心理戦
二人はどこにもいなかった。少なくとも可視範囲にはいない。もう一度岩屋の中を見ても、やはり熊の毛皮の上に座る毛玉しかいない。
森の中へ入って行ったのだろうか。十を数える内に? それはあの双子でも全力疾走をしなければならないと思うが。
『あーあ、本気で逃げられてしまったね。早いところ、怪我をさせてでも終わらせれば良かったのに』
トト神様が呆れた声を出す。まるで、こうなることが分かっていたかのように。
『君がただの迷い込んだお客さんのころは、二人もあの試練を遊びの延長のような気持ちでとらえていたんだよ。けれど君、あの子たちに好かれてしまっただろう?』
「ああ、拙者が勝ったらいなくなるとお気づきになられましたか」
つまり自分を引き留めるため、二人は本気で逃げてくれたということだ。五歩とも七歩とも言わず、見えなくなるほどの距離を。
それは……ちょっと嬉しい。そしてお手上げだ。これでは今日は万に一つも勝てはしない。
もしかしてこの神は、自分を気遣って武器を投げろなんて提案をしたのだろうか。そう考えて、ないな、と思い直す。トト神様はツチノエとミズノトを最優先にしているはずだ。あれは単にこの毛玉の教育方針でしかないだろう。
うん、つまり自分は、トト神様の思惑を一つ潰したことになる。それは愉快ではあった。
「なるほどなるほど。それでは追いましょう」
『……やる気なのかい?』
「もちろん。これは神の試練でしょう? これくらいの難易度でちょうどいいではないですか」
自然、口角が上がるのを感じていた。これが試練の正しい姿なのだ。最初に覚悟した難関である。
やっとやりがいがある。
『まあ、いいけれどね。無駄だと思うよ』
「どうでしょう。勝てないかもしれませんが、無駄にはなりませんよ」
地面を見れば、一目散に走った跡がついていた。
いかに子供の体重と言っても、獣の運動能力と言っても、野ウサギですら走れば痕跡は残るものだ。
これなら追える。
「子供の体力では、長く走り続けられません。そこまで遠くは行っていないでしょう。今は息を整えながら、遠くからこちらの様子を窺っているか、どこかに隠れたか」
『なら走るべきじゃないのかい?』
歩きながら二人の行動を予測すると、ついてきたトト神様が急かす。
「それは森に入ってからです」
ことさらにゆっくりと移動する。トト神様は二人に休む間を与えるなと言いたいのだろうけれど、しかしそれではこちらも消耗してしまう。それでは意味が薄い。
それに追う方と追われる方なら、追われる方が消耗は激しいものだ。
森に入って、すぐにデコボコの多い手頃な木を登った。太い枝の上から見回す。もちろん二人の姿は見えない。それを確認してすぐに降り、樹の影に身を隠す。
べつに高所から見つけられなくても問題はなかった。苔に覆われた地面はけっこう足跡がつきやすい。もっとそっと歩けば目立たなかっただろうけれど、踏みにじられた苔は足の形に寝てしまっていた。
どちらへ行ったかは分かる。
『なにをしているんだい?』
「今のでおそらく、二人は拙者から見えないよう身を隠しました。けれどそれは、拙者から目を離したということです」
もしあちらがどこかから見ていれば、自分はそれを見逃さなかっただろう。なにせ陽光が届かなくて低い木がない、大樹ばかりの古い森だ。幹や根っこなど隠れる場所は多くても、藪などがないせいで隠れながらこちらを窺える場所は存外に少ない。それに足跡の方向でいる場所はだいたいアタリがつけられるから、そちらは特に注意して探していた。
ふむ、と一旦落ち着いてから、落ちている枝を拾って明後日の方向へ投げた。コン、という軽い音がして、身を低くして反対方向へ走る。
大きく張り出した根や、太い木の幹の影をつたって、かなりの距離を移動する。
『音を立ててそっちに視線を誘導して、その隙に身を隠しながら移動する、かな。二人に通用するのかい?』
「さあ? でも二人とも耳がいいですから音に敏感でしょうし、効きそうではありますけれど」
その二人を追うためにしゃべりながらでいいのかと思わなくもないが、自分はかなり小声なので問題ないだろう。そしてトト神様はたぶん、神の力で自分にしか聞こえないように話していると思う。
「――それに、通用しないのならそれでもいいです。今回はお試しのつもりですし、やりたいのは心理戦ですから」
同じように枝を投げて音をたて、別方向へ身を低くして走る。攪乱しつつ身を隠しながら距離を詰めていく。
相手からすれば姿の見えない相手に追われ、いろんな方向から音がして混乱して、とにかく少しずつ距離が縮まっていることだけが分かる感じだろうか。
半神とはいえ相手は子供。おそらく勝てるのは精神面だろう。
ダッ、と。大きく張り出した木の根の影から二人が飛び出すのが見えた。
「どうです、トト神様? とりあえず姿は見えましたよ」
『なら追いかけるべきでは?』
「なに言ってるんですか。まだ遠いですし、向こうはこれで完全に拙者の場所を見失いました。――ここからですよ」