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神々の盟約

 眠そうな目だった。

 目の周り以外は長い獣毛で覆われて、鹿のような角がにょきっと出ているまん丸な毛玉で、けれどそれは自分へとまっすぐに目を向けて言葉を投げかける。


『それで、名前だったね。たしかにないと不便だ。君ではなく我と子供たちがね。だから特別に返すとしよう』


 その毛玉……両側からツチノエとミズノトにしがみつかれた獣がそう告げると、二本の角の間に光が灯る。光る苔によく似た色の、けれどもっと明るい、小さな光。

 それが自分の胸へと吸い込まれる。



「……シノ」



 そうして、自分は自分の名を思い出した。


「お姉ちゃんの名前、シノって言うの?」

「可愛い名前だわ! 綺麗な名前だわ!」


 記憶がないのに、自分の名だと分かる。それくらいに馴染む響き。呼ばれれば思わず振り返るだろう二音。シノ。

 その名を返してもらって、その名を返してくれた存在へ跪いた。これは明らかに神聖なる奇跡であると確信した。


「し……失礼いたしました! 深き聖域に棲まい、人の言の葉を操り奇跡をもたらす獣形。まさしく伝え聞く神の眷属。いと気高き神獣であられると存じます! 許可なきまま寝所に立ち入る無礼、平にご容赦を!」


 弛緩していた。大きい犬程度の角の生えた毛玉なんて姿形だったから、神の眷属だと察するのに時間がかかった。

 こんな場所にいるのだから、ただの獣であるはずがないのに。


『そうかしこまるものではないよ、シノ。ツチノエとミズノトが連れてきたのだから、君は客人だ。であればこの場に入るのを咎めはしない』


 跪いたまま安堵する。神の眷属など怒らせて、一口で食べられてしまうなら慈悲だ。どんな呪いを受けるか分からない。


『しかし、先ほどのは少し違うな。我は神獣ではない。獣神さ』

「は――?」


 神獣ではなく、獣神。

 言葉遊びのようなそれにより絶望的な意味合いが含まれているのだと、気づくのに一拍かかった。


「トト様は神獣じゃないわ!」

「トト様は神様なんだよ!」


 モフモフとした毛が気持ちいいのか、ぷにぷにの頬を擦りつけながら幼子たちが教えてくれる。けれど難しい内容ではないはずなのに、なかなか頭に入らない。


『見ての通り獣たちの神でねー。ハガミハタたちが生み出した人族がどれほど知っているかは分からないけれど、トキヨツヒマガツトトという』


 神の眷属ではなく、神そのもの。それを理解して、ザァ、と血の気が引く音を聴いた。

 世界を創り、そして三度世界をひっくり返した、大いなる荒々しき神々の一柱。

 まさか、と思いつつも否定できはしない。すでに奇跡は見たし、その姿形も見たことがない獣のものだ。それは神獣でもありうることだけれど、しかし神獣が己の位階を偽るはずがない。この耳に届く喉を介さぬ声も、心なしか神々しく聞こえる。

 しかし、トキヨツヒマガツトト……それでトト様は省略しすぎではないか。


『さて、シノ。まずは君の状態を聞いておこうか。なにせ、ここに客人が来るのは初めてだからね。貴重な被検体だから正直に答えてほしい。君がいるここは忘却の森と言ってね、踏み入る者は記憶を奪われる神域となっているのだけれど、名前以外の記憶はどうだろうか?』

「へ? 記憶……?」


 忘却の森。記憶を奪う神域。


「記憶は、ありません。なにも思い出せません。ただ、衣服や持ち物からおそらく忍者であるだろうとは推測できましたが……」


 理解が追いつかなくて、とにかくそのまま答える。

 つまり自分の記憶喪失は頭を打ったとかではなくて、この森のせいだというのか。


『ああ、あれだけあからさまな持ち物を見ても思い出せなかったんだね。まあ封印ではなく奪い取ったのだから当然か。どうやら知識や常識あたりはそのままのようだし、名前まで掠めてしまったこと以外は成功のようだ』

「えっと……いったいどういうことなのでしょうか?」

『君の記憶は我が所持している、ということさ。君の中にはもうないから、思い出そうとしても無駄だよ』


 それはもはや記憶喪失ですらないのではないか。

 つまり今の自分は、記憶がごっそり抜けてしまっているらしい。


「しかし名前を返していただけて思い出したということは、他も返してもらえば記憶が戻るということでしょうか?」

『そうだね。記憶を返却することは可能だ。けれど神々の盟約によりそれはできない』

「盟約……ですか?」

『うん、神の力は強大すぎるからね。人の子が気づかず虫を踏み潰すように、神は人や獣の命を摘み取ってしまう。そうやって地上を荒らしてしまうことを憂慮した神々は、地上世界から去って遠くから見守ることにしたんだけれど……心残りがあって今しばらく留まりたいと希望する神もいて、そういった者たちは世界に大きな影響を与えないと約束し他の神たちの了承を得たのさ。この忘却の森はその証だね』


 ……トキヨツヒマガツトト神の言うとおり、記憶はないが知識はある。おそらく自分もその時期に立ち会っているのに思い出せないのは変な気分だが、人の前から多くの神が御姿をくらまされたのは数年前。

 では、この獣神は未だ地上に留まる神なのか。


『この森は名の通り、外の人が踏み入ればだんだんと記憶が抜け落ちていく。それに気づいて引き返せばだいたいの記憶は取り戻せるけれど、恐怖心を植え付けるためすべては返さないようにした。隙間が空いたままで帰ってもらって、踏み入ってはいけない禁忌の場所と吹聴してもらうことで隔絶をはかる狙いだね。人用の細々とした調整は面倒くさかったよ。――で、そんな試みが上手くいって五年以上誰もここに来なかったのだけれど……いやぁ、例外って出てくるものだねぇ』


 いっそ楽しそうにまん丸な目を細めて、トキヨツヒマガツトト神……長いからもうトト神でいいか……は、自分を見る。

 つまり例外はこの自分で、初めてのお客様というのは本当にその言葉通りなのだ。


「えっと、つまり……この森で記憶を奪われるのは神々が定めた規則である、と?」

『その認識でだいたい合っているよ。違いを正す必要性は感じないな』


 神と言うにはなんだか、どうにも威厳を感じない話し方だ。

 しかし規則……神がそうと決めて定めたものであるのは、まずい。これが気まぐれだとか、なにかの間違いならまだ良かった。まだその方が望みがあった。

 神が定めたものを覆すのは困難だ。


『君の認識に沿ってそれらしく補足すると、忘却の森は神々が決めた禁足地であるが故に、立ち入れば記憶を奪われるという罰則を科される聖域だ。つまり君の記憶喪失は禁足地に踏み入った罰ということになる。それを軽々しく返したりしたりするのは、神々の盟約にも背く行為だ。いくら我でもできないよ。……もしそんなことをしたら真面目ちゃんなイトヨリノハヤヒメや、仕切りたがりのサカカガミになんて言われるか分からないしね。意地悪なクソゴミバカクソの奴も黙っちゃいないだろうし』


 なんだか自分でも知っているような大物の神様の名が気軽に出てくる気がする。というかクソゴミバカクソは名じゃなくてただの悪口でございますよねトト神様。

 とにかく記憶は返して貰えないらしい。なんだかそれは困る――気がする。気がした。

 だってこの身は忍者なのだ。くノ一なのだ。


「じゅ、獣神様。拙者は忍者でありますれば、この森へ来る前は重要な任務の途中であったことも考えられます! もしそうであれば、一刻も早く記憶を戻し森を出なければなりません」

『おや、そういう使命感のようなものもちゃんと持ったままなのだね。うんうん、面白い。なかなか参考になる結果だよ。でもダメ』


 さすが神。矮小なる人の事情など考えてくれない。


『君がどんな立場でどんな事情があろうとも、この忘却の森の深部に立ち入ったからには記憶を奪うのが規則だよ。例外は認められない』

「しかし……」


 さらに言いつのろうとして躊躇する。これ以上はダメだ。

 神が例外を認めないと言った。であれば、人の嘆願など聞き入れられるはずがない。それはこの世の理に等しい決まり事。水が上から下へ流れるような摂理なのだ。

 神の決定に、たかが人の身で異を唱えてはならない。


「……くぅ、分かりました。では、森を戻れば記憶も戻るというのに賭けるしかありませんか……」


 たしか記憶は完全には戻らないらしいけれど、運が良ければどうでもいいものだけしか抜けなくて、必要な記憶はすべて残るということもあり得る。

 いいや、なんなら嫌な思い出とか悲しい出来事とか、そういうのばかりを取り除いてくれる可能性もあるのではないか。そうだ、自分の運ならきっとそうなるだろう。たぶん悪いモノだけ選んだように捨てることになるはず。根拠はないけれど自信がある。

 そう考えれば、森を出るのは決して悪い賭けではないのではないか。


『ああ、それなのだけどね。この森の役割は我……つまりこの地に棲まう神が地上世界に大きな影響を与えないよう、隔絶するためのものなんだよ』

「はい? ああ、それはさっき言ってらっしゃいましたね」

『けれど君はこの神域に入って、あまつさえ我の存在を認識してしまったわけだよね。それはちょっとよろしくない。君が出て行けば神がここにいることがバレてしまうでしょ?』


 …………それは、つまり。



『君をここから出すわけにはいけない、ってことかな』

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