毛皮の寝床
覚えたのは、怒りだった。
美しい人。そう言われて、この神には美しいという感覚があるのだと知った。
人の美しさに惹かれ子を成した獣神は、人を否定し、子たちに獣として生きることを願う。そして人である自分に、人の醜さを示せと仰せになった。
ああ、それはなんとも自分勝手な、ふざけた話であろうか。
「完成です、できました!」
数日たって、しっかりとなめし終えた熊の毛皮を広げてみせる。かなり大きいので、岩屋の中はけっこう埋まってしまった。
たぶんできているはずだ。ところどころ穴が空いているし、毛が抜けてしまって薄い部分があるし、乾かすときにしっかり伸ばせてなくて縮んでしまったところもあるけれど、まあ使う分には問題ないはず。
だから大丈夫。
「アハハ、おもしろい形ー」
「これ、元は熊さんなのよね? しわくちゃで、禿げ禿げで、とっても変だわ!」
使う分には、問題ないはず……!
「そも、拙者は狩人ではなく忍者ですので、こういうことに慣れていないのは当然なのです。むしろやり方を覚えていただけで優秀! 素晴らしき記憶力と言えるでしょう!」
『うんうん、君のそういうところ、我の知り合いの神に似たのがいるよ』
「それはきっと素晴らしい善神様ですね! お名前を拝聴させていただいても?」
『我、これでも慈悲深い神で通ってるからちょっと口を閉ざすね』
この神、しゃべるのに口を使う必要ないだろうに。
「ねえねえお姉ちゃん。これ、どうするの?」
ミズノトが袖を引っ張って聞いてくると、ツチノエがさらにそのミズノトの裾を引っ張った。
「フフーン、これはね、この上で寝転がるとすっごく気持ちいいんだよ!」
ツチノエはそう言うと、お手本を見せるように自ら寝転がってみせる。
毛皮なめしが面白かったのか、よく手伝ってくれていたから、その手触りの心地よさはもう分かっているのだろう。今では新しくトト神様が狩ってきた兎や鹿もなめそうと頑張っていた。
「わあ、本当ね。とってもふかふか!」
ミズノトも寝転がると、嬉しそうにゴロゴロと転がる。勢いが良すぎてぶつかられたツチノエが、ぐぇ、と悲鳴をあげる。
『毛皮なら我の方が柔らかいのだけれどね?』
「トト神様はこの岩屋では眠らないでしょう?」
『忘却の森の維持と監視はけっこう大変なんだよ。代わりにやってみるかい? 一刻で君が五百人は死ぬと思うけれど』
あの巨大な樹のウロでなにをやっているかと思ったら、そんなことをやってたのか。
ここはトキヨツヒマガツトト神の聖域にして子を育てるための縄張り。それをしっかりと管理するのは確かに重要なことだろうし、これだけ広大な森にだんだん記憶が抜けていくなんて法則を付けるのは相当な労力が必要なのだろう。
意外と真面目なのだな、と少し見直す。
『最近は迷い込む者も少ないけれど、人が来たら絶対に遠視で様子を見ておきたいしね。進むたびに違和感が積もっていって、記憶が少しずつなくなってるって気づく瞬間が最高なんだよ』
「いい趣味してますね」
そういえば自分が最初に謁見したとき、トト神様はすでにこちらのことを知っている様子だった。おそらく森に入った時点でとっくに捕捉されていたのだろう。
自分はどうだったのだろうか。……聞こうとして、やめておく。それは、どうしてすべての記憶が消えるまで深くこの森に入ったのか、という疑問への答えだろう。
なら、試練を達成すれば分かる。
「さて、とりあえず一段落しましたね」
視線を子供たちに戻せば、毛皮が気持ち良かったのかまだ昼だというのに眠ろうとしていた。
お昼寝はいい。子供は眠るのも重要な仕事だ。その間に大人は仕事ができる。けれど、今は頑張った自分のために感想がほしい。
「お二人とも、寝心地はいかがですか?」
「気持ちいいー」
「おやすみー」
「今日からこの上で眠れますからね。とても心地よいですよ」
「わあー……」
「ふかふかー」
喜んでくれているようでなによりだ。自分も端でいいから使えると嬉しい。いくら耐え忍ぶが語源の忍者とはいえ、硬い岩の上で眠るのはさすがにつらい。
しかし、コレは好機なのではないか。ちょっとしたいたずら心が芽生えて、ニヤリと口の端を吊り上げる。
「よし、みな揃っていますし、久しぶりに試練に挑戦します」
結局、自分は試練への挑戦を最初の一回しかやっていなかった。
勝てる算段がまだない以上、手の内はできるだけ晒すべきではないし、相手の手の内は観察しているだけで分かるものだ。それに単純に忙しかったのもある。
二人とも試練のことは忘れてしまったのか、やりたそうなそぶりもしなくなったし。
だからアレからやってなくて、これが二回目。目を閉じて十を数える。
この調子では二人とも、毛皮の上で眠っているかもしれない。もちろんそれで捕まえて試練達成、なんてする気はないから勝利は辞退するつもりではあるけれど、これならば人間はズルいことをすると平和的に教えられるのではないか。
そんなふうに夢想しながら目を開くと、二人ともどこにもいなかった。
「さすがに、そこまで油断はしてくれませんか」
苦笑いして、岩屋から出る。……けれど。
「おや?」
二人の姿はどこにもなくて、首を傾げた。