沈黙は金
踏み入れば記憶を奪われ、引き返しても完全には戻らず、奥地に辿り着けば記憶をすべてなくした上で森を出ることを禁じられる。
自分は記憶はなくとも知識はある。けれど忘却の森という知識はなかった。つまり知っていようが知るまいが、この森は踏み入れた時点でそうなるということ。
そんなのなんて――なんて、クソ森なのか!
「もう、意地悪ねトト様。シノお姉ちゃんが困ってしまっているわ」
「そうだよトト様。シノお姉ちゃん可哀想じゃない?」
二人……一人と一柱だけで話し込んでしまっていたからだろうか。退屈になったらしいミズノトとツチノエが、トト神様の長い毛並みをモフモフしながら抗議する。
たしかに神の規則だの記憶だの、五歳ほどの子供にはあまり面白い話ではないだろう。モフモフされると気持ちいいのか、トト神は目をとろんと細める。
『うんうんそうだねぇ。じゃあシノのことはちょっと考えておこう。どうにかできないか検討してみるよ』
「は?」
あまりにもあっさりと言ったけれど、神々の盟約のはずの規則を曲げるつもり……ということでいいのだろうか。
子供に言われただけで? いや、こちらはありがたいのだけれど、それはどうなのか。どう考えてもそんな簡単なものではないのに。
『うーん、とはいえなにか思いつくまでは待っていてくれないか。なにせ前例がないからね。とりあえずしばらくは、この聖域で過ごしてほしい』
「は、はあ……」
なんだか分からないけれど、もしやこの神、けっこう適当なのではないか。
そんな疑惑が頭に浮かんだけれど、怒らせたくないので口には出さなかった。神を怒らせるとか国一つなくなりかねないし。
沈黙は金である。
驚くほど透明度の高い、澄んだ泉を覗き込む。
年の頃はおそらく十四、五くらいだろうか、黒髪の少女が水面に映っていた。
シノという名前を返してもらっても、他の記憶は思い出せない。記憶を手繰ろうにも記憶そのものが奪われてしまっている。だから水鏡に映るその顔を見ても、イマイチ自分の顔だと思えなくて変な感じだった。これが実は他人の顔であると言われても信じてしまいそうな、どうにもしっくりしない感覚。
実のところ自分が忍者であるということも、同じように実感が湧かなかったりはした。服装、持ち物、常人には真似できないだろう身のこなし。すべてがこの身はくノ一であると推測できるのに、そうであるという確証だけが己の中で得られない。それを裏付ける経験がゴッソリと抜けている。
記憶がないとは、自分が何者なのかが分からないということか。
「むぅ、思っていたよりも妖艶さが足りないような……いやいや、拙者のくぅるびゅうてぃさに若くて健康的な魅力が加われば最強なのでは?」
『記憶がなくてもクセの強い性格は据え置きなんだねぇ。それとも記憶を失ったからその性格になったのかな?』
隣にやってきた毛玉が水を飲んで、水面の顔が波立つ。
けなされているように聞こえたけれど、歩いているのに足も見えないモフモフ毛玉がそんなことを言ってもあまり腹は立たない。自分の性格はマトモだし。
なんならこの毛玉の方が性格のクセが強そうな気もする。……まあ、それは神なのだから当たり前か。
こんな見た目をしていても決して軽んじてはいけない。今も隣にいられるのはそれを許されているだけで、毛先すら動かさず自分の命の灯火を消すことも可能だろう。
いや、可能かどうかではない。今は抑えてくれているだけで、本来ならこの距離にいるだけで圧し潰されてしまう存在のはず。
できればあまり関わりたいと思わないのだけれど、あの巨樹のウロを出るとき普通について来たときは困ったし驚いた。神ならちゃんと神域に鎮座していてほしい。
「てぇーい!」
可愛い掛け声と共に、バシャア! と大きく水飛沫がたつ。兎耳の少年……ツチノエがいきなり水の中に跳び込んだのだ。
自分のすぐ近くで。
「ぎゃあ!」
突然すぎてビックリしたのと、思いっきり水をかぶってしまって、女子らしくない悲鳴が出る。ダメだ今のはくぅるびゅうてぃではない。
「てやってやっ!」
泉は浅くって、小さなツチノエでも足がつくようだ。彼がバシャバシャと水を掻き回すように腕を振るうと、ぽいぽいと何かが宙に投げ出される。
魚だ。陸に上がってビチビチと跳ねるそれはけっこうな大きさの魚類で、コイほどの大きさだがヤマメに似ていた。というかかなり大きなヤマメだ。なぜヤマメがこんなに大きいのか、なぜ川に棲むはずのヤマメが泉にいるのか、そもそもなぜあんな方法で魚が獲れるのか。
「トト様、お魚とったよー!」
『うんうん、ツチノエは魚獲り上手くなったねぇ』
「へへー」
泉を波立たせながら戻って来て、濡れた身体のままトト神様に抱きつくツチノエ。獣神は毛がべっちょりしても気にならないのか、嬉しそうに兎耳をピコピコさせる男児を褒めてあげていた。
たまに、こんなことで怒るのか、というのがいるからハラハラしたけれど、どうやら濡れる程度で怒るような情緒不安定の神ではないらしい。むしろ子供好きの善神なのではないか。だったらありがたい。
「ツチノエは最近すっごく上手なのよ。いつもあたしの分まで獲ってくれるの!」
「えー、ミズノトの方が得意じゃん」
狐耳の目隠し少女も同じように水の中へ入るのだろうか。ツチノエのように服を着たままでは、袖も裾も余っているから転んで溺れかねないが。
というか、トト様が父様ではなくトキヨツヒマガツトト神であったのなら、改めてこの子たちはいったい何者なのだろうか。耳と尻尾に加え身のこなしや目隠しなど、普通ではないのは間違いないが。
二人の獣耳を眺める。トト神様が獣の神であるのなら、その加護を受けてあの姿なのかもしれない。この毛玉も二人のことは好ましく思っているようだし、ツチノエは獣の体力を、ミズノトは獣の知覚をもらい受けているのであれば、いろいろと説明つく気がする。
「はい、お姉ちゃんの分!」
元気いっぱいに魚を差し出してくるツチノエの声に、考え事から現実へ引き戻される。
ちょっと誇らしげな顔が眩しくって思わず受け取ると、魚が暴れて危うく落としかけた。そういえば日の位置はお昼時で、自分はいつから食事を摂っていないのか記憶がない。空腹を自覚して、改めて魚を見る。この大きさならお腹もいっぱいになるだろう。
『良い大きさだし、脂ものってそうだね。それじゃ食べようか。いただきまーす』
「いただきまーす」
「いただきます」
トト神様がちゃんといただきますを言うと、二人もそれに倣う。良い子たちだ。
そうして二人と一ぴ……一柱は、まだビチビチと暴れる生きたままの魚を、大きく開けた口に――
「ちょ待っ! 待った! 待つでゴザル!」
慌てて止める。全員が止まり、どうしたのかと無垢な視線が集まった。
どうやら、自分をからかおうとした冗談ではないらしい。
『なんだいシノ? 魚は新鮮な方が美味しいよ?』
「トキヨツヒマガツトト神様におかれましてはそのまま食べていただいて構いませんが、この二人はダメです! 塩で清められた海の魚ならまだしも、川や泉の魚を人が生食すると病になりますよ!」
『ここは我の神域だから、そういう心配はしなくていいけれど?』
神の力すごい! 川魚のお刺身は食べたことないからちょっと興味ある!
けれど魚には鱗もヒレもあるから口の中を怪我するとか、生きたまま暴れる魚を食べるのは精神的にキツいとか、そもそも人はこの大きさの魚をそんな食べ方しないとか、ツッコミどころがありすぎて何から言っていいのか……!
『ああ、そうか。そういえば、人は料理をするんだったね』
まるでそれが意識の外だったかのように、トト神様はまん丸な目をパチクリさせる。……いや、本当に意識の外だったのだろう。獣は料理をしない。
『いいね、興味深い。ではシノ、君の手でこの魚を料理してみてくれないか。ツチノエとミズノトのいい経験になるだろう』