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夏美

作者: 鳥宮船

 まいったな、と思った。

 そういう時の癖で、夏美は傾げた頭にゲンコツを当て、トントンと何度か叩いた。


「プールの後で、耳に入った水を出すみたいだね」


面白そうに笑って言った直之を思い出して、ゲンコツの動きが止まる。

 あんたは…

 ぎこちなく頭を正常の傾きに戻しながら、夏美は苦笑いした。

 あんたは、私の癖さえ気ままに出させてくれないのか。

 まいったな、と今度は口に出して言った。

 手にした携帯の画面には、直之からのメールが表示されている。


『結婚することになりました。お恥ずかしながら・・・・・・ 授かり婚です。 こんな俺でも父親になれるのかなとちょっと不安だけどな。簡単な結婚パーティーだけしようと思ってるんだけど、誘っていい? ヤサカさんとかアイとかも呼ぶし』


昔の彼女に送る文面としてはどうかと思う部分もあるが、直之の性格を考えると別段嫌味は感じない。むしろ、精一杯の気遣いを感じるくらいだ。


 会社の同僚のマキが見たりしたら


「信じらんない! いわゆるできちゃった婚でしょ? イヤラシイことしておいて、いけしゃあしゃあとよくメールして来れるよね! こっちは三十路もすぎて、子供を授かれるかどうかもわからないってのに!」


と、他人事であっても激怒したに違いない。


 まあ確かにそうなんだけどね、と夏美は妄想の中のマキをなだめる。

 直之は授かり婚でないと、結婚にふんぎれるタイプじゃないんだよ、だからよかったと思う。それにほら、前にも言ったみたいに、直之を振ったのは私で、でも人間としてはとても尊敬していたから、友達のままではいようねって我儘言ったのも私なんだよね。直之はそれをちゃんと聞いてくれて、だからマキにはちょっと不躾な文面に見えるかもしれないけど、直之は本当に・・・・・・


 ばからしい。


 誰もいない虚空に向かって必死になって元彼を庇い立てする自分に、夏美はむなしくなってソファに倒れこんだ。

 買ったばかりのクッションが、彼女を待ち受けて受け止めてくれる。

 夏美はクッションをギュッと抱きしめた。直之との思い出が何もない品が、今は本当に愛しく思えた。


 出会ったのは大学のサークルだった。

 哲学鯨飲サークルという、飲み会ごとにカントだニーチェだとテーマを決めて朝までくだをまくことを主体とした意味不明の集まりだったが、若い血潮を発散させるのに終わりのない哲学談義とアルコールという2つを組み合わせたのは画期的で、学生達もその本分をまっとうした気になるから居心地がよかった。

 直之は経済学部の生徒で、友人に誘われるままにサークルの門をくぐったのだが、とにかくおどおどしていて眼鏡を十秒に一回はずり上げていた。


 はじめは何を話したんだっけ?

 ああ、確か名前・・・・・・そうそう、夏美っていう私の名前を聞いて「君に会ったから、僕の今年の夏が美しいものになりそう」とか、歯が浮くようなことを真面目に言ってきたんだっけ。

 話すうちに酔ううちに、笑っちゃうような台詞も純粋に言っていたことがわかり、直之の人柄の良さに惹かれて、何度か飲み会を重ねるうちにアルコール無しでの待ち合わせを約束するまでとなった。

 そのまま交際に発展し、交際は8年に及んだ。


「8年付き合った彼女には結婚を言い出さなかったのに、たった半年付き合った彼女とできちゃった婚なんて…・・・ それのどこが“人柄が良い”よ!」


マキがまた現れる。いや…これは私か。

 空中に描いたマキの顔を消して、夏美は上半身を起こした。

 自分の憤懣やるかたない思いを自分のものと認識するのがあまりに辛くてマキに言わせていただけだわ、と認めたとたん、涙が出てきた。


「わー・・・・・・ やめてよ、みっともない」


苦笑いして誤魔化そうとしても、一旦出始めた涙は止め処が無かった。


 デートしようか、と言ったのも私。

 付き合おうか、と言ったのも私。

 同棲しようか、と言ったのも私。

 別れよう、と言ったのも私。

 別れても友達でいてほしい、と言ったのも私。

 全部全部、私が言い出して、なのに今勝手にこれまでの思い出をほじくり返しながら傷ついて泣くなんて、なんて身勝手なんだろう。


 デートして欲しそうだったから、とか

 何度も告白しかけて黙ってしまうから、とか

 就職失敗してお金が無くて一人暮らしが大変そうだったから、とか

 でも同棲してみたら正社員の私におんぶにだっこで、これじゃだめだと思ったから、とか

 それでもその後の生活がやっていけてるか心配だったから、とか

そんなの私の側からの勝手な言い訳でしかない。

 本当に直之が好きで、一緒に添い遂げるつもりがあったのなら、どんな理由があっても別れを告げるべきじゃなかったんだ。

 いまさらになって、やっぱりあの人と結婚したかったんだと思ってみても遅い。

 なんとか涙を止めると、夏美は携帯を手に持った。


『結婚パーティー? 元カノに連絡するなんてどうかしてるよ、冗談じゃない。欠席するし、メールもこれっきりにしよう。お幸せに!』


 直之の番号をブロックして、携帯をソファに投げる。

 こうでもしなきゃ奥さんになる人に悪いからね。直之がそういう気が回るとはとても思えないし。

 ああ、最後まで世話が焼ける。


 頭にゲンコツを当てながら、夏美は予想以上にショックを受けている自分を振り払おうと本棚から哲学書を引っ張り出した。


【愛されることより愛することに愛は存在する】


 アリストテレスの言葉が目に留まる。

 ああ、と夏美は息を吐いた。

 私、振った元彼に想いを抱き続けた馬鹿だけど、でも愛はあったじゃん。それは世界を変えることも私を幸せにすることも無かったけど、直之と私の何度かの夏は美しいものにしたんだから無駄なことじゃなかったんだわ。


 夏美はコンビニで買った缶チューハイをいつもより多く冷蔵庫から引っ張り出すと、久しぶりの朝までコースに胸を高鳴らせた。



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