人と獣
「眠りすぎた……」
瞼を開けて赤らんだ空を眺め、大きくため息を吐く。太陽の下でいい香りに包まれて眠るのはとても心地よく、目が覚めたのは夕方近くだった。
昨夜は散歩と称して森の地形を把握していたから、寝不足もあったのだろう。
「いたた……」
身を起こすと身体が軋んだ。岩屋の方もそうだが、堅い岩の上で眠るというのがどうにも慣れない。やはりあの熊の毛皮は早く使えるようにしなければ。
腰をさすりながら見回せば、ミズノトの姿が見えない。どうやら自分が寝こけている間にどこかへ行ってしまったらしい。
まったく呆れてしまう。子供が起きてどこかへ行ったのにも気づかなくて、なにが忍者だろうか。
「日は、もう落ちますか」
西を見れば夕陽は半分ほど顔を隠していた。もうすぐ夜だ。どうやら、今日の試練はもう諦めるしかないらしい。
これは悪いことをした。二人は試練を楽しみにしていただろうに。
もちろん本気を出す気はなかった。どうせなんの準備もしていのだから勝てるはずがない。ただ遊びとして普通に追いかけっこをするだけでも、子供たちが楽しめるなら付き合う意味があるだろう。
『やあ、シノ』
声を掛けられれば、すぐに誰か分かる。振り向くと、大岩がたくさん転がるこの場で一番大きな岩の上に丸い毛玉があった。
「すみません、トキヨツヒマガツトト神様。この時間まで眠ってしまいました」
『ああ、それはいいよ。君は客人だ』
自分の扱いは禁足地に足を踏み入れた咎人ではなかったか。いや、そういえば最初に歓迎するとも言われたか。
咎人と客人は、この神にとっては両立するものらしい。
『けれど我もツチノエとミズノトもお腹がペコペコだからね。食材はもう獲ってきてあるから、また料理を頼めるかい?』
「助かります。今日の食材はなんでしょう?」
『今日は兎だね』
良かった、処理しやすそうだ。
『シノ、聞きたいのだけれど、なぜ人は料理をするんだい?』
「はい?」
料理をする理由を聞かれたのだろうか。するのが当たり前すぎて気にしたことがないけれど。
「まず、そうした方が美味しいからではないでしょうか。もちろん、生で食す方が美味しいものも多いですが」
『それは分かるよ。肉は生で食べるのもいいけれど、煮ても焼いても美味しかった』
とりあえず一番分かりやすい理由を挙げると、トト神様は頷く。どうやら自分が作る料理には満足してくれているらしい。
「それと、食べやすさが違いますね。人の歯で生肉を噛みきるのは難しいですから。もし解体もしていない、毛皮に覆われた熊の肉を素手と歯だけで食べろと言われたら、自分はきっとお手上げです」
『人は弱いねぇ』
「それと、この聖域ではどうか分かりませんが、人がなんの処理もしていない食材を食べると病気になることもあります。しっかり火を通したり、毒抜きすれば安全に食べられるものは多いでしょう」
『弱さが際立つねぇ』
トト神様は深く頷く。
『獣の神からすれば、口に入らないものは食べるべきではないし、食べられないものは食べるべきではないのだけれどね。それは弱肉強食の摂理に反する行為だよ。兎は狐を食べないものだ』
「それは……まあ、そうかもしれないのですが」
『やれやれ、獣たちだけで美しく安定していた地上世界を人はどう侵してきたのかと不思議に思っていたけれど、料理によって獣の理を脱したんだね。食べてみて分かったけれど、なるほどすさまじい薬で毒だよ。我らが作り上げた理をぶち壊す衝撃がある』
たかが料理一つに大げさではないか。
というか少なくとも、人と獣が違うのは料理だけではないと思うのだけれど。
『ハガミハタたちはきっと、美味しいものが食べたくて君たち人を作ったんだろうね』
「それは違うと思いますけれど」
『そうかな? 世界の理を崩すのに足る理由だと思うけれど。お供え物とかに跳びつく様子が目に浮かぶよ。注文も多かったんじゃない? 肉がいいとか魚がいいとか野菜がいいとかさ』
「拙者は記憶がないので分かりませぬ」
どうにも食い意地の張った話題だが、どこか気に入らないといった雰囲気は伝わってくる。――まあ、それはそうか。
トキヨツヒマガツトト神。獣の神。
この神は人を司るものではない。そしてもしトト神様が獣を司るだけではなく、獣を創った神であるならば、それは間違いなく人の神よりも古い神であった。
いにしえにして、獣と時と記憶の神。
ああ、そうか。
「トキヨツヒマガツトト神様」
『なんだい?』
なんとなく理解して、そしたらなんだか、どうしようもなく気になって。
「ツチノエとミズノトの母親は、どんな御方でしたか?」
人の世を否定する神が、どうして人の娘と子を作ったのだろうか。
その問いに、獣神は少しだけ沈黙した。
『んー……とても美しい人だったよ。姿も心もね』
その言い方をするなら、その御方はもうどこにもいないのだろう。