」
「それは、騎士の鍛錬だけの成果ですか」
ディートリヒは答えなかった。答えられなかった。
「飯炊きの女は要らぬ——そう仰いましたね。ならば、もう要らぬはずです」
背後で、足音がした。
アルベルトが、静かに食堂から出てきた。いつもの穏やかな顔だったけれど、ディートリヒの前に立った時——その目には、商人の息子が帳簿を前にする時の、冷静な光があった。
「失礼ですが——ディートリヒ・フォン・ヴェーバー殿ですか」
「誰だ、貴様」
「蒼鷹団団長のアルベルトと申します」
アルベルトは一礼した。礼儀正しく、けれど——退かない姿勢だった。
「レーナさんがうちに来てから、団員の負傷率は三分の一に、食材費は二割減。数字に表れています。彼女の食事は、科学です」
ディートリヒが顔を歪めた。
「彼女が一人ひとりの体格、怪我の経過、当日の任務量まで把握して、椀によそう量を変えていることをご存知でしたか」
「……何を言って」
「鉄分の必要な者には野蒜を。肩に古傷を抱える者にはローズマリーを。塩分を抑えた携行食は、行軍中の水の消費を半分以下に減らす。すべて、計算されたものです」
アルベルトの声は静かだった。怒りではない。ただ、事実を述べる声だった。
「彼女の仕事は、料理ではありません。戦力管理です」
「そんな講釈はいい! 戻せと言っている!」
「彼女の仕事を『飯炊き』と呼んだのは、あなたでしたね。食堂で、百二十人の団員の前で」
アルベルトの声は静かだった。怒りではない。ただ、事実を述べる声だった。
「味が薄いと蔑み、携行食を蹴り倒し、三年間の食事管理を『見栄えがしない』と一蹴した。その結果が——二ヶ月で崩れた騎士団の体力です」
ディートリヒの顔が赤くなり、そして——蒼白になった。
「あなたの剣が強いことは疑いません。けれど剣は、兵を養うことはできない。兵を養う力を——あなたはご自分で捨てた」
*
わたしは食堂の奥に戻り、棚から包みを一つ取り出した。
携行食。蒼鷹団の任務で培った改良版。栄養バランスを保ちながら、保存期間を従来の倍にしたもの。
「これを、お持ちください」
ディートリヒが包みを見つめた。
「……これだけか」
「百二十名が二週間持つ分です」
「二週間で——百二十名を?」
「はい。この土地の食材で工夫しました。祖母の携行食より、栄養価は一・五倍です」
ディートリヒが手を伸ばし——止まった。
「二週間の後は、どうすればいい」
「その間に、食の価値がわかる方をお探しください」
わたしの声は、穏やかだった。怒りではなかった。恨みでもなかった。
ただ——もう、あなたのために作る理由がないのです。
「それと、手紙を一通」
昨夜のうちに書いておいた手紙を、包みと一緒に渡した。
ディートリヒは手紙を開いた。わたしの字で、こう書いてあった。
『食事は嘘をつきません。誰のために作ったか、体が覚えています。
この携行食は、銀獅子団の方々のために作ったものです。あなたのためではありません。
二週間の間に、厨房を守る人を見つけてください。わたしは、わたしを必要としてくれる場所にいます』
ディートリヒの手が、微かに震えていた。
「……すまなかった」
初めて聞いた謝罪だった。けれど——もう、遅い。
「お気持ちだけ、頂戴いたします」
一礼した。
そしてディートリヒが馬車に乗り、街道の向こうに消えていくのを、わたしは食堂の前で見送った。
アルベルトが隣に立っていた。
「よかったんですか」
「はい」
「後悔は?」
「ありません」
即答だった。
「……少しだけ、ほっとしました」
「ほっとした?」
「騎士団の方々が、これで持ち直します。二週間の携行食があれば、態勢を立て直せるでしょう」
アルベルトが小さく笑った。
「あなたは——追い出した場所のことも、まだ心配しているんですね」
「騎士団を嫌いになったわけではありませんから。嫌いになったのは——いいえ、嫌いにさえなれませんでした」
「それが、あなたらしい」
アルベルトの手が、そっとわたしの肩に触れた。帳簿のインクが少し染みた、温かい手だった。
わたしは——その手に、そっと自分の手を重ねた。
*
その夜、わたしは厨房の片付けを終えて、裏庭に出た。
マティアスが移植してくれたばかりのローズマリーが、夜風に揺れていた。
「ここにいたんですね」
アルベルトの声がした。
ランプを片手に、彼が立っていた。
「明日の支度ですか」
「いえ。……少し、外の空気を」
彼が隣に来た。並んで、星を見上げた。
しばらく、どちらも黙っていた。
「レーナ」
名前で呼ばれた。久しぶりに——本当に久しぶりに、ちゃんと呼ばれた。
「給金や、契約の話ではなく」
アルベルトは前を向いたまま、静かに言った。
「ずっと、ここに居てほしい。
……わたしと、一緒に」
ランプの光が、彼の指先で揺れていた。
わたしは黙って、彼の腕に、自分の手をそっと添えた。
返事のかわりに。
頷くより、言葉より、こっちの方が確かだと思った。
ローズマリーが、もう一度揺れた。
春の夜風の中で、確かに、根付いていた。
*
後日談は、静かなものだった。
銀獅子団は、あの携行食で二週間を凌いだ。その間に副団長が国中の賄い番を探し——けれど、祖母の献立帳なしに百二十名の食事管理ができる者は見つからなかった。
最終的に、銀獅子団はわたしに携行食の定期納品を依頼してきた。正式な契約書付きで。報酬も、以前の三倍。
使者は恐縮しきった表情で言った。
「ミュラー様、銀獅子団としてはぜひとも——」
「お受けいたします」
使者が安堵の息を漏らした。しかし、わたしは続けた。
「ただし、条件がございます。蒼鷹団の食事を優先させていただきます。納品は余剰分からとなります」
「余剰分、ですか……? しかし、百二十名は——」
「ご安心ください。改良した携行食は祖母のものより効率が良い。少量で栄養が賄えます。ただ、この町にも、わたしを必要としてくれる方々がいますので」
使者は苦い顔をしたけれど、断る権利は彼らにはなかった。
ディートリヒのことは、風の便りで聞いた。
自身も体調を崩し、遠征から退いたという。塩分過多の食事で腎臓を傷め、以前のような激しい訓練ができなくなった、と。
騎士団の会議で「剣だけでは団を維持できない」と発言したらしい。遅すぎる気づきだったが——気づかないよりはましだろう。
あの若い騎士——わたしの携行食を評価してくれていた騎士が、食事管理の重要性を上層部に訴えたのだという。
わたしは——何も思わなかった。ディートリヒへの怒りも、ましてや同情も。ただ、もう関係のない人だった。
*
蒼鷹団の食堂で、今日も朝食の仕込みをしている。
昨日の煮込みの残りを出汁に使って、今朝の粥を炊く。今日は少し冷え込むから、生姜をひとかけ。
「レーナさん、今朝の食材で相談があるんですが」
アルベルトが帳簿を小脇に抱えて厨房に入ってくる。商人の息子らしく、食材費の管理はいつも正確だ。
「南の農家から蕪が安く入るそうです。ただ、葉付きで——」
「葉も使えます。刻んで塩もみにすれば常備菜になりますし、干せば冬場の保存食に」
「さすがですね。……どうしてそういう発想が出てくるんですか」
「祖母が教えてくれましたから」
食堂の扉が開いて、団員たちが入ってきた。
「レーナさん、今日はなんだ?」
「粥と、蕪の葉の塩もみと、昨日の鶏の残りで作った佃煮です」
「残り物とか言って、いっつもうまいんだよな……」
ブルーノが椀を受け取って、幸せそうに啜っている。マティアスが無言でおかわりの列に並んでいる。ターニャが「今日の粥、いつもよりとろとろで好き」と小さく笑っている。
窓辺に置いた小さな鉢植えが、朝日を浴びていた。ローズマリー。マティアスが「肩にいいんだろ」と言って、裏庭から移植してくれたもの。
「レーナさん」
「はい」
「その鉢植え、だいぶ育ちましたね」
「ええ。この土地の気候が合っているみたいです」
「あなたも——この土地に合っていると思いますよ」
アルベルトが少し照れたように目を逸らして、帳簿をめくる振りをした。
わたしは微笑んだ。
国境の町の空は広くて、朝の風が食堂に吹き込むと、鉢植えのローズマリーが揺れる。
銀獅子団から今月の注文書が届いている。携行食、百二十人分。
蒼鷹団の食事が終わったら、余った食材で仕込もう。
——食事は嘘をつきません。誰のために作ったか、体が覚えています。
わたしはもう、食の価値がわからない人のために作ることはない。
この手で、この舌で、わたしを必要としてくれる人のために——温かい食事を、届け続ける。
窓辺のローズマリーが、朝の風に揺れている。
蒼鷹団の食堂は、今日もいい匂いがした。
【完】
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
「祖母から受け継いだ知識と感覚で、一人ひとりの体を支える仕事」
——派手さはないけれど、本当はとても価値がある仕事を書きたくて生まれた短編です。
ディートリヒには見えなかったものが、アルベルトには見えた。
その違いが、レーナの居場所を分けたのだと思っています。
もし少しでも心に残るところがあれば、★評価・ブックマーク・感想をいただけると、本当に大きな励みになります。短編は読者の方からいただく一言一言が、次の作品を書く力になります。
他の作品も投稿していますので、よろしければ作者ページから覗いていただけると嬉しいです。
また別の物語で、お会いできれば。




