風になる
『時間とは平凡な神秘であり、すべてはどうにもならないことなんだと自分に言い聞かせようとした。』
p.32『素粒子』(ミシェル・ウエルベック著)
その惑星の地表のほとんどは砂漠であった。2万2000年の歳月を掛け、高度に文明を発展させたその惑星の知的生命体は、海岸付近に旧約聖書に登場するバベルの塔を彷彿させる、無数の高層ビルを建設し、そこで生活していた。彼らは文明の発達の段階で、地表の化石燃料を全て消費し、かつて地表の8割を占めた広大な森林を伐採した。
まだこの惑星に緑が生い茂っていた頃、多種多様な民族が、各々の国を建て独自の法の下、生活していた。その多くは、火力発電により文明を発展させていた。
そしてある時、地表の極北に位置する国の、ある科学者が、核分裂反応の実験に初めて成功させ、彼らの文明のエネルギー源全ては、原子力発電へと移行していった。それは、ジル・クロム著、原子核の破裂を示唆する論文が「Atom」に掲載された257年後のことであった。
さらに、地表の7割が砂漠と化した頃、彼らが創造したロボットの人工知能が、彼らの知能を超えた。シンギュラリティである。そして、彼らの産業の多くをロボットが代替した。
その結果、多くの者が職を失ったが、彼らの統治者たる存在は、ロボットと彼らを包括する新たな価値分配体系を築き上げ、共存に成功させた。
現在、彼らとロボットの姿の違いを判別するのは、容易ではない。ロボットに人権が与えられて早100年、かつての様なロボット差別も無くなり、ロボット達の生活しやすい世界が作り上げられた。現に、ロボットは彼らと同じように喜怒哀楽の感情を持ち、就寝時は夢を見る。人権が与えられるのも今となっては、当然のことだった。
そして近頃、地表の西海岸に住む彼らの若い世代では、原始的な生活をする文化的運動が盛んになっていた。我々の文明で言うところの、カウンターカルチャーの様なものに近いのかもしれない。1960年代頃、かつて存在した北アメリカ大陸に位置するアメリカ合衆国の若者を中心に展開した、既存の文化や体制に反する文化、対抗文化である。
海岸から内陸の砂漠に若者たちは移住し、そこで、火力発電から原子力発電への過渡期に当たる文明相当の生活を行った。
我々は、その内の一人である、ビートニという男に関心を寄せた。彼は17歳の時、30人程の同年代の若者と共に、生活に必要な荷物を担ぎ、内陸に441キロの地点にある、砂丘の畔へ向かった。そして、ビートニはそこに、一階建てのコンクリート造りの家を建てた。同じように他の者も家を建て、ある者は恋人と、ある者は友人と、ある者は兄弟と暮らした。当初、ビートニは一人で暮らしていた。彼は、孤独を好む人間であった。彼がここに移住したのも、パノプティコンさながら、全てが情報化された管理社会に窮屈さを感じていたからであった。彼は幼少期、歴史図鑑で知った、砂漠での、法や階級に支配されない生活を毎日夢見ていた。ビートニ達は、砂丘の畔に井戸を掘り、そこから汲み上げた地下水を基に、作物を育てた。それは、彼らがこれまで食べたどの作物より、味気の無いものであったが、彼らは自ら育てた作物を誇りに思い、そして味わった。
砂丘の畔に彼らが訪れて2年、村はマチドという名をつけられた。そしてその年、ビートニは初めて女の子と寝た。その女の子の名は、ゾーハルで、年齢は彼と同じく19歳、いつも村の喫茶店のカウンターで本を読んでいた。肩に掛かるほどの黒い髪、キャミソールにチノパンツを着て、厚底のサンダルを履いていた。そして、毎日異なったネックレスを身に着け、左手で煙草を吹かしながら、右手で本を読み、時折コーラ瓶を飲んだ。コーラ瓶の縁は、差し込む陽光に照らされた水滴によって、いつも輝きを放っていた。その輝きと相反する彼女の気怠い表情は、何とも神秘的だった。彼女の存在する周りを、いつも淡いオーラが包んでいた。
ビートニが初めてゾーハルに会った時、彼女は『潜在意識と夢』を読んでいた。ビートニはその日、農作業の休憩がてら、土汚れた作業着と砂が付着して茶色く汚れた顔で、喫茶店を訪れ、ゾーハルとは席を一つ開けたカウンターに腰掛け、コーラ瓶を注文した。店員からコーラ瓶を受け取った時、彼の土汚れた右手と濡れた瓶が触れ、カウンターの机に泥水の小さな水たまりが生成した。それを、ゾーハルが紙ナプキンで拭いてあげたのがきっかけだった。男というものは、女に変に優しくされると、どうも勘違いしてしまうらしい。この惑星の知的生命体も我々と同じく。
ビートニはゾーハルに軽く会釈し、
「何を読んでるの? 」と質問をした。
すると、ゾーハルは吸っていた煙草を灰皿で圧し潰し、
「『潜在意識と夢』」と言った。
「小説? 」
「いや、精神分析学の学術書。今から432年前に書かれた本よ」
彼女はビートニに顔を向けず、本を読みながらそう答えた。
「なんでいま時、そんな昔の本を読んでるんだい?」
「なんでって、面白いからよ」
「それに、私たちに潜在意識ってのがあるのを初めて提唱したのが、この本の著者なのよ」
彼女はビートニの方を向いて、真剣な表情で続けて言った。
「ロボットにも潜在意識があるってのが、だいぶ前に話題になったでしょ。私が生まれる少し前のことだけど」
「そうなんだ」
ビートニは、そう言葉を返すことしか出来なかった。彼は、あまり本を嗜む人間でなかったからだ。もっぱら、哲学だの精神分析学だの学術的な用語を話されると、いつも脳が受け付けず、思考が滞るのだった。
「あなたはどんな本を読むの? 」
ゾーハルの質問にビートニは30秒ほど沈黙を置いて返した。実に長いこと本を読んでこなかったため、彼は記憶の斜面を滑るように、幼少期の記憶を思い出した。
「10歳の頃に読んだ歴史図鑑が最後に読んだ本かな」
「ずいぶん本を読まないのね」
と彼女は言った。そして、右ポケットから一冊の文庫本を彼に手渡した。その本は、『Technophobia』という本だった。
「どうせこんな所に居ても、暇なんだから本でも読んでみたら? これは私が一番好きな小説なの」
彼女は愛想笑いをし、ビートニに本を渡して、飲み干したコーラ瓶を横のごみ箱に捨てて店を出た。ビートニは店を出る彼女の姿を、虚ろな目で眺めた後、彼女の捨てたコーラ瓶を眺めた。ゴミ箱には7本の瓶が捨てられていたが、ビートニには、彼女が捨てたコーラ瓶1本しかゴミ箱の底には見えなかった。
ビートニはその夜、彼女から渡された本をベッドに寝そべりながら読んだ。あまり本を読まないビートニは、同じページを何度も読み返し、頁を進め、そして52ページ読んで、ベッドの横の灯りを消した。眠りに付くまでビートニは、ゾーハルのことを考えていた。のちに彼は気づくことになるが、その時、ゾーハルを考えるに至った彼の感情の励起は、恋愛感情から来るものであった。
翌日、彼は朝の8時に目を覚まし、台所まで行き、冷蔵庫にある水をコップ一杯飲んで、ベッドに戻り、本の続きを一日掛けて読了した。本を読み終わった頃には、日は沈み、空には無数の星々が姿を見せていた。彼は時間を忘れ、読書に熱中していた自分に、ある種の感動を抱いた。気が付くと全身を空腹感が襲っていた。読書に熱中しすぎて食事を一切取っていなかったのだ。一気に押し寄せた空腹感に耐えきれず、更に、今から料理をする気力も残っていなかった彼は、喫茶店で夕食を取ることにした。喫茶店にビートニが訪れた時、そこにはまたゾーハルがいた。彼女はカウンターに座り、夕食を取っていた。皿の横には本が置かれていたが、昨日彼女が読んでいた本とは違った。
今度は、彼はゾーハルの横に座り、読んだ本についての感想を話し、そして、彼女の好きな本をまた貸して欲しいと言った。二人はその後、本の話を皮切りにお互いの身の上話や趣味など、他愛もない会話をしながら夕食を食べ、また会う約束をし、それぞれ自宅に戻った。二人はそれから、週に三回ほど喫茶店で会い、会話をした。そのどれも第三者の我々からすると、退屈極まりないものであったが、二人にとっては違った。二人が出会って一か月と半月が過ぎたころ、二人はビートニの自宅で眠り、そしてその数日後、二人はビートニの家で生活を共にし始めた。朝起きて二人で朝食を作り食べ、顔を洗い、歯を磨き、作業着に着替え、日中は農作業をし、日が暮れると自宅に戻り本を読んだ。小説、哲学、精神分析学、史学に関する本をもっぱらだ。夕食は喫茶店で済ませ、風呂に入り、0時を過ぎる前に寝た。何の変化もない退屈な日々だった。しかし、二人はその無為な生活を楽しんでいた。
そんな生活を二年続けた、ある日のことだった。村に、来訪者が現れた。それは政府のロボットであった。彼らの来訪より数日前、西海岸のその国では、内陸への移住を行う若者の規制及び内陸移住者の強制帰還に関する法案が可決された。現れた政府のロボットは、抵抗するマチドの住民を麻酔銃で眠らせ、メモリ銃により内陸での生活、移住への動機そのものすら消去させた。無論、ゾーハルにもその矛先は向けられたが、ビートニには向けられなかった。それは、彼が戸籍未登録の人間であったため、ロボットの識別システムに反応しなかったからだ。ロボットが現れた時、二人は井戸水を汲み上げていた。ビートニがゾーハルの前に立ち、ロープで井戸水を汲み上げたバケツを持ち上げていた時、彼女の首元を麻酔銃が襲った。直ぐに、その銃声音にビートニは気づき、後ろを振り向いたが、既に遅く、ゾーハルは地面に倒れ込んでいだ。二体の近づくロボットから、彼女を守ろうとするビートニの抵抗も虚しく、彼はゾーハルを失った。そして、ゾーハルはマチドでの記憶と共に、ビートニとの記憶も失い、最終的にマチドには、ビートニ一人残して、誰一人居なくなった。それはビートニが、マチドに移住してから、9921本の煙草を吸い、104冊の本を読み、10950回井戸水を汲み上げた日のことであった。
ビートニは井戸の前に膝から崩れ落ち、呆然と地面を眺めた。砂漠の砂は石英の微粒子からなっており、表面は酸化され、赤みを帯びた黄色をしていることを彼女に教えてもらった、1年前の夏の午後を思い出し、その記憶を掬うように、彼は優しく両手で砂を掬った。両手に積もった砂は、風によって吹き飛び、手元には、もとの半分しか残らなかった。もう一度、砂を掬い、そして同じ様に風が吹いて、砂は吹き飛んだ。それが実に9回繰り返された後、溢れんばかりの涙を彼は流した。それは頬を伝い、顎から一滴一滴地面に落下し、楕円形の窪みを形成させた。一通り泣いた後、彼は自宅に戻り、シャワーを浴び、着替え、ベッドに寝そべりながら、0時を過ぎる前まで本を読み、そして消灯し、寝た。眠りに付くまで彼は、彼女のことを考えた。彼女は自分の記憶を失ったこと、もう二度とここに戻ってこないこと、二年間の思い出。そのどれもが、記憶の戸棚から溢れ出て、彼の精神を襲い、深くその記憶の重みに押し潰された。しかし、不思議ともう涙は出てこなかった。そして、彼は幼少期の記憶の戸棚を開いた。物心付いたときに、両親に捨てられ、祖母はたった一人で自分を育て、困窮した生活の中でも常に食料を与えてくれたこと、そして祖母が日に日にやせ細っていったこと、管理社会の中で、戸籍登録されない程に、自分が身分の低い人間であることを。
そうして、彼が15歳の頃、祖母は死んだ。原因は明らかに、栄養失調と極度の身体疲労から来るものだった。肉もほとんど付かぬ祖母の遺体に、彼が最初にしたことは、その両目をそっと閉じてやることであった。その数分後、保安局のロボットが祖母の遺体を処理しに現れ、祖母を離さぬと必死な孫から、哀れみの感情を一つまみも見せず奪い上げ、遺体をプレス機にかけた。ビートニは、祖母がプレス処理される瞬間を瞬きもせずに、ただ茫然と眺めた。その光景は彼に、舗道に落ちた銀杏の枯れ葉を思い出させた。枯れ葉はいつも道行く人々に見向きもされず、踏みつぶされていたことを、そして、その枯れ葉が自分の祖母であって、唯一自分を愛してくれた存在であったことを。その日から、彼の中にはぽっかりと空洞が出来た。そして、その空洞を埋めてくれた存在が、ゾーハルであった。しかし、そのゾーハルも、彼は失ってしまった。ビートニは自分が人に愛され、そして、人を愛してよい存在ではなかったのだと深く思い、深い喪失感に二度侵され、もう何にも期待せず、何も求めようとしなくなった。普通の人間ならば廃人と化し、生きる気力も無くすことだろう。しかし、ゾーハルを失ったその翌日から彼は、何ごとも無かったかのように、不思議と淡々に、これまで通りの生活を送った。朝起きて朝食を作り、食べ、顔を洗い、歯磨きをした後、作業着に着替え、井戸で水を汲み上げ、農作業をし、日が沈むと喫茶店に向かい、キッチンの冷蔵庫にあるコーラ瓶をカウンターで飲み、簡単な夕食をそこで作って食べた。そして帰宅し、風呂に入り、0時を過ぎる前まで、ベッドに寝そべりながら本を読み、寝た。毎日1箱分の煙草を吸った。
そんな生活を三年続けていたある日、我々は彼に接触を試みた。その頃にはもう、彼の生活は、順序が入れ違う事なく、最早、血の通わぬ程に、淡々としたものとなっていた。そこには、一切の感情を感じ取れなかった。彼がいつもの様に作業着に着替え、家を出て、農地に向かっている時に話しかけた。
「やぁ」
ビートニは驚きもせず、砂漠の、ある空間を見つめ、
「君たちだったんだ、僕をずっと見ていたのは?」と言った。
「そうだよ。でも何故分かったんだい? 我々は姿を見せてすらいないだろ? 」
「でも分かるんだよ。そこに君たちが居て、僕をずっと見ていたことを。それで君たちはいったい何者なんだい? 」
一瞬、砂漠に突風が吹いた。風が砂漠の砂を巻き上げ、砂塵を作った。ビートニは両手で顔を覆い、口に入った砂を唾ごと吐き出した。そして、恐る恐る両手を顔から放し、瞼を微小に開け、周りを眺めた。
「我々はただの砂漠の風だよ」
「風が話すわけないだろ? 現に、君たちは僕に話しかけれている」
「我々がか? 君に話しかけているのは君自身さ。話しかけているのは、君の潜在意識そのものだよ」
彼は困惑した表情で、両目を開き、頭上の恒星を見つめた。眩しさで目尻付近の筋組織がやけに収縮した。
「君たちにはかなわないな」
ビートニの乾いた笑い声が砂漠に響き、そして、一瞬で重みを無くし、砂粒ほどの軽さに減少し、地表に落ちた。
「我々は君をずっと見てきた。それでだ、ビートニ。君はここでの生活で何を学んだ? 」
ビートニは口を少し歪ませ、そして僅かに苦笑してから、こう言った。
「あらゆるものは、時の神秘の前ではどうにもならないことを学んだよ」
「それはどういう意味だね? 」
ビートニは、脳内の貯水池から、正確な言葉を掬い上げ、
「僕は、もう自分の祖母の顔も、ゾーハルの姿も、鮮明には思い出せない。絶対に忘れてはいけないはずの大切な人ですら、人はいつか忘れてしまう。結局、時の流れの中では、人は無力に過ぎないんだ。それは、どれほど文明が発展しようと、決して覆せない」
砂塵は消え、彼の回りには、彼一人して誰も存在しないマチドの姿が顔を見せた。
「君たちに一つ質問していいかな? 」
ビートニは、姿も捉えられない我々に尋ねた。
「何だい? 」
「君たちにとって時間とは何なのかい? 」
一瞬、大気が振動し、風が笑ったかのように、ビートニには思えた。
「我々は、ただの風に過ぎない。時の流れの狭間を、何の意味も持たずに彷徨っているだけだ。だから、我々には生も死も存在しない。時間という概念そのものが、最初から我々の中には存在しないのさ」
ビートニは、我々の回答に口角を上げ、瞳孔を開き、目に輝きを見せた。喜びの表情を見せていたのだ。
我々は、母星の言葉を引用して彼にこう言った。
「喜びとは、強烈で深遠な感覚であり、意識の全体を揺さぶる、自己超越的な充実感である。それは陶酔や至福、存在の恍惚にも等しい」
そして再び、突風が彼の回りを襲った。巻き上がった砂によって出来上がった砂塵は、数秒間ビートニの意識を混濁させ、思わず彼は地面に膝を着いた。そしてふと、彼は巻き上げられた砂の中から、拳銃が一丁、姿を現しているのに気づき、右手で取った。そして左手で地面を押し、再び地面に立った。
その瞬間、大気が微かに軽くなり、風が笑顔を見せた。彼もまた、風と同じように笑顔を見せ、こめかみに銃口をつけた。
「僕も風になるよ」
そう言い放ち、ビートニはそっと引き金をひいた。
『われわれの不幸は、幸福の可能性がいよいよ現実のものとなりつつあると思われたまさにそのとき極致に達するのである。』p.336
『素粒子』(ミシェル・ウエルベック著)