試練開始
ここは忘却の森。踏み入る者の記憶を奪う禁足地。
神がおわすところとは、その神の特色が良く出るという。ここを神域にするトキヨツヒマガツトト神は、獣神であるのと同時に……おそらくそれを可能にするなにかも司る神なのだろう。
記憶。過去。簒奪。喪失。あるいはもっと他のなにか。なんにしろその権能をもってして記憶を抜け落とす場を作れたのだから、その力を自ら振るうことができぬはずがない。
つまり、トト神様の言うとおりでいい。自分はこの森を出られるのだろう。試練を乗り越え、この森での記憶を差し出せば。
「……それは、今のこの自分が死ぬということなのでは?」
朝食は昨日余った熊肉をまた鍋にした。
ともあれ朝餉である。試練の開始は自分の好きな時でいいのだし、であれば食事をしてからでいい。昨日ほど凝ったものではなく、ただ熊肉を薄切りにして塩ゆでしただけだけれど、朝はこれくらいでいい。
『シノは死なないけれど?』
「お姉ちゃんは死なないよ?」
「お姉ちゃんは死なないわ」
自分の呟きに三つの声が返ってくる。
「しかし拙者は記憶を失っているわけで、今ここでこうしている拙者は過去の自身と地続きではないという感覚があります。これで過去の自分の記憶が戻り、今の記憶がなくなるとなると、記憶を失いこの場所で過ごした拙者という存在は全くなくなってしまう。それは死に近いものではないでしょうか?」
『ああ、ずいぶん哲学的なことを言うねぇ』
トト神様は言いたいことが分かってくれたようで、まん丸な目を閉じて角を揺らす。けれどツチノエとミズノトはよく分からなかったのだろう、顔を見合わせて首を傾げていた。
『君という存在を肉体でも魂でもなく意識として見た場合、たしかにそうだね。記憶がないということは過去がないということだから、かつての自分を別人格として考えるのは自然かもしれない。そして君が森を出る時、君はその別人格に身体を返しその肉体を離れる。それは今のシノの死であると言える』
「ですよね」
『しかし、あまり難しく考えるのはよくないな。記憶というのは薄れるものだ。人が生きる時間の内、覚えていることと忘れることの比率は後者が圧倒的だよ。そう考えれば先ほどの言い方だと人は人生の大半が死んでいることになるけれど、それは違うだろう? 過去を忘却したにも関わらず君がクセの強い性格であることから考えても、忘れ去った時間も君をまた形作っている要素なんだ。忘却は失うものだけれど、無にはならないのさ』
クセの強い性格、というのはどういうことだろうか。なんだかさらりと悪口を言われた気がする。
でもまあ……そうなのだろうか。忘却はするものだが、記憶を失っても死にはしない。
正直、そう言われても今の自分がなくなるという恐さはあるが……。
『それに、君はそんなことを心配している場合ではないよ』
そう言われて眉をひそめたけれど、すぐに自分はその言葉の意味を知ることになる。
「では、挑戦を始めます」
朝食が終わってから、さっそく宣言した。というか宣言させられた。
自分としては他にやりたいことは多かったのだけれど、ツチノエとミズノトが期待した顔でいつだいつだと見つめてくるのだから仕方ない。遊びたい盛りの子供には勝てない。
『うむ。これよりシノが十を数えたら開始とする』
神らしい威厳に満ちたトト神様の声。もっと他の時にもそうできないものか。
しかし、数えるのが自分であるのはいいのだろうか? ものすごく早口で十まで数えることもできると思うのだが……などと考えながら、瞼を閉じゆっくりと数える。子供相手にそんな大人げないことはできない。
そうして、十まで数えて、目を開ける。
「始まりだね!」
「始まったわ!」
喜色満面のツチノエとミズノトが両手を挙げて跳びはねる光景が見えた。
自分とわずか、五歩の距離で。
フゥ、と一つ、息を吐いた。
「トキヨツヒマガツトト神様」
『なんだい、シノ?』
「十、数えてもらってよろしいですか」